7.


 日記は、そこで終わっていた。


 ページをめくってもめくっても、あとに記されているのは罫線だけ。ついになんの痕跡も見つけられないまま、手帳は終わりのページを迎えた。


 歴は閉じた手帳の裏表紙を、そっと指の腹で撫でた。

 知らず、ため息が漏れる。


 ――一冊の手帳は、まるで持ち主の人生そのものを映しとっているようだった。途中で終わり、他の誰にも続けられない手帳。


「歴ちゃん、仕出しのお寿司届いたよ。こっち来てみんなで食べましょう」

「あ、はい……」

 親戚のおばさんに声をかけられ、歴は生返事を返した。


 手帳から視線を上げると、喪服を着た大人たちが、せわしなく大広間のテーブルの間を行き交っているところだった。

 普段、障子で隔てられている三間は開け放たれ、縁を無視して繋がれた折り畳み式長テーブルの上には、ジュースやビール、仕出しのオードブルや寿司が並んでいる。

 上座にはお坊さんが座っていて、おばさんたちがビールを注いだり小皿に取った料理を渡したりしている。それらを上機嫌に受け取るお坊さんは、すでに赤ら顔に変わっていた。


 祖母が用意してくれた子供用の喪服を着て、歴は法事に参加していた。


 とはいっても、特別何かをする訳ではない。やってきたお坊さんの、全く聞き取れないお経を聞いて、一族顔を揃えて会食をするだけの簡単な席だった。

 それも、どこそこの子供の進学や就職、縁談がどうだ、景気はどうだ、といった恒例の話題と、酒と煙草の臭いが入り乱れる頃合いとなれば、女性陣や子供たちは席を離れ、思い思いに過ごしている、


 テレビゲームで遊ぶ従兄弟や、女衆の輪に混じる気にはなれず、歴はひとり、縁側に座って手帳を読んでいた。

 本当は、法事の席に持ってくるものではないかもしれない。


 だが、歴は手帳のことで頭がいっぱいだった。

 全くの偶然の出会い――であるはずの手帳の持ち主に、歴は強い興味を抱いていたのだ。


 ――県内の人だと、歴は文面から予想を立てていた。

 性別は、紡希の言ったとおり女性で、時折流行のテレビや芸能人を気にかけているから、たぶん若い。


 女性の友人らしき名前も発見したが、ありふれたもので、しかも苗字がない。いくらなんでも、下の名前だけで個人を特定するのは難しいだろう。

 他にも、具体的な地名、家族の名前など個人に繋がりそうな手がかりを探したが、こちらも見つからない。


「……くそ」

 歴は思わず呟いて、片手で頭を抱えた。

 こんなとき、どうすればいいのか、歴にはまるでわからない。少なくとも社会や道徳の授業では習わない内容なのだ。


 だが、祖母や周囲の大人に聞いたら負けのような気も、歴にはしていた。

 警察を説得して渡した方が絶対に確実だと思う。


 だが、小綿紡希はこうも言ったのだ。

 ――モノには、きもちがあるんです。

 ――この手帳さんは、委員長に見つけて欲しかったんです。

 ――物は、喪ので、モノ。見えないけれど、失くしてしまったようだけれど、きちんとこころがあるのです。


「まいった……ぜんぜん正解が掴めないや……」

 思わず、愚痴がこぼれる。

 まるきりヒントのない難問、あるいは問題分のなかに正解があるのかさえ疑わしい問題だ。もしくは歴の苦手とする、「この問いにおける作者の意図を考えなさい」、か。

 投げ出したくもなるが、そういう訳にもいかなかった。歴は頭を押さえたまま、意味もなくぶつぶつと呟く。


「わかんないなぁ……。こういうの、渡りに船? っていうんだっけ……? 呉越同舟? いや、泥舟に……ええと……」

「よぉ、歴ちゃん。船がなんだって?」


 声がして、歴は顔を上げた。

 そこには見慣れた男性の顔があった。


 年齢は三十を過ぎたくらい、愛嬌のあるたれ目に、剃り切れていない無精ひげ、トロールを思わせる低い身長と小太りの身体。着崩している訳ではないのに、よれたスーツと相まって、全体的にくたびれて見える印象の男性。


「武明小父さん」

 男性――武明小父は、歴の祖父方の親戚だった。確か、祖父の弟の三番目の娘の二番目の息子、だったっけ。祖父方の親戚はほとんどが大学出だが、武明小父だけは高校を中退して、親戚の建築会社に就職した。

 そんな事情もあってか、祖母からは、真似しちゃだめな大人の代表例に挙げられる人だ。

 でも、歴は気兼ねなく話せるこの小父のことが好きだった。


 武明小父は、すでに出来上がっているのか、耳が真っ赤にして歴の前にやってきた。ワンカップ片手に、酒臭い息。子どもの目から見てもだいぶ出来上がっているのがわかる。


「大人の話はつまんねぇよな。へへ。俺も三十超えたけどさ、親戚のジジどもに何してんだーって怒らごしゃかれるから、逃げてきたよ」


 そう言って、武明小父はワンカップを支えにして胡坐をかいた。背を丸めて、手に持ったおつまみのピーナッツの袋を漁ってぽりぽりと食べている。

 それから、思いだしたように歴に尋ねてきた。


「歴ちゃん、今日はひとりか? 父ちゃんと母ちゃんは?」

 歴は苦笑して首を振った。それで、武明小父は全てを察したようだった。


「あぁ……歴ちゃん家もなかなか難しいよな。ま、おれよりましか」

 ははは、と乾いた笑いをあげて、武明小父は、真っ黒のネクタイがべろりと床に着くのを、鬱陶しそうに首に巻くと、歴にもピーナッツの袋を差し出してきた。

「ほら、遠慮せずにぇ」

「――うん。ジュースもらってくるね」

 歴は笑顔をみせて、武明小父と入れ替わる形で立ち上がった。


 親戚の間をすり抜けて、瓶のウーロン茶を手に取り縁側へ戻る、と、

「おじ……」

 呼びかけた声が、しぼんでいく。


 武明小父は――胡坐をかいた姿勢のまま、わずかに背を丸めていた。自分の組んだ足元にじっと視線を落とし、瞬きもせずに床を見ている。

 武明小父が見ていたのは――違う、床ではなかった。


 歴が小綿紡希から預かった手帳を、武明小父が読んでいた。


「小父さん、それ、おれのじゃなくて……」

 歴が口を挟んでも、武明小父は、構わず手帳の文面を凝視している。どう言い訳したものか、歴がどうしようもなく焦った――のは、武明小父の様子に気づくまでのわずかな時間だった。


 カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ


 小父の指が、ものすごい速度でページをめくっている。

 そんなスピードで文字を読み取れる訳がないのに、小父は手帳の文面をじっと凝視していた。


 固定された視線と、せわしなく動く手帳をめくる指先。

 武明小父の額には、脂汗が流れていた。四月の夕暮れは、寒いぐらいなのに、汗をかいて、一心不乱に手帳をめくる――読んでさえいない。ただページをめくる機械になったように。

 つい先ほどまで明るい口調で酒を飲んでいた人とは別人になったかのような、異様な光景だった。


「……小父さん!」

 たまらず、歴は声をかけた。


 だが、狂ったようにページをめくる歴の声は――こんなに近くにいるのに――小父の耳には届いてはいかなかった。ページをめくる指が最後まで届くと、また最初に戻し、まためくっている。歴が丁寧に扱っていた手帳のページは、すでにぐちゃぐちゃに折れてたり破れたりしていた。


「小父さん! ねぇ! ねえってば! どうしちゃったの!?」

 歴が肩をゆすった拍子に、手帳は小父の手から離れ落ちた。


 あっ、と歴が声を上げた。


 小父の手の中にあった開いたままの手帳が、縁側の踏み石の上に落ちた。革表紙の手帳が、まるで果物を――いや、生き物を――ふいに落としてしまったように、べちゃりと生々しい音を立てた。

 手帳をすぐさま拾いかけた歴は、……その手を止めた。

 

 手帳に手を伸ばした歴の背中に、視線が注がれている。

 痛い。――いや、

 


「ゆきえ」


 小父の喉から聞こえたのは、震えた言葉だった。

 ゆきえ――ゆきえ。名前。女の名前?

 歴がそう、思考を巡らせたとき、


 弾かれたように小父が立ち上がる気配がした。歴が振り返ったときには、小父は縁側を滑るように降りて、素足のまま庭を横切ったところだった。


 呆然とする歴と、怪訝な顔をする親戚たちなどお構いなしに。靴も履かずに、武明小父は屋敷から飛び出していく。


「……小父さん!?」

 一拍遅れて、歴はその背に声をかけた。だが、小父はこちらなど振り返りもせず、屋敷の角を曲がった。その先には玄関があって、外界がある。


 歴は手帳を拾い上げて、玄関へと向かった。慌てて自分の革靴を履き、靴ベラを使う時間も惜しんで家先に出る。


 武明小父の姿は、まだなんとか、歴の視線の先にあった。

 リレーのアンカー選手に選ばれた歴から見れば、武明小父はとてもみっともない走り方で、黄昏の空の下を大股に走っていく。


 日が落ちた町内には人も車の影もなく、カラスだけがガァガァと鳴いて不吉にもその存在を知らせていた。

 道路のアスファルトも、住宅の屋根も壁も、夕日の色に染まっているのに、山だけが雄大な巨躯を真っ黒に塗りこめて、世界のあちこちへ闇の影を伸ばしていた。


 それはあたかも山が黒い舌をだらりと伸ばして、武明小父を呑みこもうと導いているようだった。


「小父さん! 小父さん、待って!」

 歴は、その背をまっすぐ追いかけた。


 ――よんでいるのだ、と紡希は言った。

 歴は苦々しい気持ちで耳に残った記憶を辿る。


 ――ゆきえ、だって?

 赤革の手帳をなぜか手にし、読んで。武明小父は間違いなくそう言った。


 もし、武明小父が手帳の持ち主と知り合いだったら。

 歴の背中に、冷や汗がにじんだ。

 春のものとは縁遠い、全身を凍えさせるような冷たさだった。


 偶然、とは思えなかった。


 あの赤革の手帳が歴を選んだというのか。

 

 武明小父と親類の、歴を。

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