11.


「……っ!」


 藻と泡と月明りが見えて、がむしゃらに手を伸ばし、水の抵抗感が消えた――瞬間、「ぶはっ」と歴は息を吐き、水に浸かったまま周囲を見渡した。


 辺りはとっぷりと闇に落ちている。空からはわずかに月明りが差し、森からは虫の囁き声が聞こえていた。


 深隅の森のため池で、歴は浮かんでいた。


 つま先はしっかり底に着いているようで、柔らかい土の感触がスニーカー越しに伝わってきた。

 ため池からは、これっぽっちも潮の匂いなんてしない。土と葉の匂いが混じった、ただの生臭い水に過ぎなかった。


「いいんちょう」


 歴の目の前には、小綿紡希が浮かんでいる。

 歴と同じく、全身びしょ濡れの姿で、ため池に浮かんでいた。泣いてもいない。どこかおぼつかない、同級生の少女が。


「……紡希……」

 うん、と小綿紡希は頷いた。

 そして、言った。


「ありがとう」

 その言葉で、歴は悟った。


 ――そうか。


 日が沈み、黄昏色はもう世界のどこにもない。あとに残るのは夜闇だけ。人を惑わせることも迷わせることもない、確定的な夜が。


 悪夢のような誰そ彼れ時は、もう、終わったのだ。


 そのとき、遠くから歴の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「あ、」

 聞き覚えのある大人たちの声は、歴の親戚たちのものだった。歴が小父を追って森へ向かったことに気づいたのだろうか。懐中電灯らしき灯りを手に、大勢の人々がこちらへ向かってくる様子が見えた。


「みんな……」

 歴がそちらに目をやった隙に、小綿紡希は何事もなかったように歴から離れ、水を吸った服をひきずるようにして岸へ上がった。


「紡希……?」

 歴の制止の声を聞き届けることなく、紡希はそのまま森の奥へ消えていった。

 歴ちゃん、と親戚が呼ぶ声がする。


 歴はしばし、その場から動けなかった。

 赤革の手帳は、いつの間にか、歴の手からなくなっていた。



 それから――色々なことが起きた。


 あの日から一週間が経って、歴はまた、学校に登校していた。慣れたはずの学校なのに、よそよそしさを感じながら。


 たどりついた教室の戸の前で、歴は気合ひとつ。

「――よし」

 意を決し、戸を開く。


「あ、来た」

 と、誰かがいって、みんなの視線が、入り口に立つ歴に一斉に集まった。

 教卓の前にいた渡辺担任が、いくぶん声を明るくして言った。


「委員長! やっと来たのねぇ」

 歴はクラス全体を見まわして、頭を下げる。


「すみません、遅刻しました」

 クラスメイトたちがわっと沸き立つ。「あ、委員長来た!」「久しぶり!」「元気だったー?」とみんなの歓迎する声が聞こえて、歴は笑みを向ける。

 見渡した教室の奥に、小綿紡希がちょこんと座っているのも捉えながら。


 あの日のあと――。

 武明小父は、森の沼のほとりで、息を引き取っているところを発見された。


 沼のほとりを見つめるように木で首を吊って。口の中には、大量の札束を詰めて、喉をふさいでいたという。

 ベルトには、婚姻届が差されていた。 “夫になる人”の項には武明小父の名前が、“妻になる人”の項には、ゆきえ、という女性の名前が記されていた。


 自殺、だそうだ。

 葬儀やあれこれの親戚づきあいを経て、歴は一週間ぶりに教室へやってきたのだった。


 “朝の会”が終わって、歴はすぐ、紡希の席まで向かった。

「紡希……」

 まず、お礼を言うべきか、小父の死を伝えるべきか。


 小綿紡希は、相変わらず一人ぼっちで、どこへ行くともなく大人しく席に着いていた。机に置いた両の手の中で、リボンをいじくっている。紺色の、素っ気ないリボンで、おしゃれにしては地味すぎるデザインだった。


 なんだろう、と歴が小さな疑問を抱いたとき、小綿紡希が歴を見上げて言った。

「委員長」


 ぞわりと、

 そのとき、歴の足元から何かが湧きあがってくるような気配を感じた。


 ――これは、なんだ。

 紡希の水面色の瞳。そこに映る、別の誰かの気配。


 ――終わっていない。

 ――黄昏どきは、終わってない。


 紡希の水面色の瞳が、瞬いた。

「委員長。手伝って、ほしいことがあるのですが」


 ――歴は、覚悟を決めた。

 予想もつかない前途に、わずかに語尾を震わせながら。

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