5.
窓際に座った紡希は、座席シートに座っているだけでもしんどいようだった。窓にもたれ、荒い呼吸を繰り返しながら頭を揺らしている。歴は心配になって尋ねた。
「紡希、大丈夫……?」
「つらいと思うよ。いま、自分が誰なのかもよくわかっていないはずだ」
――この人は。
紡希に代わって答えた曜を、歴はあらためてまじまじと見た。
真摯な眼差しを紡希に送りつつ、淡々と状況を語る曜は、保健の先生というよりむしろ、研究者か学者のようだった。
「状況を確認させてほしい。小綿紡希さんは深隅の森から何かを拾い集め、落とし主、ないしは届け先を探していた。迫間歴くん――きみはその手伝いをしていて、今回も何かを拾ったから、いっしょにお巡りさんを頼った。そうだね?」
歴は首肯した。曜は質問を続ける。
「紡希さんは、前にもこんなふうになったことがあった?」
「こんなふう……?」
「集中力がなかったり、喋ってることに一貫性がなかったり、首が熱かったり、意味もなくフラフラ歩いたり」
「いえ……。少し変わったことをすると思ってましたけど……」
言ったあとで、歴は思いだした。
あったのだ。色んなことがありすぎて忘れてしまったけど、時々不思議なことを口にすることが。つい、先週に。
「……実は、前にも少しだけあったんです。でも、こんなにひどくなかったと思います」
曜は、そうか、と悩むそぶりを見せ、黙りこんだ。
その隙を見計らって、歴は逆に質問する。
「あの、おれから聞いても?」
「どうぞ」
「紡希は――どうなるんですか?」
「そうだね……」
と曜は前置きし、
「……この状態は、決して痛かったり死んだりということではないんだ。でも、とても危険だし怖いと思う」
痛くないのに危険というのは、少し矛盾した話に歴には思えた。
曜はさらに続ける。
「ぼくはさっき、何かが降りてる、取り憑いていると言ったよね。彼女は素人だから、正しくいえば憑いてるんだ。何か――広義で霊と呼ばれるものが降りて、彼女に取り憑いてしまっている。長舟のボスのところにいけば大体は解決して、大体は去っていく」
でも、とそこまで言って曜は表情をじゃっかん、曇らせた。
「憑いているというのはそう単純な話じゃないんだ。小綿さんか、憑いている方か、あるいは両方になんらかの強い因果―――理由があるとすれば、簡単には抜けていかない。下手すれば一生憑かれることもある。最悪の場合、人生を左右されることも」
「曜、ガキを脅かすなよ」
「でも事実だよ、長舟」
運転席から口を挟んだ長舟に対して、曜はつとめて冷静に返した。少し冷酷とも思える口調。
意味、と聞いて、歴は思い出した。
現在の紡希の異変に意味があるのだとすれば、原因はひとつしか考えられない。
「あのリボンが関係してるのかも……」
「森で拾ったというやつだね。どこにあるのかな」
返事のかわりに、歴は紡希のポケットから慎重にリボンを拾い上げ、曜の前にかざして見せた。
リボンを見つめた曜は、くっきりとした二重瞼をすっと細めて言った。
「……ぼくには視えないな。やっぱり、お屋形のところにいかないと……」
「おやかた?」
「長舟のボスで、ぼくより広く深く、正確に視える人。拝み屋さんだよ」
拝み屋、と歴は反芻した。
さきほどもお巡りさんから聞いた言葉だ。だが、とてもざっくりした説明しかされていない。
「拝み屋という職業を、詳しくは知らないよね」
言って、曜はわずかに身を乗り出した。
「君たちがこれから行くところは、塩ヶ浦町という。知ってるよね?」
歴は頷いた。さっきも同じことを警察に聞かれたばかりだ。
「ええと、漁業で栄えてて、神社が有名で……」
「そう。今はくたびれてしまってるけど、とても歴史のある街なんだ。……ほら、見えてきた」
車の進行方向に、濃い色の樹木が生えた小山が見えてきた。歴は目を凝らしてその先の光景を窺い見る。
あの森のなかに抱かれるように、朱に染まった神社が厳かに鎮座していることを、歴はわずかに覚えていた。町と、海を見下ろす――いや、見つめるかのように存在している神社だ。
だけどその詳しい由来を、歴は知らない。
「あそこが、塩ヶ浦神社。およそ千五百年以上の歴史がある、奥州一の宮だ」
「そんなに、古くから……」
曜の説明を聞いた歴はあっけに取られた。塩ヶ浦の近隣に暮らして二年以上になるが、縁起を聞くのははじめてのことだった。
曜はさらに説明を加える。
「あの歴史ある塩ヶ浦神社の麓では、昔から参拝客を相手に、易者やオカミサン、あるいはイタコといった人たちが商いをしていた。君たちがこれからお世話になる人も、そういった稼業のひとつ――拝み屋さんなんだよ」
「……その人のところにいけば、リボンの届け先は見つかるし、紡希は治るんですね?」
曜ははっきりと頷いた。
歴はほっと息を吐く。一時はどうなることかと思ったが、どうやら解決の糸口が見えてきた。
安堵し、うつむいている紡希の顔を覗きこむ。
「紡希、聞いてた? もうすぐ解決するって」
ずっと揺れていた紡希の頭が静止している。眠ったのか、と歴は思ったが、紡希はちょうど薄く目を開いたところだった。
「早くして」
やや険のある目つきで――いや、歴を睨みつけて、紡希は言った。歴はなだめる。
「焦らなくても、もうじき拝み屋さんのところに着くみたいだよ」
「早くしないと死んじゃう」
「……なんだって?」
「ユミちゃんが、死んじゃうの」
「――……君は」
そのとき。
車が動物の悲鳴のような音を立てた――と同時に、ワゴン車は急停止し、大きく車体を弾ませた。
「うわ!」
悲鳴をあげた歴と紡希が揃って前に崩れ落ちる、寸前、
「おっと」
曜が歴たちの身体を支えてくれてなんとか事なきを得た。歴はずり落ちた眼鏡を上げながら礼を言う。
「あ、ありがとうございます曜さん……!」
「どういたしまして。……長舟?」
曜の冷静な声で我に返る。
どうやら、運転席の長舟が急ブレーキを踏んだようだった。長舟は後部座席を素早く振り返り、
「悪ぃ! 大丈夫か!」
謝罪したかと思えば、歴たちの返事を聞く間もなく、前方に向き直って思いきりクラクションを鳴らした。
「こぉの、クサレ爺ィ! 正気か! 子ども乗ってんだぞ!!」
長舟の怒りの矛先は、車の前――車道のど真ん中に立っている一人の男性に向けられていた。
土曜の昼過ぎ、車道のど真ん中に歩き出てきた男――というだけでじゅうぶん奇妙なのに、その姿を見た歴は、なんの冗談だろう、と顔をしかめた。
痩身に和装、羽織を着て円高帽を被った二十代半ばほどの男。
その男が身に着けている、田舎の街にそぐわないドでかいサングラスも、都会風のスラっとした体格を包むジジ臭い和装もさることながら、もっとも目に引くのは――円高帽の下の髪の色だった。
男は、オレンジ色と赤の中間ぐらいの色に染まった髪をしていた。一体どこでなにをすればそんな色にしようと思いつくのか、歴には甚だ理解不能だった。まるで宇宙人にでも行き遭った気分だ。
ワゴン車を無理やり止めたその人物は、詫びることも慌てることもなく、むしろ堂々とした様子で、運転席の長舟に告げた。
「長舟、今すぐ引き
そう、妙に色気のある声で、のんびりと言う。
さらに男は悠然とワゴン車のドア側に回ると、やおらスライドのドアを開けた。
歴は、その人物の冗談のように大きなサングラスの奥の瞳と目が合った、気がした。
「お
間違いなく、男は歴を呼んでいた。
歴は突然のことに動揺しつつも返事をする。
「は、はい?」
「あの
イントネーションまでひどい鈍りだったが、男の歴も惚れ惚れするような艶っぽい美声だった。
「あ、あねっこ? はなし? ずっと? ですか?」
青年は歴の問いかけには答えず、次に曜に顔を向けた。
「曜、その
「……わかりました」
曜は固い表情で頷く。
オレンジ髪の男は再度、長舟を見やって言った。
「長舟、すぐそこさ迎え。時間が無ぇ。急げ。んで着いたら」
一呼吸。
「
「――了解」
先ほどの烈火のような怒りを形もなく鎮め、短く答えた長舟が、ギアを切り替えた。
ワゴンの大柄な体躯は、手近な駐車場で滑らかにUターンし、進路を変える。
その最中、歴は窓の外にいる、オレンジ髪の男から、目を離せないでいた。
オレンジ髪の男は窓越しに歴を見返すと、楽しそうに笑って、親指をビッと立てた――幸運を祈る?
長舟の運転するワゴンは法定速度ギリギリのスピードで、迷いなく来た道を戻っていく。歴はだんだん遠ざかっていくオレンジ髪の男を振り返りながら、呆然と呟いた。
「い、今の人は……」
「トンチキに見えただろうけど、件のお屋形だよ。今度紹介するね。――それよりも」
曜の目が、紡希をすっと捉えていた。瞳に湛えていた優しい色は消えさり、どこか警戒するような視線を紡希に向けている。
「君は、誰?」
紡希に憑いた少女は、ゆっくりと口を開く。
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