8.
遠くに救急車のサイレンが聞こえる。
歴は、紡希の手を引いて昇降口まで降りてきていた。
女生徒は、地面に敷かれたシュラフのうえで身を横たえている。その横で長舟と、ワゴン車から降りてきたらしい曜が女生徒の様子を窺っていた。
歴が屋上で見た、長舟の手にあった透明な網は、幻だったかのようにどこにも姿が見えなかった。
曜が女生徒を軽く検めながら、冷静に言った。
「うん、怪我はないみたいだね。間に合って良かったよ」
学校に集まっていた野次馬や、部活帰りの生徒たちが女生徒の周囲に集まるのを、他の教師たちが懸命に追い返している。
なかでも養護教諭らしい白衣の女性が、慌ただしく周囲の教師に指示を飛ばしていた。指示を受けた若い男性教師たちが、バタバタと毛布や担架を運んできて、女生徒を担架に乗せた。
女生徒は、抵抗しなかった。両腕で顔を隠して、ただ泣きじゃくるだけだった。
周囲の困惑も混乱も、何もかも拒絶して、赤ん坊のように泣いている女生徒。
彼女の側からわずかに人が掃けたタイミングを待っていたように、それまで黙りこくっていた紡希が前に進み出てしゃがみ、女生徒の手を握った。
紡希の手には、あの――断ち切れたリボンが巻き付いていた。
「ユミちゃん」
名前を呼ばれ、女生徒が顔を隠していた腕をわずかにずらして、真っ赤に充血した瞳で紡希を見た。その目には、当惑の色が映っていた。
「……だれ……? この子、だれ?」
「この人は……」
説明しようとした歴を、誰かが後ろから腕を引いて制した。
不来方曜だった。歴の目を見つめたまま、無言で首を振る。
――何もしてはいけない、とその瞳が語っていた。
歴は頷いて身を引いた。再会した二人の間に割り込んではいけないと、深く理解する。
紡希が、女生徒にとつとつと語る。
「リボンは――あのリボンもロープもね、最初から、少し切ってたの」
「え……?」
「ユミちゃんには、もしかしたら死んでほしく、なくて、切ったの」
そう言って、紡希は彼女の手首に、千切れたリボンをゆるく巻き付けた。
女生徒の顔が、みるみる強張る。見開かれた目が、信じられないものを見たように紡希を見つめていた。
「なん……どうして――どうして?」
女生徒は乗せられたばかりの担架から身を乗り出そうとする。養護教諭がそれを叱りつけて留めた。
曜が紡希を立ち上がらせて、歴のもとへ連れてきた。悄然とした様子の紡希はそこで立ち止まり、全身を振るわせて大きく息を吐いた。
「待って……! ねぇ、待ってよ……!」
女生徒は弱々しく叫んだが、その訴えが聞き届けられることはなかった。
駆けつけた救急隊員によって、彼女は救急車へと運ばれていく。ベルトを締められ、担架から落ちないように。もう決して命を投げ出さないように。
「ミキ! ねぇ! ミキぃ!」
扉が閉まる寸前まで、女生徒は悲痛な叫びを紡希に向けていた。紡希は、彼女に背を向けたまま、何も言おうとしなかった。
救急車のドアが閉まる。サイレンの音が鳴る。
女生徒と養護教諭を乗せて、救急車は走り出した。
屋上で起こった事件も、かすかな再会も、全て置きざりにして。
「……一方は死んでほしくなくてリボンを切ったのに、一方は死ねなかったことを苦にして死のうとする。複雑だね、長舟」
「いっしょに引かねぇぶんだけ、良い友達ってワケだな」
「ぼくは死んでも、長舟を引かないから安心してね」
「縁起でもねぇこと言うな」
長舟と曜がそんな会話をしているのを、歴は意識の外で聞いていた。
騒動に集まっていた人たちも、やがて、ぽつ、ぽつと散っていった。教師たちは生徒たちを解散させて、近所の人たちはそれぞれの家に戻っていく。
だいぶ人が掃けたころ、長舟が口を開いた。
「さ、歴、紡希、二人とも帰っぞ。家まで車で乗せてっから」
「はい、お願いします。……紡希、自分の家、わかる?」
紡希は、ゆっくりと歴を振り返った。
厚い前髪の奥で、水面色の瞳が、ひとつ瞬いた。
「――うん」
小綿紡希は、そう、はっきりと答えた。
「あ」
ふと、歴は声を挙げた。
紡希が、不思議そうに首を傾げる。長舟と曜も、振り返って歴を見た。長舟が尋ねる。
「どした?」
「いや、いま初めて……紡希とちゃんと話せた気がしたんです。そんな訳ないんだけど」
長舟と曜が顔を見合わせる。
やがて曜が、柔らかな笑みを歴に向けて言った。
「じゃあ、はじめまして、なんだね」
曜にそう言われ、歴はようやく心の奥の何かがしっくりと来るのを感じていた。――どうしてかはわからないけど。
歴は紡希の目を見つめ、手を伸ばす。
「はじめまして……はじめまして、小綿紡希」
「こちらこそ、はじめまして、委員長」
紡希は、そう言って手を握り返してくる。
歴は呆れ、
「委員長って……下の名前で呼んでいいよ」
「名前、知らない」
「ええっ」
「苗字も知らない」
「えええええっ」
横で聞いていた長舟が、腹を抱えて笑っている。
歴は、長舟の運転するワゴン車に乗って外の景色を眺めていた。
外は夕暮れから、すっかり夜の様相を呈している。隣では、紡希が涎を垂らして眠っていた。
紡希に憑いていた彼女は、もういない。帰路に着くなかで、曜はそう言い切った。
歴はその言葉を信じた。紡希に憑いていた誰かは、リボンを届けた。遺志を達したのだ、と理解していた。
それにしても――。
涎を垂らす紡希を横目でちらと見て、歴はあらためて思う。
紡希の不可思議な行動は、本当にこれで終わりになるのだろうか。またあんな風になったとしたら、歴に出来ることは何なのだろう――。
そんなことを考えているうちに、長舟の運転するワゴン車は勿来駅前に着いていた。
歴は紡希といっしょに駅のロータリーで降ろしてもらう。運転席に乗ったまま二人を見送る長舟は、気づかわしげに言った。
「ほんとに駅でいいのか? 家まで送ってくぞ?」
「大丈夫です。おれは自転車あるし、紡希の家はここから近いみたいだし」
「そか? ならいいけどよ」
「はい。今日は本当にありがとうございました。とってもお世話になりました」
「あぁ、お疲れさんな。寄り道しねぇで帰れよ」
長舟は笑って答えた。次いで、助手席に乗ったままの曜がひょっこり顔を見せた。
「あぁ、そうだ。迫間くん、お屋形から伝言預かってたよ」
「はい? なんでしょう?」
「小父さんが死んだのは、お前のせいでね、だって」
歴は、返事も忘れて硬直した。
騒動にかまけて忘れていた――すっかり慣れたこの二人の青年が、誰の使いだったかを。
その人物は、いったい何が出来る人なのかを。
固まり続ける歴に、曜はにこやかに笑いかける。
「またいつでも来てね。待ってるから」
そうして、二人の青年が乗った車は、夜の闇に消えていく。彼のボス――拝み屋の待つ町に。
「……塩ヶ浦」
その背中を見送りながら、歴は口の中で呟いた。
何が終わりになるものか。
事態はまだまだ続いていく。
なぜなら、歴にとってはまだ始まってさえいないのだから。
「――紡希、おれ、また塩ヶ浦に行くよ」
歴の後ろにいる紡希が、不思議そうに瞬きをした、気配がした。
歴は、紡希に宣言する。
「……確かめなきゃいけないことが、あるんだ」
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