8.

 武明小父を追いかけた末に、そこへたどり着いたとき――歴は全身で悪寒を感じていた。


 ――深隅の森。


 山を背負った広大な森。その、入り口。

 小綿紡希によると、あの手帳を拾った場所。


 そして、自殺の名所、という噂の。


 びゅう、と嫌な風が、森の奥から吹いた。

 まるで歓待するかのような風にあてられて、歴の身体は思いがけず震えていた。


 四月の夕暮れの寒気、というだけではないと思う。

 この森にあるという数々の曰くは、小学生の歴を怯えさせるのにじゅうぶんだった。だが――。


「……小父さん」

 突然駆けだした小父の姿、そして小綿紡希との約束が、歴の足を森の入り口で留めおけなかった。


 震える身体を奮わせ、歴はひとり、森へと足を踏み入れる。

 しっかりと握りしめた赤革の手帳は、手汗でぐっしょりと濡れていた。


 近所に住んでいるというのに、歴ははじめて、この森を訪れた。慣れない足取りで、「遊歩道」と記された傾いた看板の示す道筋どおりに進んでいく。


 宵闇に沈んだ見知らぬ森は、まるで未知の空間だ。歴の知る常識と安全から、かけ離れた異世界。

 遊歩道では、アスレチックのように等間隔に並んだ木の橋がかけられ、それが森の奥へと続く道になっていた。手すりはない。自然そのままの形を残した森に浮かぶ天のきざはしのように、どこへ続くかもしれない木の橋だけが続いている。


 また、森の奥から、ざあっ、と風が吹いた。

 そのなかに、じわっとした、湿気のようなものが混じっていることを、歴は感じ取っていた。


 いや――と歴は自分の感覚を訂正した。

 これは湿気ではない。身体にまとわりつくことなく、背筋だけを脅かす気配。


 空気だ。

 森の奥からやってくる空気が、どんよりと重いのだ。


「だいじょうぶ、怖くない、だいじょうぶ、怖くない……」

 歴の繰り返す言葉に、かすかに震えが混じる。

 なんとなく心もとなくて、歴はズボンのポケットをまさぐり、自転車の鍵がついたキーホルダーと、そこにつけたお土産品のペンライトを取り出した。


 ライトを点ける。

 そのわずかな灯りでさえ、今の歴にはこの上なく頼もしく思えた。 


 歴は、深呼吸のために、歩きながら空を仰いだ。

 梢の間から、わずかに覗く空は赤く、視界の端から黒いグラデーションがかかっていた。

 間もなく日が沈むのだろう。そうしたら電灯もないこの道は、果たしてどうなってしまうのか。


 気を楽にするために仰いだ空なのに、歴はますます不安が加速していくのを感じていた。自分の影法師すら、未知なる脅威とさえ思えるほどに。


 そのとき、ふいに、梢が見切れた。

 

 歴は、行く先に視線を戻す。

 森が開け、大きな空間が広がっている。


 そこにあったのは、森に囲まれた海だった。


「え……?」

 歴は思わず、呟いた。


 それは現実味のない光景だった。

「……海? なんでこんなとこに……」

 何かの間違いかと思って水際まで歩いてみたが、白浜があり、小さな波が押し寄せる音が聞こえる。

 かすかに鼻先に漂う潮の匂いは、まぎれもなく海のそれだ。 


 歴は瞠目した。山と連なるこの森のなかに、どうして海があるのだろうか。――そして。


 この匂いを、歴はつい最近、感じた。

 小綿紡希から、感じた。


 歴はしゃがんで、水をすくった。

 やはり、水からわずかに海水の匂いがする―――気がする。鼻先に近づけるといっそう、あのむせかえるような生臭い匂いを濃く感じた。

 だが、自信はない。気のせいと言われれば気のせいかもしれないし、そのとおりと言われれば頷いてしまうかもしれない。舐めれば塩水の味がしてはっきりするのかもしれないが、歴にはそこまでの度胸はなかった。


 確信が持てないまま、歴は水面から顔を上げた。

 そのすぐ先に、武明小父が、背を向けて立っていた。


 一体いつからそこにいたのか。よれたシャツ、ぼさぼさの黒髪。間違いなく武明小父の後ろ姿だった。武明小父の膝半分は、水に浸かっている。背を丸め、水面をまっすぐに見下ろして、小声で何かをぶつぶつと呟いていた。


「……小父さん? 武明小父さん?」

 歴はためらうことなく、海へと足を進めた。

 小父が心配だったこともある。心細かったこともある。歴はズボンが濡れるのにも構わず、水を掻き分けるようにして湖を進んだ。


 小父の背中が目前に来て、思わず歴はすがりつく。よく太って肉厚な背中は、後ろから抱きつかれてもよろめかなかった。


「良かった、ここにいたんだ――……」

 歴は心からの安堵とともに、武明小父を見上げた。


 小父の背中に、女の頭が生えていた。


 小父の猫背の肩甲骨の下から突き出た、女の頭。

 奇妙な角度から生えた女の顎から下は、武明小父の背中に埋もれていた。

 見知らぬ女の、長い髪にまとわりつかれた、青白い顔。瞳孔が開ききった、虚ろな薄茶色の目が、歴を見下ろしていた。


 空は赤、森は黒に染まる。


 ――この時間――黄昏どきはね、誰そ彼っていって、往き合った人が誰かもわからない。あの世とこの世が交わる時間なんだって。


 祖母の声が、歴の脳裏をよぎった。

 ――迷う、惑うのかしらねぇ。


 迷っているのは、誰だ。

 惑うのは、誰だ。


「――……誰?」

 歴の問いに、答えはなかった。かわりに、小父の両腕が、ぐるん、と、関節を無視して回り、歴の肩に伸びた。


 それは正確には小父の両腕ではなかった。長い髪の毛に絡みつかれた生白い細い両腕は、正しく女のそれだ。


 女の両手が、歴の肩をがしりと掴む。

 悲鳴を挙げる間もなく、歴の身体は、水のなかへ引きずり込まれた。

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