2.
「まあったく、使えねーなぁあの二人。センスゼロだよ」
ぶつぶつと一人ごちながら、野久保はひとり、夜の街を歩く。
いくら野久保のセンスを持ってしても、無能な部下との会食では良いアイデアが浮かばなかった。吉野と田所とは駅で別れ、行きつけのバーへ向かう。
繁華街の片隅にある、不動産屋や貸事務所の入った雑居ビル。その地下一階、螺旋階段を下った先に、目当てのバーがある。
店内は薄暗く、奥まって狭く、いつもレコードでジャズを流していて、老練の寡黙なマスターひとりが切り盛りしている、そんな店だ。
酒蔵のような雰囲気と、それに見合ったマニアックでレアな酒が置いてあること、たまに見かける常連の客層が気になって、テレビマンとして成功してからの野久保も足繁く通うようになった。いかにもセレブ風のオバンや人間嫌いで有名なベストセラー作家、金を持て余している資産家のドラ息子といった、見るからにアクの濃い変人たちが、この店のカウンターで一人酒を呑んでいる。そんな客たちを観察してきた野久保にはわかった――この店からは得られるものがあると。
今日もささやかな出会いがあることを期待して、野久保は重厚なオークの戸を押し開く。
だが、残念なことに今日の客は野久保だけのようだった。カウンターに立ったマスターが、ひとりでグラスを磨いている。野久保は入り口近くのカウンター席のスツールに腰を下ろし、マスターに声をかけた。
「マスター、久しぶりぃ。どう? 景気は」
マスターは苦笑気味にグレーの口ひげに隠れた口角を上げるだけだった。どうやらこんな場末の小さなバーでも、バブル崩壊の波が押し寄せているらしい。野久保は鼻を鳴らして皮肉った。
「やっぱり? どこも駄目なんだねェ。あれだけ左うちわだった不動産屋なんてみーんな青ざめてるよ。元気良いのは俺みたいなテレビ屋、広告関係ぐらいかなァ? 銀行もすっかり恨まれてるしね。世の中暗くなってイヤんなっちゃうよ」
マスターからの相槌はない。いつものことだ。客は好き勝手に喋っていい。マスターは相槌なく聞き役に徹するだけでいい。それが情緒として味わえる店だった。
野久保は先にお通しとして出されたナッツを食べながら、カウンター奥にずらりと並んだ酒棚のボトルを吟味した。スキヤキ屋は肉こそ上等だったが、酒の種類は少なくて物足りなかった。ここなら自分の好みの酒が迷うほどある。スコッチか、バーボンか、ボトルキープしていた国産ウイスキーか。
野久保が悩んでいると、マスターが突然、ショットグラスを差し出してきた。なかには飴色の酒が注がれている。野久保は驚いてマスターの顔を見つめた。
「あらら、どうしちゃったのマスター? まだ頼んでないよ?」
「あちらのお客様からです」
マスターが手で示すほうへ、野久保はそちらに目をやった――途端、困惑を覚えた。
どうして今まで気づかなかったのだろうか。
店には、先客がいた。
薄暗い店のなかでもいっとう暗がりにある一番奥の席で、その男はカウンターに突っ伏し、腕枕の隙間から野久保を見つめていた。
おそらく二十代半ばの、若い男だった。
中肉中背。イタリア製の仕立ての良いスーツと、テーブルに置いた山高帽がよく似合う、スレンダーな体形の男だ。
男の手前に置かれた灰皿のタバコの紫煙が、スモークのように燻っている。そのなかにあっても、男の髪の色は野久保を瞠目させた。
男の髪は、根元だけが黒く、毛先にかけてブルーグレーに染まっている、というものだった。まるで鮮明な夜空をそのまま髪に映したような、奇抜な色。青群青の髪も、イタリア製のスーツも、似合う人間を選ぶだろうに、男の洗練された雰囲気はそれを許していた。
同時に、雰囲気とは対照的な気だるげな態度が、男に妙な色気を与えている。引き算効果とでもいうのだろうか。男の職は、おそらくホワイトカラーでも、ブルーカラーでもないだろう。スタイリスト、あるいはデザイナーだろうか。
その不思議な男は愛嬌よさげに目元を緩めて、野久保にニコニコと手を振ってくる。
酔っぱらっているのか、どうにも測れない野久保は、とりあえず会釈するにとどめた。この業界、人脈が広いに越したことはないが、それを逆手に取ってあちらから近づいてくる人間があとを絶たない。怪しげな宗教家とか、弱小プロダクションのマネージャーとか泡沫政党の政治家秘書とか――それもまた人脈の一つなのだろうが、野久保は利用するのは好きでもされるのは大嫌いだった。
ところが、野久保にあからさまにそっけない態度を取られても、男は引かなかった。突っ伏した姿勢のまま、片腕を引いて、野久保に素顔をさらけ出して見上げてくる。ややたれ目気味でまつ毛が長い、整った顔立ちだった。
「あー……失礼……。野久保……プロデューサーですよね? 『心霊大辞典』の……。私、あの番組の大ファンなんです……」
洗練された容姿とは裏腹に、男は歯切れの悪い口調で言った。低いが、声にもまた薫り立つような色気がある。野久保はやはり、不愛想に応じた。
「あぁ、そう。酒、ご馳走さんね」
礼を言いがてらショットグラスを煽って――野久保は思わず目を見張った。
男の、いかにも愉快そうな笑い声が耳に届く。
「……ふふ……お好きですよねぇ? ジャックダニエルグリーン……」
野久保は鼻を鳴らした。偶然、好みの酒を奢られたぐらいで動揺は見せない。おおかた、野久保が来る前にマスターにでも聞いたのだろう。
野久保はこっそりカウンターでグラスを拭いているマスターをねめつけたが、濃いグレーの口髭は肯定も否定も映さない――そこで野久保は思いだした。愛想の欠片もないマスターだが、そのぶん客の秘密は絶対に漏らさない守秘義務の塊のような店主だった。ゆえに野久保はこの店に通っているのだった――つまり。
そこでようやく、野久保は目の前の男に興味を持った。だが警戒は緩めない。野久保はつとめて高圧的な口調で問う。
「おたく、どちらさま? 男に声かけられても嬉しくないんだけどなァ。それともウリ専だったりする?」
「ふ、ふふふふ……」
ぞっとする笑い方だった。男は肩を揺らして、一人でくつくつと笑っている。
「あー……申し訳ない……つい面白くて……。面白いと笑いが凝らえられないタチでして……」
どうにもペースの掴めない男だった。気味悪がる野久保とは対照的に、男は楽しそうに笑っている。
「ふふ……失礼……こちらは空気が薄くてね……喋るのも身体を動かすのもしんどくて……元気なんですよ、これでも……」
やがて笑みを収めて、ふう、と一つ息を吐いた男は、肘をついて身体を起こした。気だるげに頭を支える様は、とても元気なようには見えなかった。
男はひどく億劫そうな口調や態度とは裏腹に、舌は回るようで、愉快そうに言う。
「ご挨拶が遅れました……。ハイ、これ名刺」
そう言って、男は名刺を差し出してきた。野久保はそれを無言で受け取る。
民俗学者というよくわからない肩書の下に、『
「あのー、おたく、もしかしてどこかの会社の営業マン? 会社を通さない営業はお断りしてるんだけどな―」
「……単刀直入に申し上げます……」
男は野久保の質問には答えず、カウンターを滑るように腕を動かし身を乗り出して、野久保に顔を近づけた。
色素の薄い瞳に見つめられ、野久保は一瞬、気圧される。
「心霊写真、買いません……?」
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