3.


 あっという間に放課後が来た。


 小綿紡希の周りには、それでも世話好きな女子が集まったが、紡希が何も言わないことに痺れを切らしてか、一時間目、二時間目、と時間が進むにつれ、紡希の席に集まる女子は減り、昼休みには誰もいなくなっていた。


 そうだった、と歴は教科書を丁寧にランドセルにしまいながら思いだす。

 小綿紡希が帰ってきてみれば、なんのことない、いつもの五年二組のクラスの日常だった。

 神隠しだなんだと騒ぎ立てていたのが、まるでバカらしいとすら感じた。そしてこの、書き溜めたルーズリーフすらも。


 筆箱を片付けている小綿紡希を振り返りながら、歴はひそかに悩んでいる。

 小綿、か、紡希、か、つぅちゃん、か。


 思えば、歴は小綿紡希に呼びかけたことが、一度もなかったのである。それどころか会話をしたことすらない。


 歴は悩みに悩んだ末、同級生の呼び方としてもっともスタンダードな、

「、紡希」

 と紡希の席に赴いた歴は、呼び捨てで名前を呼んだ。

 小綿紡希は、席に座ったまま、ゆっくりと歴を見上げてくる。もったいをつけるような、ずいぶん遅い動作で、やはりゆっくりと小さな口を開いて言った。


「いいん、ちょう」

「――そう、委員長」

 小綿紡希にちゃんと認識されていたことに歴はひそかに安堵を覚えた。友人のいないこの同級生は、何事にも関心がない印象があったのだ。


「今日、いそいでる?」

 つとめて明るい口調で歴がそう尋ねると、小綿紡希はふるふると首を横に振った。

 良かった、と歴はランドセルを手近な机に降ろす。言葉の裏には、都合が合って良かった、と、ちゃんとコミュニケーションが取れて良かった、が混ざっていた。


「紡希が休んでた日のぶん、ノート写してたんだ。よかったら、使ってよ」

 歴がルーズリーフを差し出して言うと、小綿紡希はぱちぱちと二度、瞬いて、困ったように黙っている。


「休んでた日の、板書。授業についていけなくなったら、困るでしょ?」

 ことさら丁寧に歴が説明すると、小綿紡希はやっと納得したらしい。


「はぁ、わざわざごていねいに、ありがとうございます」

 仰々しく頭を下げて、そう言う。その言葉には、幼児が、覚えたばかりの言葉をなぞるような、拙さがあった。次いで小綿紡希は、自分の机の上に赤いランドセルを乗せて、


「おかね、はらいます」

 と、言った。歴は仰天して手を振る。

「え、い……いいよ、そんなの。そんなつもりじゃないし。気にしないで」

 それは歴の本心だったが、紡希は構わず自分のランドセルの中を探っている。

「はらいます」


 歴の制止も効かず、小綿紡希はランドセルを探り続ける。その手つきは、ランドセルの中から取り出すというより、くじ引きの箱のなかを探り当てているようなものだった。どうやら小綿紡希は、ランドセルのなかをろくに片づけていないらしい。


 ばつが悪くなった歴が、どうしたものかと顔を背けた――その間に、小綿紡希は驚くべき行動に出た。

 手を伸ばして探るのに限界を感じたのか、自分の赤いランドセルを、その場でさかさまにひっくり返したのだ。


「わわ」

 びっくりしてるのは歴ひとりで、紡希は平然とした顔をしている。


 小綿紡希のランドセルのなかから、どさどさと色んなものが落ちてくる。授業に関係するものは、ほとんど見つけられない。四年生のときのテストの答案や、巾着に入った何か、きれいな小石、などなど。どうしてこんなものを取っておいたのかと思うようなガラクタばかりだ。


 歴は紡希といっしょに、ランドセルから散らばったものを一つ一つ拾い集めながら、内心呆れていた。学校に必要なもの以外は学校に持ってこないのが、勿来第一小学生のルールだ。つい最近、対戦鉛筆やカードゲームを持ち込んだ生徒が怒られて、全校集会で校長先生が注意したばかりなのに。


「こういうの、持ってきちゃ駄目なんだよ」

 歴がため息交じりに忠告すると、

「はい。ごめんなさい」 

 小綿紡希は素直に謝罪をし――といっても、低学年の演劇みたいないかにも言わされている謝罪だったが――のんびりと机のうえに広がった荷物を拾い集め続けている。


「ほら、床にも落ちてるよ」

 机のうえは紡希に任せ、歴はしゃがんで、足元に落ちた赤革の手帳に手を伸ばす。


 その手帳は、仰向けに開かれた形で床に落ちていた。

 中身を読んではいけない、と思ってはいたが、拾い上げようとしたときに歴の瞳は無意識のうちにノートの文面を捉えてしまい、


『だれかたすけて』


 という文字を、目に入れてしまった。

 うっ――、と歴の呼吸が一瞬、詰まった。

 手帳に伸ばしかけた指が、硬直して止まる。


 見てはいけないものを見てしまった動揺、いやそれ以上に、衝撃が歴の心のなかを走った。

 女子のその場にいない子の悪口を聞いてしまったような、女子の着替えとか、それぐらい見てはいけないけど、それよりももっとおぞましくて、苦しいもの。例えば、突然何かむずかゆくなって手の上を見たら、そこに昆虫が這っていたかのような――。


 ――どういう意味だ?

 ――小綿紡希が書いたのか?

 ――なぜ、こんな言葉を?


 歴は内心の動揺を隠し、手帳を慌てて拾い上げ、紡希に差し出す。見ていないことを示すため――いや、――平静を装ってことさら自然な口調で言う。


「こ、これ、紡希の?」

 だが、歴から小綿紡希が手帳を受け取ることはなかった。

 小綿紡希は荷物を拾い上げる手を止めて、前かがみの姿勢から気をつけのような直立になり、歴をじっと凝視している。


「紡希……?」

 小綿紡希を見返した歴は、そのとき初めて気づいた。


 厚い前髪に隠れた小綿紡希の瞳――常に潤んでいるようにも見える瞳が、とても不思議な虹彩をしていることに。

 まるで水面が、角度や光の加減によって、時折複雑な虹彩を見せて、どんな色にも見えるような。

 その、小綿紡希の水面に似た瞳が、ちょうど三回、瞬いて、歴を見据えた。


「あの、紡希……?」

 歴が再び声をかけても、紡希は歴を見つめたまま、だんまりを続けている。

 歴は、半ば意地になって問う。


「な、なにか、悩みがあるの?」

「……」

「困ってることあるとか?」

「……」

「……もしかして、それが原因で学校、来なかったの?」

「……」


 紡希は、何も答えない。そのかわりにうつむいて、長くて厚い前髪が、カーテンのように垂れて瞳を隠した。

 ここにきて、歴は自らの失策にいよいよ気づいた。――わかり合おうとしたつもりが、かえって天の岩戸を閉ざしてしまったようだ。


 だが、歴はここで引き下がれなかった。

 ルーズリーフを写し続けた時間と、祖母への宣言。そして委員長としての意地があった。


「……ねぇ紡希、なんか、言ってよ。おれ、委員長だし。困ってることあるなら相談に乗るよ?」

 そこまで言ったとき、うつむいたままの紡希が、ぼそりと呟いた。


「……どうせ、信じない……」

「し、信じるよ!」

「どうして?」

 水面色の瞳が、前髪の間から、まっすぐ歴を見つめてきた。

 その幼児のような視線に見つめられて、歴は、ぐっと黙った。どうしてなんて言われても、根拠なんてないのだから。


 歴の無言に耐えかねたように、紡希が手を伸ばしてきた。今までののんびりとした動作とは裏腹に、驚くほど端的な口調で言う。

「手帳、返して」


 歴は不承不承、手帳を差し出した。

 紡希はそれを受取ろうと手を伸ばしてきて――ふいに、おそらくたまたま、歴の指に触れた。


 途端――歴は目を見開いた。


 歴の手に触れた紡希の指と手。歴のものとそう変わらないサイズの手は、いまさっきまで冬空の下を歩いてきたかのように、ぞっとするほど冷たかった。同時に、あの生臭い匂いが、歴の鼻先をかすめた。


 また、と歴は既視感に顔をしかめた。それは午前中、ホームルームで感じた匂いは幻覚ではなかったことを意味していた。


 歴は頭を振って振り払う。そんな訳はない。そんな訳がない。冷静になれ。勘違いだ。だってここは学校なんだから。歴の通う小学校。大好きな場所。こんな――潮みたいな匂いなんてする訳がない。

 歴は必死で妙な感覚を振り払った。ずれた眼鏡の位置を直して、前に立つ小綿紡希を見やっ

た。


 紡希は、わずかに頭をうつむかせて、ゆら、ゆらと横に揺らしていた。振り子時計のような、奇妙な動きだった。

 さすがの歴も呆気に取られて、何やってるの、と問おうとしたとき、


「……そう――そうなんだ。君も……」

 ぶつぶつとひとりごとを呟いた紡希は、急にぱっと顔を挙げてこう言った。


「――わかりました。お話し、します」

「……え? ほんと?」

 こくんと小綿紡希は頷いた。


 水面色だったはずのその瞳が、薄い茶色の虹彩を宿して、歴を見つめていた。

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