1.
小学五年生、桜混じる春に小さな風を起こして、駆ける。
右手には四車線の
勿来第一小学校の校門が見えてくる。
ゴールの校門は、もう歴の鼻先にある。どうやったって、歴の勝ちは揺るがない。
「委員長はやい、はやぁい! トップ!」
「くそぉー!!」
遠く後ろから、はしゃいだ声と悔しがる声が聞こえた。
むず痒い気持ちと、誇らしい気持ち。二つを抱えながら、歴は走り続けた。校門まで、あと三メートル、二メートル、
「へへっ! いーちい!」
大股に校門のラインを越えて、見事ゴール。
頭上にそよそよと降る桜の花びらは、まるで賛辞の花吹雪みたいだった。
登校レース、一等賞になった歴は、走り続けてずり下がってきたメガネをちょいと上げる。
息切れしてないようにみせてカッコつけたいところだが、全力で走ったせいで荒っぽくなった呼吸は一向に落ち着こうとしなかった。背中の黒のランドセルが軋みをあげるように上下している。かわりに、歴は胸を張って言った。
「登校レース、一位になった人は、今年の運動会のリレーのアンカー。それでナットクするんだよな、
歴が勝ち誇りながら呼吸を整えている間に、一緒に登校した同じクラスの三人組が走り寄ってきた。そのうち、レースの参加者だった男子二人、恭一と将太が、肩で息をしながら感心と悔しさを滲ませて言う。
「くっそー! 委員長! ずりぃぞ、なんかずりぃ!」
「委員長、やっぱすっげーな! 負けた。全っ然追い付けねーべ」
歴に負けて、学年トップクラスの俊足を誇る恭一は心底悔しそうに、恭一と同じ野球クラブの将太は、しきりに感心している。
二人とも、去年は歴と別のクラスで、それぞれ運動会ではリレーのアンカーだった。つまり歴にとってのライバル関係という訳だ。“登校レース”で決着がつく、今までは。
恭一と将太の顔を見交わして、歴は念を押す。
「委員長じゃなくて、歴、って名前で呼んでって言ってるだろ。本当に納得してんのかよー? 二人とも」
「もー、三人ともわかったからさぁ、早く校舎入ろうよ。みんな見てるし、恥ずかしいから」
そのとき、唯一レースに参加しなかった女子の
「香苗は冷めてる!」「そうだ! 女子は冷たい!」
「あっそ。じゃあ先生に怒られればー? 渡辺担任を怒らせるとしつこいよー」
香苗の言葉で、歴はふと我に返った。
「もう“朝の会”始まる時間? それは急がないと」
まだ、くやしいくやしいと未練がましく現実に戻れない野球少年二人を尻目に、「ほんと、男子って子供」と非情にも言い捨てた香苗と肩を並べて、歴は昇降口まで歩いた。
そのわずかな道すがら、香苗があらたまって言った。
「しかしすごいよね、委員長は」
「すごいって、なにが?」
「運動も出来るし、成績も学年トップ。もう塾で中学生の勉強、習ってるんでしょ?」
「誰から聞いたの、そんなこと」
歴は心底驚いた。香苗の話は事実だったが、歴自身は香苗に話した覚えはないのだ。香苗は歴を見下ろして――いまは香苗の方が背が高いのだ。悔しいことに――どこか得意げに言った。
「さぁ、誰だっけ。……とにかく、女のコの噂は早いんだよ」
女のコの噂――と聞いて、うすら寒いものすら感じながら、歴はずり下がったメガネをあげて唸った。
「中学の勉強が出来てもなぁ……」
「なにそれ? イヤミぃ? ムカつくーチョベリバー」
「い、イヤミじゃなくて――おばあちゃんには、勉強が出来ても運動が出来ても、それだけじゃ足りないって言われるんだよ」
歴が反論すると、香苗は記憶のなかを掘り起こすように空に目線を向けながら言った。
「委員長のおばあちゃんって、あの、いつも着物着てるサッパとした? そんなこと言うんだ」
そう、と歴は頷いてみせた。
“サッパとした”というのは、この地方なりのほめ言葉だ。小ぎれいな人、清潔感のある人、を意味している。
歴の“サッパとした”祖母は、地区の主婦たちのなかでも一目置かれている存在だった。まだ十歳ながら女社会に生きている香苗が祖母のことを知っているのも、無理はないくらいに。
実際、月に一度は美容室に通い、授業参観には着物で来る祖母は、孫の歴から見ても威圧的というか、一筋縄ではいかない手強そうな雰囲気を纏っていた。
「そう。ほんで、委員長のおばあちゃんが言う、勉強と運動以外ってなんのこと?」
昇降口で、立ったまま器用に外靴を脱ぎながら、香苗が首を傾げた。
「おれもよくわかんないけど――」
簀子に座りながらスニーカーを脱いだ歴は、下駄箱に靴を突っ込んで、真新たらしい上靴に履き替える。新学期から一週間。サイズが一つ大きくなった上靴は、まだどこか足によそよそしかった。
「おばあちゃんは、学校でも塾でも学べないことが、生きていくのに一番大事ってよく言ってる」
祖母から聞いたままを歴が言うと、香苗は、なんだろう、と真面目に唸った。
なんだろう、と唸りたいのは、実は歴も同じだった。
祖母は、考える前に答えを教えてくれる人間ではない。むしろ、「悩むことが人間にとっての成長の種なのよ、歴さん」ときっぱりと言い放って、歴が自分で答えを見つけるまでは例え天地がひっくり返っても正解を言わないような人だ。
つまり、歴自身が、“大事なこと”の答えを探さなければならない、のだが。
塾でも学校でも学べないことを、どこで学べばいいのだろう――。
最近の歴はひそかに、このことで頭を悩ませているのだった。
「おれ、わかるよ!」
そのとき、階段を一段飛ばしで駆け上がり、歴たちを追い越してきた将太が、こちらを見下ろしてニヤニヤと笑って言った。どうやら、後ろで歴たち二人の話を聞いていたらしい。香苗が訝しがった。
「なに? 将太、突然」
「学校でも塾でもわからないこと、先生にもわからないこと。それすなわち、
歴と香苗は、思わず顔を合わせた。
なに言ってるんだこいつ、と思いっきり顔に書いた香苗が、呆れながら言った。
「将太の言うことはいつも何か足らない」
そう言い捨てて、教室の戸を引く。歴もその後ろから教室を覗いた。
そこには、昨日と同じ五年二組の教室が、昨日と同じ人間の顔を揃えて待ち受けていた。昨日と同じ――つまり、昨日いなかった人間はいないままの教室。
――迫間歴のクラス、勿来第一小学校五年二組には、ちょっと変わった生徒がいる。
出席番号十二番。名前を小綿紡希という。
目元を隠すほどの長く厚い前髪。毛玉だらけの服。友達がおらず、休み時間はいつも独りで、窓の外をぼんやり眺めたり、机の木目をじっと見つめたりしている。返事をするのが少し遅くて、喋り方もおぼつかない。そんな赤ちゃんのような印象からか、担任の渡辺担任からは、つぅちゃん、と呼ばれていた。クラスのなかで、ちゃん呼びされる生徒は小綿紡希だけだ。
担任にいつも目をかけられる、ひとりぼっちの女子。
その小綿紡希が、二日前から学校に来ていない。
理由は、先生たちにもきちんと知らされていないらしい。ご家庭の都合、なのだそうだ。
トーコーキョヒだ、と女子の誰かは言っていた。
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