9.

空が青くて綺麗だから――死のうと思ったんです……。


 ――歴はいつの間にか、その部屋にいた。


 幅が狭く、奥行きのある部屋だ。十畳の歴の部屋の半分より、少し広いくらいの窮屈な部屋。


 歴はなぜか、そこの唯一の扉に背を預け、窓に向かって部屋全体を見渡す形で、体育座りをしていた。


 目線の先には窓があり、ベランダがあり、その先には鮮やかな夕暮れの空が見える。

 そこはどうやら、アパートの一室のようだった。


 全く歴には見覚えのないその部屋は、どういう訳か、室内全体から潮の匂いがした。

 いつかのように鼻先に漂う、というレベルではない。海で溺れたのではないかと思うほど、濃密な潮の香りが鼻の奥まで痛いほど染みついている。ときおり、コポコポと泡が立つような音が聞こえて、歴は水槽のなかにいるような錯覚を覚えた。


 ここはどこだろう、と首を巡らせようとした途端、歴は自分の身体が思うように動かないことに気づいた。まるで夢を見ているように、思考だけがかすかにもたげて、五体の自由が利かないのだ。


 まどろみのような世界のなか、歴は気づいた。

 対面に、武明小父が座っていた。歴とちょうど反対側、窓のサッシに背を押し付ける形で、あぐらをかいた小父は、うなだれて頭を抱え、全身をわななかせていた。


 小父さん……。

 声をかけようとして、歴は発声すらままならないと気づいた。


空が青くて綺麗だから――死のうと思ったんです……。


 歴の耳には、見知らぬ女の声が届き続けていた。

 繰り返される声は、若い女のもの。抑揚がなく、力がない。喋れ、と命じられ、投げやりに発声しているようだった。それが、誰かの喉から発せられているのではなく、スピーカーを介しているように部屋のなか――あるいは歴の耳元で、繰り返されている。


 歴はまた、瞬いた。


空が青くて綺麗だから――死のうと思ったんです……。


 歴の視線の先、部屋のちょうど中央に、ひとりの女が、唐突に現れた。

 ぼさぼさになった長い黒髪の、二十代程度の若い女だ。


 手入れをすれば今どきの美人にみえるだろうに、すっぴんの肌は荒れ、ボロボロの部屋着を着て、全てのおしゃれを自分の歴史から消え去ったようにうらぶれた身なりをしていた。


 その薄茶色の瞳に、歴は見覚えがあった。


 女は部屋の中央に据えた小さな踏み台に昇り、照明から吊るした輪を作ったベルトに細い首をかけて――息を吐いた。まるで真冬の空の下、行くあてもなく街を彷徨う子供のような、心細く切なげな吐息だった。


 ――だめだ……!


 歴の願いも虚しく、女の足が踏み台から離れた。

 踏み台を拒絶し、宙に浮いた女の身体の寄る辺はベルトだけ。そのベルトに女の全体重がかかり、ギィギィと歪な音を立てて軋む。


 女は例えようのない苦鳴を漏らし、足をばたつかせた。女の全身のあらゆるところから漏れた体液が、アパートの床に落ち広がっていく。やがてわずかなベルトの軋みを最後に、女の身体が止まる。


 目の前で、女が首を吊る、その一連の過程を歴は見せつけられていた。

 唐突な、あまりの惨状。


 ――夢だ。これは、夢だ。最高にタチの悪い夢。夢……。

 そう必死に頭のなかで唱える歴の視界で、いつの間にか女の死体が消えた。


 しかし次の瞬間には、女はまた部屋の中央に現れた。首をくくる前の状態で。

 瞠目する歴の目の前で、女は先ほどと寸分たがわぬ動作で、踏み台に昇り、首に縄をかける。踏み台から離れ、ベルトに体重がかかって、目を剥いて、死んでいく。


 ――どうして……。


 歴が思った、と同時に、部屋の時間が巻き戻った。

 女はまた椅子に昇り――。


 一連の様は、まるで白黒映画をコマ送りしているかのように粗雑に繰り返されていた。

 歴と武明小父は、ここで、永遠に続く女の死にざまを見せつけられていた。


 まるで現実味のない光景。だが、悪夢と一言で片づけるには、目の前に広がる情景はあまりにも生臭く悪趣味だった。


 これだけの状況にあっても、まだまどろみのなかにある歴の脳裏には、抵抗しようとか、逃げようという考えは浮かばなかった。ネジの回っていない人形のように、壁に背を預け、無感情に女の死を眺め続けるしかなかった。


 現実味のない光景を前に、何も出来ない、動けない自分。

 おれは、もしかしてもう、死んでしまったのか。

 ぼんやりと――ほんとうにぼんやりと、そう思った。


 ――どうして、こんな……。


「しりたい?」


 突然、声がして、歴は隣を見る。

 そこに、小綿紡希が座っていた。

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