7.歴


 透明な波が、歴の足元に押し寄せている。


 歴はそのうえに、紙の船をそっと浮かばせた。

 船の上に、坂木が用意してくれたワンカップのお酒をそっと置く。


 本来、シオクリは遺品や遺灰を船に乗せるものだけれど、故人の好きなものを送っても良いのだと、歴は先ほど曜から教えてもらっていた。


 紙製の華奢な船なのに、五百ミリの酒瓶を置いても不思議と壊れたり沈んだりしない。かすかに水面を揺らすばかりで、むしろ頑なに沈もうとはしなかった。

 それは歴には、武明小父があの世にいくのを拒んでいるように感じられた。


「小父さん……」

 歴の思い出のなかの武明小父は、いつもお酒を美味しそうに飲んでいた。


 その姿を遠巻きに見ていた親戚が、“酒だら”だと呆れていたのを、歴は聞いたことがある。あれは酒に呑まれてんのさぁ、あんな酒の飲み方はダメよ、いつか身を滅ぼすよ……。


 その親戚の予言は果たして当たったのか――小父は三十代の若さで、亡くなった。自ら、命を閉じて。


 歴は、学校を休んで通夜と葬式に参列した。大人に倣って焼香をして、火葬場にもついていって骨を拾った。そうすることで、小父とちゃんと“お別れ”することになるのだと、周りの大人たちは教えてくれた。


 なのに、歴の気持ちは、全然晴れなかった。

 ちゃんとお別れできなかったという思いばかりが、歴の心を占めていた。


 ――小父の縊死が、自分のせいかもしれないと思っていたから、なおさら。

 それは違うと坂木に否定されて、でも今になっても晴れない気持ちを、歴は自覚していた。


 何日経っても、どう慰められても、大事な人を失った悲しみは消えない。

 きっと、一生。


「バカだよね……。生きてるときは、小父さんを大事にしようと思ったことなんてなかったのに……」

 歴は手の甲であふれ出る涙をぬぐった。

「いまさら……小父さんが死んでから、会いたいなんて思うなんて……」


 歴は船に向かって、手を合わせる。

 しっかりと感謝の気持ちを口にして、武明小父が生きているうちに言えなかった言葉が、言霊になるように。

 言霊になって、武明小父のところにちゃんと届くように。


「小父さん、ありがとう……ほんとうに、ありがとう。おれに、大事なことを教えてくれて……。……小父さんのこと、忘れないから……だから安らかに眠ってください……」


 ――死によって魂は海に還る、と曜は言った。


 言霊はシオクリによって、小父の大好きだったお酒と一緒に船に乗って、小父のところに届くのだろうか。

 けれど歴に、それを確認する術はない。


 あの世に逝ってしまった人の気持ちを、知る方法なんてない。

 そんな当たり前の事実が、いまの歴には少しだけ悲しかった。


 歴はもう一度、涙を拭った。立ち上がって、歴を見守っていてくれたであろう大人たちを振り返る。


 坂木は、やはりどこか楽しそうな顔で、遠ざかる船をずっと見送っていた。やゐ子婆はずっと歴を見守ってくれていたようで、目が合うと笑顔で頷いてくれた。曜は、心配そうに紡希の様子を窺っていた。


 ――紡希。


 歴のすぐ後ろに立っていた紡希は、少しだけうつむいていた。横に頭をぐらぐらと揺らして。

 少し疲れたのかな、と歴はまず思って、すぐにはっとして考えを検めた。


 違う。

 この短い間に、歴は紡希のこの仕草を何度見ただろう? そしてそれは何を意味していた?


 つい先日、この様子は、だと教えてもらった。そう、柳原長舟に注意され、不来方曜に説明されたのだ。この状態の紡希には触ってはいけないと。なぜなら紡希のなかに死んだ女子学生が、


 ――

 紡希のなかに、誰かが。


 紡希の隣にいた曜が、揺れる紡希の身体を支えようと歩み出したが、

「曜、いい」

 坂木に止められ、曜はぴたと足を留めた。 


 紡希の頭が、ゆら、ゆらと振り子時計のように大きく揺れ始めた。歴は紡希の名を呼ぶ。

「……紡希……」


 ――歴ちゃん。


 それは確かに、小綿紡希の喉から発せられた言葉だった。


 だが、口調がまるで違った。別人が、紡希の声を借りて喋っている。


 誰何するより早く、恐れるよりも考えるより早く、歴の目元に涙が浮かんでいた。


 考えなくてもわかる。しっかりと呂律の回っていない喋り方。酒やけして、ガラガラになった声を人が聞き取りやすいように大声で喋るクセ。

 頭を揺らした紡希が――武明小父が、言った。


 ――ありがとう。ありがとうなぁ。


「……小父、さん……」


 ――迷惑ばりかけて悪かったなぁ。ごめんな。ごめん……。


 歴の目から、涙が流れた。泣くなんて子供みたいだからずっと嫌だったのに、涙を拭おう抑えようとするたび歴の目からは透明な涙が溢れてきた。

 小父の死を知ったときも、葬儀のときも、麻痺したように留まっていた子供の嗚咽が、いまになって堰を切って溢れた。


「いい、よ……謝らなくても、いいよ……」

 震える紡希の身体を、歴は抱きしめた。


 おこりのように震えた少女の身体は、冷たく冷え切っていた。生きているはずの紡希の身体から感じる、死の――遠い彼岸の体温。


「小父さん……ありがと……ありがとう……。おれ……小父さんに会えて、よかった……ほんと……ほんとうに……そう思って……」


 紡希を抱きしめたまま、歴は泣いた。幼児のように泣きじゃくった。言霊なんて立派なものじゃない。文章にもならない拙い言葉で、けれども一生懸命に想いを吐き出した。


 歴の肩ごしに、紡希が――武明小父が、少し微笑んでいたのがわかった。


 ふいに、紡希の頭が、がくりと歴の肩に垂れ、


「おじ……」

 歴は紡希から身体を離して、その様子を窺った。


 紡希は目を閉じて、歴の肩に頭だけを乗せている。つかれた、と小さな声がした。それは紛れもなく、小綿紡希の声だった。


 ずっと見守っていた坂木が朗らかに笑って言った。

「歴ぃ、良かったな」

 それは、坂木なりの終わりの合図だと、歴は悟った。


 海を見る。

 ワンカップを乗せた紙の船の姿は、海のどこにもない。


 黄海に還ったんだ、と歴は理解した。


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