2.
「ではみなさん、さようなら。――あ、それと、つぅちゃんをどこかで見かけたら、先生に連絡してくださいね」
放課後。みんな、担任の渡辺教諭の挨拶を最後まで聞くことなく、ガタガタと椅子を鳴らして帰り支度を済ませていく。
そんな生徒たちの態度に、口うるさい渡辺担任が何も言わないのは、三日も同じ連絡をして言い飽きているか、生徒たちに言ったところで事態が変わらないと察しているのか――いずれにしろ、渡辺担任のなかで諦めがついているのかもしれない。生徒たちの態度も、小綿紡希の不登校も。
放課後の喧騒のなか、歴が机のなかの教科書をランドセルにしまっていると、男子の友達二人がやってきた。
「なぁ、委員長。今日、遊っぺー!」
「みんなで
歴はランドセルの底を叩いて均しながら、やんわりと断る。
「悪いけど、おれ、予定あるんだ」
「まぁた、塾? それともバスケぇ?」
歴は身体の前で大きなバツを作って笑ってみせた。
「ぶっぶー、はっずれー」
「じゃあなんだよー」
「へへ、秘密。じゃあな」
けちー、と背中にかかる抗議の声に手を振って応えて、歴は教室を抜け出した。
昇降口を出て、校庭を突っ切る形で校門を抜ける。その最中、舞い落ちる桜の花びらを目にして、歴は上を見上げた。
校門と一列に並んだ青緑色のフェンスの近くに、大きな桜の木が一本だけ根を下ろしていて、優しげに歴を見下ろしていた。
勿来第一小学校唯一の桜の木で、生徒たちには門番桜なんて呼ばれている。
東北地方の桜は、ちょうど入学式の時期に咲いていて、クラスメイトの顔ぶれを覚えた頃には散っている。
世間の桜と足並みを揃えて散り始めた門番桜と別れ、歴は学校を後にした。
歴は塾や習い事がない日は、ほとんど寄り道せず、真っすぐ家へ帰ることにしている。といっても、田んぼばかりの勿来町には、寄り道できる駄菓子屋もコンビニもほとんどないのだが。
海から遠く離れ、山を背負ったなだらかなこの町は、藩政時代から田畑を下敷きにして家を生やしてきたような成り立ちなのだという。集落が田んぼによって途切れ、ぽつんと農家の一軒家を見つけたと思えば、また果てしなく田んぼが見える。
そんな町を、歴は家へ向かって真っすぐに歩き続ける。
高速道路になっている高架橋の下をくぐって間もなく歩くと、集落が目に入った。離れ小島のように、田んぼのなかに浮き上がったような家々だ。
その集落の入り口に、ひときわ立派な門構えの家がある。
土塀に囲われ、いくつもの土蔵を持った家の表札には、『迫間』とある。歴の生家であり、この集落の中心だった。
その向かいに、もう一つ『迫間』と表札がかかった家がある。こちらは
コンパクトな方の門を、歴はくぐった。
カラカラと引き戸を鳴らし玄関を開けて、戸を閉める。鍵は最初からかかっていないし滅多に閉めない。周りがご近所さんばかりで、泥棒が立ち入る心配がほとんどないのだ。
「ただいまー」
歴は誰もいない廊下に声をかけてから、踵を返して上がり框に腰を下ろし、スニーカーを脱ぐ。立ったまま放るように靴を脱ぎ捨てるのも、紐を解かずに靴を脱ぐのも、行儀が悪いからやらない。友達には、「委員長はめんどくせぇ」とからかわれるが、そこは譲れない歴である。
脱いだスニーカーを、三和土の端っこに並べる、その頃になって、お勝手口の方からシャリシャリと玉すだれが音を奏でた。
「歴さん、おかえりなさい」
台所にいた、祖母が顔を見せたのだ。
今まできっと
「ただいま、おばあちゃん」
「いまお茶持ってくるわね。……あぁ、それと、土曜日に着る喪服を出しておいたから。サイズ変わっていないかどうか、あとで着て確かめて頂戴ね」
「うん。富岡の大叔父さんの法事だよね? わかった」
歴が言うと、祖母は納得したように頷いて、また台所へ戻っていった。
歴は手洗いうがいを済ませて、自分の部屋には戻らず、居間の座卓の上でノートを広げた。
今日授業に合った、国語、社会、理科……のノートだ。それと全く同じ内容を、右手側に置いたルーズリーフに書き写していく。
お盆に乗せた漬物とお茶を居間に置きにやってきた祖母が、歴の様子に気づいて、声をかけてきた。
「あら、歴さん。宿題?」
「ううん、違うよ」
つとめて自然に、歴は答える。心のなかでは、よくぞ聞いてくれました、と胸を張っていた。
「学校に来ない子、いるって話してたでしょ。小綿紡希。その子のぶん、ノートを写してるんだ」
「あら、そうだったの。偉いわねぇ」
今日はじめて、祖母の目元が和んだ。
歴はいかにもしれっとした顔で、続ける。
「まぁね。また来たとき、ノート取っておかないと授業に追いつけないでしょ? ……それに」
歴は一旦呼吸を置いて、
「……どういう理由があって、あの子が学校に来ないかわからないけどさ。登校拒否なんて悲しいじゃん。はやく学校に来てほしい」
「さすがうちの跡取りね。頼もしいわ」
祖母は、満足気に頷いた。
歴は平然とした顔をしていたが、心のなかではスキップせんばかりに気持ちが弾んでいた。
しかしあくまで冷静に、歴は黙々とエンピツを走らせる。迫間家の跡継ぎは、ちょっと褒められたぐらいで、浮かれないのだ。
祖母は、湯飲みに急須を傾けながら言った。
「貴方は将来、千人を超える社員と十五の傘下企業、この町の人の人生と資産、多くを導く立場にある」
「だから、子供のうちから、徳を積みなさい、でしょ?」
歴が祖母の言葉を引き継いで言うと、祖母は、そう、と満足気に笑いかけて、歴の前に湯飲み茶碗を差し出した。
褒められた気分になった歴が上機嫌に鉛筆を走らせていると、町内会のスピーカーがヒィン、と調子はずれのノイズを吐き出した。それと同時に、『赤とんぼ』のメロディーが流れだす。この町内の、五時の時報だ。
「あら、もう五時? お豆腐屋さん、今日、こっちに回って来なかったわねぇ」
そのとき、珍しく祖母が困ったように視線を彷徨わせた。
歴の住む集落には、時たまトラックでお豆腐屋さんの移動販売が回ってくるのだが、これがなかなか気まぐれで、来ると思ってなかった日に来ない、ということがザラにある。アテが外れたらしい祖母に向かって歴は顔を上げた。
「お豆腐なら、おれが買ってこようか? 駅前の商店、まだ開いてるよね?」
「ありがとう、歴さん。でも、いいわ。今から出かけるにはもう遅いから」
祖母の言葉を、歴は不思議に思った。
遅い、といっても春の口だ。五時でもまだ闇は遠く、うすいオレンジの色味がかかっているだけ。いくら歴がまだ小学五年生とはいえ、ずいぶん心配性だと思った。
「でもおばあちゃん、まだ夕方だよ。いまは空も明るいし、大丈夫でしょ?」
「だから、よ」
祖母は言って立ち上がり、割烹着を畳んで、壁にかけた。祖母の、お料理終了の合図だ。豆腐は完全に諦めたらしい。
「歴さん、この時間――黄昏どきはね、
ふぅん、と歴は鼻を鳴らした。納得はしていないが、祖母が折れない以上は、納得するフリをするほかない――なにせうちのサッパとしたおばあちゃんだから――エンピツを傾けながら、歴は唸る。
「でもさぁ、なんか珍しいね、おばあちゃんがそんなこと言うの」
「あら、そう?」
「そうだよ。最近、テレビでよく心霊写真特集なんてやってるけど、おばあちゃん、すぐくだらないってチャンネル回しちゃうじゃないか。その……黄昏どきも、オカルトっていうのじゃないの?」
「それは違うわ、歴さん」
祖母はまるで、寝物語を語るようなゆったりとした口調で続けた。
「オカルトとは、違うもの」
今度は、歴は相槌を打つことは出来なかった。
歴には、正直、その二つがどう違うかよくわからない。
祖母は古くからの教えを大事にするけれど、オカルトが嫌いだった。最近流行りの、なんとかの怪談とかのCMを見かけるたび、くだらない、って顔をしかめるぐらい。
だからこれはオカルトじゃなくて、本当の話なんだろう。真実かどうか、じゃなくて、祖母が孫に教えたいこと。
そう、歴は納得すると同時に、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「じゃあ、さ、おばあちゃん。あの世とこの世が交わると、どうなるの?」
「そうねぇ――迷う、惑う、のかしらねぇ」
迷う、と歴は祖母の言った言葉を口のなかで回らせた。何気なく視線を外の世界へ向ける。
居間先の開け放った障子戸から、縁側、庭先、屋敷林、そして空、と順番に見上げていった。
春の夕暮れの朱色が、黒に滲みだしている。いつか理科で習った、月食、という言葉が、歴の脳裏によみがえった。月が闇に食べられてしまうことがあるのなら、空は毎日闇に食べられているのだろうか。広大な胃の腑に入って、朝になってまた生まれてくる世界。
だったら、と歴は思う。黄昏どきがあの世とこの世を交えるのなら、小綿紡希は黄昏のなかに迷ってしまったのではないだろうか。
先週の放課後を境に、学校から姿を消したクラスメイト。
しかし、歴の妄想は、翌日あっけなく砕かれた。
小綿紡希は、翌日の朝、学校にひょっこり姿を見せたのだ。
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