6.歴


「あらぁ、めんこいごだー」


 満面の笑みでそう語りかけられ、歴は思わずはにかんだ。

 目の前にいる老婆――やゐ子婆は、歴の頬を皴だらけの両手で挟んで、楽しそうにむにむにと揉んでいる。揉まれすぎて歴の眼鏡ががちがち揺れているが、そんなことはお構いなしに揉んでいる。

 やゐ子婆はひとしきり歴を揉んで満足したのか、紡希にも同じように頬を揉みだした。紡希は「うぉおお」と悲鳴とも雄たけびともつかない声をあげている。


 タンポポのぶんと、武明小父のぶん。二つの紙の船を完成させた歴は、不来方曜と、曜に連れられた紡希と合流した。


 二人は曜に案内され再び控えの間に通されて、そこに現れたやゐ子婆に装束を着せられた。歴は白衣から袴まで全て白、紡希は白衣に袴が赤だ。着替え終えて、で、なぜか頬を揉まれている、というわけだ。


はっっちゃんと天業てんごうくんのお下がりだけど、よっぐ似合ってるねー。めんこいめんこいでがすー」

 やゐ子婆はしきりに満足したように頷いて、紡希の頬から手を離した。


 歴は、紡希と目を合わせた。

 もともと丸かった紡希の頬っぺたは、やゐ子婆によって揉みに揉まれてピンク色に染まり、子供向けアニメの主人公みたいな顔になっている。

 歴が思わず吹き出して笑ってしまうと、紡希に目を細めて見つめられた。睨まれた。


「さ、んで二人とも、ちゃんと着替えられたねー。そしたら婆ちゃんについてあばいんね」

「はーい」「はい」

 二人はやゐ子婆に案内されて、玄関から屋敷の裏手へ回った。飛び石の足跡を追うように、砂利道をついていく。


 庭、さらに大きな蔵を超えた先、門沿いに屋敷をぐるりと回って奥には、浜辺があった。

 先ほど歴が床の間のある部屋で見た、庭先まで流れ込んだ池――いや、海。その終点だ。押し寄せる波が、静かな波音を立てている。


 波打ち際では、坂木と曜が立って何事か話していた。二人とも歴たちと同じように装束――白衣と水色の差袴――に着替えている。いかにも似合いそうな曜はともかく、坂木はオレンジ頭なのに、とても様になっていた。


 そのオレンジ頭が、やってきた歴たちにまず気づいて、笑いかけた。

「さ、準備いいか?」

 歴と紡希は同時に頷く。坂木は満足そうに、そして楽しそうに笑い、


「んで、やっか」

 そう言って、海の方を見やった坂木の視線の先を、歴も追った。


 夕暮れの浜辺は、海面から靄が立ち込めて、幻想的な景色を作り出していた。


 波打ち際に、一列並びになった波が、白く押し寄せている。手を繋いで前へ前へと進んでいく様は、花いちもんめを歴に思い起こさせた。


 それに合わせて、潮騒の音が優しく流れる。

 ひとつの優しい楽器のような音は、荘厳な静謐を纏って、まるで自然の竪琴のように心を洗ってくれた。鳥居のすぐ手前の海面には、数えられるほどの行灯が、一つ、また一つと浮かんで、コンロの火のように青い炎を灯していた。


 海の果て、水平線では、朱の鳥居が、歴たちを見つめているように鎮座していた。海面は、静かな揺らめきのなかに荘厳な朱を映している。


 海だ。

 ここは紛れもなく、海の一部だった。


 曜が、浜辺で膝を折って、誰にともなく言った。


「海に囲まれたこの国の人々――とりわけ海の恵みを糧に生きてきた人々は、海を古くから信仰の対象にしてきた」


 曜の細い指先が、水を掬いとる。指の腹に打ちあがった小さな海水の一掬いは、逃げるように母なる海へと流れ帰っていった。


「ぼくたちの祖先は海からやってきたと云われている。……だから人間は、肉体という袋のなかに海を抱えて生きているそうだよ。そして死によって魂は海へと還る。黄泉よみ――黄海よみは、ぼくたちの故郷であり身近な異界。はじまりであり終わりの場所。ぼくたちにとってのアルファでありオメガだ。……シオクリとは、海を介してあちらとこちらの橋渡しをすることだ」


 朗々と語り終えた不来方曜は、腰を上げた。

 それを合図とするように、坂木が宣言する。


「……んでは、シオクリを始める。準備はいいな」

 曜が頷き、歴と紡希も倣った。


 やゐ子婆に背中を押されて促され、まず紡希が進み出た。

 その腕の中では、歴が折った紙の船が大事そうに抱えられている。


 紡希は渚に紙の船を浮かせ、そのうえにタンポポをそっと横たえた。

 海面に浮かせられた船は、まるでどちらへいったらいいか迷いあぐねているように、針路をくるくると変えている。


「言の葉に乗せて送ってやる」

 坂木がまず、そう説明して、次に曜が引き継いだ。


「言霊は祝いにもなるし呪いにもなる。きちんと声に出して、自分の気持ちを正直に伝えてごらん。拙くてもいい。多少恥ずかしくても。――あ、神様じゃないから、お願いごとはしないようにね」


 紡希は、曜の言葉にしっかりと頷いた。

 しゃがんで、船に乗せたタンポポに声をかけた――謝った。


「タンポポさん、ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。もう二度としません。タンポポさんの仲間にもぜったいにしません」


 紡希が言った、途端、タンポポを乗せた船は動き出した。

 ゆら、ゆらと波打ち際を漂っていた船は、やがて心を決めたように鳥居の向こう、沖へ針路を定めた。

 そして静かに、静かに、紙の船は海へ流れていく。


 長い時間をかけてそうして、やがて船が鳥居を越えたころ――船は、すっ、とかがんだように身を沈めて、それきり、見えなくなった。


 海へ沈んだのか、霞のなかに消えたのか――歴は呆然と呟く。

「消えた……」

「黄海へ還ったんだよ」

 曜が、そう説明してくれる。

 

 紡希は、坂木を見上げて聞いた。

「……つうじた? 紡希の気持ち」

「あぁ、通じたよ」

 坂木に言われて、紡希はようやく、頷いた。そして海に向かって、深々と頭を下げた。


 紡希を見守っていた坂木が、今度は歴へ向き直る。

「歴、次は小父つぁんだ」


「――……うん」

 頷いて、歴は足を進め、波打ち際へ近づいた……。

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