10.


 ――紡希……。


 どうして今まで気づかなかったのだろうか。

 紡希は、歴のすぐ横で、歴と同じく部屋を見渡す形で体育座りをしていた。

 その視線は、繰り返す女の死を捉え――。


 厚い前髪の奥で、紡希は涙を、流していた。


 ――紡希。 


 見知らぬ女の惨状を前に、嗚咽もあげず透明な涙を流す少女。


 歴は、息を呑んだ。

 どうして泣いているの、と歴は紡希に問いかけたかった。けれど、それはやはり叶わない。

 この辛い悪夢のような世界では、たった一言でも、自分の意志を通すことはままならなかった。


 ――せめて、なにか……。

 例え、事情を聞くことが出来なくても、ちゃんと話を聞いているよ、という意思表示だけでもしたい。


 そう強く望んだ歴は、ほんのわずか、ほんとうにわずかだけ、指先が動くことに気づいた。

 床をなぞるように動いた指が、紡希の手に触れた、


 途端、歴の視界に変化が起きた。


 ――……! 


 アパートと、首をくくる女を呆然と見つめていたはずの歴の視界は、急激に明滅する。目を開けているはずなのに、他の場所の光景がすさまじいスピードでフラッシュバックしていく。


 歴は声にならない悲鳴をあげた。いつか体育の時間にふざけてやった、地面にバットを立ててその周りをぐるぐる回ってダッシュ、あのときよりも数段不快でひどい目眩が歴を襲っていた。

 目の前の世界が捻じれ、拡大され、圧縮され、交わるはずのない風景と色がデタラメに混ざり――。


 突如、目眩が収まる。


 急激な背景の変化に翻弄された歴の視界に今あるのは、アパートの部屋でも、うつむいた小父でも、紡希の手でも、首をくくった女でもない。


 それは、歴の記憶にないはずの情景だった。


 見知らぬ古びた家。家族とおぼしき見知らぬ男女。

 それなのに歴は――歴が見ている記憶のなかの誰かは、そこを家と、彼らを家族と認識している。


 ――歴は、誰かの記憶を追体験していた。


 母の温かな腕のなか。帰宅した父の声。肩たたきをしてあげる祖父の広い肩。祖父と父が死んで、父の後を追うように亡くなった母。失われたぬくもり。

 ひとりで過ごす日常は、思い出も喜びも悲しみも、全てひとりで完結する世界となった。あてにしていた恋人は、人生でなんの寄る辺にもならず、借金だけを残した。


 真っ暗な部屋。

 頼れる人のいない人生。愚痴を言う人すらいない人生。

 天井に吊るしたままのベルト。

 いつ、何があってもいいように。


 彼女は――なんの奇跡も起きなくてもいい、平凡な人生を望んでいた。だが、大人になって、自分が思う平凡こそが奇跡なのだと知った。


 疲れていた。徒労だけが満ちていた。なんの成果も得られない日々。そして――その日はとても空が青くて綺麗だったから――死のうと思った。


 歴は、そこで確信した。

 それは、赤革の手帳の持ち主であり、武明小父が親しい女性、そして目の前で首を吊った女の、記憶だった。

 自ら人生を閉じた人間の、誰にも知られなかった、たった一つだけの記憶。


 明滅は終わった。

 歴の頭はさっきまでぐらぐら揺すられたように混乱していたはずなのに、もういまは不思議と、気分は悪くなかった。


 ――……どうして……

 まどろみにある歴の脳裏に、大きな疑問が生まれていた。それは巨大獣の爪で抉られたみたいに、歴の心に大きな痛みと苦悩を生んでいた。


 ――どうして、死ななきゃならなかったんだ……。


「どうして、生きなきゃいけないんでしょう」

 歴は、そう口にした少女の横顔を見た。


 小綿紡希は、肩を震わせて、しゃくり声もあげずに泣いている。


 ああ、とそのとき歴は直感で理解した。

 首くくりの女と――自殺の名所の沼に沈んだモノたちと、同じ終を迎える、と言った少女。

 この子は、この首をくくった女と、と。


 ――紡希。


 歴は考えた。まだぼんやりとする頭を晴らし、必死で考えた。


 自分はこのクラスメイトのために何が出来るだろう、と。


 だが、思いつくのは教科書や本に乗っていた、道徳的な言葉だけだった。”生きてればいいことある”、”辛いのは君だけじゃない”。


 そうじゃないだろ、と心のなかで歴は頭を振った。どれも正解じゃない。


 歴のわずかな人生で、拙い言葉で、この子を救えるなどとは思えない。

 祖母の言ったとおり、歴は、まだまだ知らないことがありすぎる。


 でも――。

 何かしたい。

 

 その願いが、強張っていた歴の喉を、わずかに震わせた。


「……つ……むぎ、つむぎ……」


 強張った口が動く。言葉を紡いでいく。


「おれ……おれ、なにも知らない。世の中のことも、この人のことも、本当に……なにも……」


 紡希の視線が、歴へと向く。水面色の瞳が、歴を見つめ、続く言葉を待っている。


「……それでも、おれは――おれはこの人に、こんなふうに死んでほしくなかった……」


 歴の言葉が――想いが、加速していく。

 何者かに塞がれていた意志が、目覚める。自分を取り戻していく。


「たとえ赤の他人でも、誰かがこんなふうに死ぬのは……とても辛くて、すごく悲しい。こんな終わりかたなんて……いやだ……辛すぎるよ」


 無残な死を繰り返す女。それにクラスメイト――小綿紡希が近いのだとしたら。


「……どんな事情があったとしても、紡希にこんな目に合ってほしくない……」


 歴は紡希の瞳を見つめた。

 紡希の潤んだ瞳が、驚いたように歴を見つめ返した。


「……生きてよ、紡希。生きて、友達になって……それで、いっしょに学校に通おう」


 紡希の瞳の水面が、揺れた。

 水面色の瞳に涙の膜が生まれて、音もなく流れ落ちた。


 歴は微笑みを浮かべて、頷いた。歴の心には、言葉にならない満足感があった。


 ――おばあちゃん、わかったよ。


 祖母が語った、“人生で大切なこと”。

 それはたったいま歴の胸に咲いた、小さな幸福のことなのだと。


 ぽた、とどこかで音がした。

 それは首をくくった女の、眼窩から飛び出した薄茶色の瞳から溢れた涙の零れ落ちる音だった。


 それをキッカケとするように、アパートの窓に闇が差していく。部屋も歴たちも、全ての世界が闇に包まれていく、世界が沈む。そう思われたとき。


 ――歴は、目を覚ました。

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