7.
「紡希、あそこ!? あの中学校でいいの?!」
歴が尋ねると、紡希が固い表情で頷いた。
長舟の運転する車の向かう先に、中学校の校門が見えていた。曜によると県内屈指の進学校だというこの中学校に、紡希は――紡希に憑いた誰かは、歴たちを導いた。
クサカベキミという自分の名前、事情、そして友達が死に近づいていることを、断片的に説明して。
歴はもっと多くの説明を求めたが、曜も長舟も十分だと言って、それ以上彼女から話を聞きだすことはしなかった。
あちらの人たちは言葉を伝えるのが難しいんだよ、と曜が言って、歴はとりあえず自分を納得させることにした――今はそれどころじゃないということだけを理解して。
長舟がワゴン車を校門脇に横付けさせる。
窓越しに外の様子を窺っていた歴は、そのとき異変に気づいて声を挙げた。
「変だよ、なんか人がいっぱいいる……!」
校門と昇降口の間に、生徒や近隣の住民らしき人が集まっていた。彼らはみな一様に、不自然に屋上を見上げている。
歴がその視線の先を追ったとき――横で紡希が叫んだ。
「ユミちゃん!」
いつものボソボソとした喋り方とはまるで違う。切迫した声で、見知らぬ誰かの名前を叫んだ。
その“見知らぬ誰か”思わしき人物は――いま、屋上から身を乗り出して、人々の注目の的になっている。
ワゴン車からは遠すぎてはっきりとは見えないが、一つに結った長い黒髪と、ひだスカートのシルエットが見えた。おそらく、この中学校の女子生徒。彼女は屋上の柵をすでに乗り越えて、頼りない縁に足をかけていた。
縁を越えれば、そこはもう地上数十メートルの中空でしかない。彼女の膝は、遠目にも震えているのがわかった。風の気まぐれや、あるいは彼女自身の選択によって、あっけなく五階から地上に落ちてしまうだろう。
歴が彼女に注視している間に、紡希は歴と曜の間を越えて、ワゴン車のスライドドアを引いて校舎へ向かって走り出していた。
「紡希! 待って!」
歴がシートベルトを外して追いかけようとすると、運転席の長舟が驚くほど冷静に言った。
「歴、紡希ば頼むな」
「はい! ……長舟さんと曜さんは……?!」
「ぼくは走れないからここで待機するよ。長舟は――」
「俺はもしもに備える。……曜、スルメけろ」
「はい」
こちらも落ち着いた様子の曜が、自身の手荷物から駄菓子――スルメの袋を取り出して運転席の長舟に渡した。
長舟はスルメを口にくわえると、歴を振り返って、例の少年のような笑顔を向けてきた。
「ほれ、急げ」
委細を確認している暇はなかった。「……わかった!」と歴は頷き、紡希のあとを追って車を飛び出した。
昇降口前に集まった人々は、救助を呼ぶことも、自分たち自身が助けに向かうこともなく、手すりを乗り越えた女子生徒を見上げるばかりだった。
歴は彼らの間をすり抜け、紡希のあとを追う。
昇降口の扉は開いていた。下駄箱の横を走り抜けて、階段を駆け上がっていく紡希が見えた。歴はその背中を追いかける。
息と切らせながらひたすらに走り続けて、階段の頂上、屋上へ繋がる扉を開けたとき、歴の目の前には異様な光景が広がっていた。
現場を遠巻きに眺める中学生たちの背中の垣根があって、その観客席からバッターボックスぐらいの位置に一人で立つジャージ姿の男性教師の姿。ピッチャーマウンドぐらいの距離に――柵を乗り越えた例の女子生徒がいた。
先頭に立っていたジャージの男性教師が、女子生徒に向かって声を張り上げている。ほとんど怒号に近かった。
「北野! やめろ! こんなバカなことは……」
「バカなこと!? バカだって言ったの!? あたしたちが選んだことを!?」
教師の説得は逆効果だった。北野と呼ばれた女生徒は、ますます興奮した様子で叫び返した。
「いつだってそうだった……! 口だけ相談に乗るだの助けになるだの言って、アンタたち教師は何もしなかった! ミキがあんなに苦しんでいたのに! お前たちは!」
女生徒はほとんど泣き叫んでいた。教師は何か言おうとまごついているが、生徒たちは「まじ?」「大丈夫なの?」と野次馬のように様子を窺うだけだった。歴の感じた違和感はますます大きくなった――なんだろう、この温度差は?
女生徒がさらに訴える。
「あたし、失敗した。一緒にいこうって約束したのに、ミキをひとりでいかせちゃった。……でも今度はしくじらない。ぜったいに、しくじらないっ!」
「どけて! 道を開けて!」
そのとき、人垣のなかから紡希の声が聞こえた。
歴は我に返ってそちらに視線を送る――歴から少し離れた場所で、紡希が中学生たちの垣根を分けて先へ進もうとしていた。だが、人垣に道を阻まれて、全く進めていない。
「紡希! こっち!」
歴は紡希の手を引いて先へ導こうとした――しかし。
「お願いします! 道を開けてください! ……どけて!」
なんだよ、小学生? こいつらなに? ――他人事のように中学生たちは呟くばかりで、歴たちに道を開けようとしない。
歴は思わず舌打ちをしていた。
違和感の正体がわかった。観客たちはまるで状況がわかっていない。それどころか、目の前で始まろうとしている悲劇を、まるでショーでも観るかのように待っていた。そう、待っていた。
「……同じ学校の生徒なのに! どうして!」
歴は人垣に揉まれながら、もどかしく訴えた。だが、ショーに夢中になっている彼らの耳には入らない。――どうして。
「……いま、いくからね、ミキ」
浮き足だった観客たちの声に混じって、その声がはっきりと歴の耳に届いた。
歴は目を見開いて、前方を見た。
苛立ちが混じって力任せに切り開いた人垣がようやく切れて、歴のすぐ目の前に体育教師の背中が見えたところだった。いかにも厳ついジャージ姿の男は、「あああっ!」と情けない悲鳴を上げて、無意味に中空に手を伸ばした。バッターとピッチャーの距離感、絶対に届かないその指の先には女生徒がいて、彼女をこの世に繋ぎ止めていた柵からついに手を離した。
弾かれたように、紡希が駆けだした。
「ダメ―――!」
歴がその小さな背中を追う、
しかし、間に合わない。
紡希の手が伸びる。絶望的な距離。
落ちる寸前、
「――ミキ?」
紡希を見つめた女生徒は驚愕の表情を浮かべた。
けれども、時すでに遅く。
女生徒は、そのまま落ちていく―――。
世界が減速するのを、歴は感じていた。
紡希と歴は、駆けだした勢いのまま、屋上の柵へ飛びつき、身を乗り出して下を覗きこんだ。
女生徒の身体は、歴たちを見つめたままゆっくりと落ちていった。呆然と見開かれた瞳と目が合う。手を伸ばせば届くはずなのに、重力がそれを許さない。
歴は彼女が飛び降りたさまから視線を外すことが出来ず――「あれ?」と声を挙げた。
彼女が落ちて、無惨な姿をさらすであろうちょうど真下の地面、野次馬の群衆と離れたところで、一人の人間が立っているのを見つけた。
歴はメガネの奥の目を凝らす。
それは知り合ったばかりの、少年のような瞳の青年――柳原長舟だった。
自らの頭上に人が落ちてくるというのに、長舟の様子には一切の動揺がなかった。散歩に来たらたまたま出くわした、とでもいうように、悠然とスルメを噛んでその場に屹立している。
。
長舟は腕を不自然に交差させた形で、地上に落ちゆく少女を静かに見つめ――そして一方の拳を肩に、一方の拳を腰に向かって、ぐっ、と引いた。
歴の目には、その拍子に空中へ何かが跳ねあがったように見えた――何かは視覚化ができない。ゆえに言葉でうまく表現することもできない。
歴の目に映ったのは、切り詰めた風切音と同時に地上から透明な網のようなものが飛んできた光景。それから少し遅れてカン、カン、と金属音のような音が聞こえて、網らしきものの端と端とが電柱と校舎のベランダとに引っかかり、小さな螺旋を描いて巻きついたこと。
それはあたかも漏斗のような形で空中に大きく広がって、落下する女生徒の身体を優しく受け止めたこと。
えっ、と地上にいた人のざわめきが聞こえた。
少女の身体は電柱とベランダ、ちょうどその間に絡めとられたように浮いていた。
やがて、トランポリンが一番深くまで沈みこむように、彼女の身体は見えない網の底まで抱きとめられる形でぐっと沈んで、地上へ音も衝撃もなく降りていった。
周囲を静寂が包みこんだ。
それで終わって、それが終わりになった。
振り返る必要もないほど、一瞬の出来事。
騒然としていた屋上も、多くの人が集まる昇降口前も、音が切り取られたように静かで。
かすかに、誰かのすすりなく声が聞こえた。屋上ではない。昇降口前でもない。
その声は、透明な網の上から確かに聞こえた。
生きている。
屋上から飛び降りた女生徒は、生きていた。
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