第19話 そういうことができる人だから、俺は。
彼はその大きな手で、自分自身の顔を覆い隠していた。
俺は彼の首にそっと両手を回した。何だか、ものすごく、彼を抱きしめたかった。こんなに暑いのに、そんなことどうでもよくなっていた。
「悪い、マキノ」
抱きしめ返してくる。先程とは違う、いつもの穏やかさで。そして彼の顔はちょうど見えない。
「命日なんだ」
「クラセさんの?」
彼は黙ってうなづいた。
「ブラスバンドの先輩で、高校からのバンド友達で、誕生日のプレゼントを驚かしあって交換した人の?」
再び彼はうなづいた。
「トモさんは、その人が好きだったの?」
「判らない」
「でもその人はトモさんが好きだったんでしょ?」
「そう言った。少なくともそういう意味のことを言った。だけど、そう言った次の次の日、奴は死んだ」
自殺だったかも、とナナさんの言葉が俺の中によみがえる。
「何で死んだのか、誰もさっぱり判らないと言う。だけど、あれは、俺のせいもあるかもしれない」
「トモさん!」
俺はぱっと彼から離れた。そこには、俺の知らない彼の表情があった。今まで見てきた、いつも穏やかな、笑みを絶やさない彼の顔からは想像ができない、辛そうに歪んだ。
胸が痛んだ。錐を突き立てられたように、鋭く、強く。
「俺が、ちゃんと答えていたら」
「違う!」
俺は思わず叫んでいた。
「何が違う?」
「それは……」
「俺は、答を知っていた。ただ、そこに俺のモラリティとかそういう奴が邪魔をして、答えさせなかった。他に奴が死ぬどんな理由があったにせよ、自殺ではなかったにせよ、俺はYESなりNOなりの答を出すべきだったんだ」
「トモさんは、クラセさんが好きだった?」
「好きだったよ。だけどマキノ、俺は、奴と寝たいかと聞かれたら、答えられない。今でもそれは答えられない。そういう類の気持ちを彼に感じたことはない。だけど奴という人間は好きだった。奴の声が好きだった。ずっと奴の声を支えるベースを弾いていたいと思った。それは本当なんだ」
きりきりと、胸の痛みが止まない。
「最初にコントラバスを勧めたのが、奴じゃなかったら、俺はきっとそうしていない。あの熱心さに――― いや、あの勧めた声にその時から惚れていたんだ。マキノお前、アジテーターの声って知ってるか?」
ううん、と俺は首を横に振った。
「歌はさ、上手い奴はいるし、練習次第で上手くなることはよくあるよな。だけど、扇動者の声を持ってる奴はそうそういないんだ。人を無条件に動かす声だよ。それは天性のものだ」
「あ」
前に聞かされたテープの声を思い出す。
マイクロフォンごしの、あの何処かが切れたような。何かが過剰にあふれていて、それでいて何かが欠け落ちているような。
「俺が最初に、奴のその声に引っかかったんだ。でもそれは間違っていなかった。同じ高校に入った時、彼は迷わず俺をベースに誘った。俺は嬉しかった。また彼の声が間近で聴けるのかと嬉しかった。そして高校時代ずっと彼とバンドで活動した。奴が一浪しても進学するつもりだと聞いた時には、迷わず俺はその学校を選んだ。別に学校へ行かなくてもよかったかもしれない。だけどそうすることができたから、そうしたんだ」
ずっと追ってきたんだ、と彼のとりとめのない話は、言っていた。
「いつも突拍子のないことで俺を驚かせて、振り回して、楽しませた。俺はそれが楽しかった。俺は昔から手の掛からない奴で、誰かに振り回されるようなことはまずなかったからね。だけど、それがどれだけつまらない生活だったか、奴に会ってから気付いたんだ。だけど、それはあくまで友達という次元のことであって」
いや違う、と彼は自分の言ったことを次の瞬間、否定する。
「判らない。俺の感じていたのは、もう執着だ。もしも奴という存在を、誰かが俺以上の密接さでもぎ取っていったら、俺は何をしていたか判らない。だから、執着は、もしかしたら、友達の次元ではなかったかもしれない。いや絶対そうだ。だけど、俺は、あの時、答えられなかった。奴には」
「クラセさんは…… あんたにどう言ったの?」
「言う前に、キスされた」
彼は苦笑する。
「驚いたなんてものじゃない。からかっているのか、本気なのか、本気だったらどうなのか、俺は一瞬にして混乱したよ。だから聞いたよ。『どういうつもりだ』って。そうしたら奴は言った。俺が好きなんだって」
「その通りじゃないの?」
「今だったら、そう思う。思える」
だろうな、と俺も思う。
「だから俺が、そう言ったとき、応えたの?」
「お前は別だよ。お前がそう言ったから、俺は、その時のことが本気だったと、今は思えるんだ」
大きな手が、俺の髪をくしゃ、とかき回す。
「それは、俺が居て、良かったってこと?」
「……」
「俺はトモさんが好きだよ? どうしてだか全然判らないけど、どうしてだか判らないから余計に…… 理屈が要る訳? そういうことに」
理屈なんて、後でついてくるものなのだ。
俺はそう信じていた。俺自身、どうしてそういう感情になったのかさっぱり判らない。世間的モラルとはかけ離れている。だけどそんなことはどうでもいいのだ。
「お前は、俺と似てるよ、マキノ」
「似てる? そんな訳ない」
「似てるよ」
彼はそう言うと、正面向いて、俺の顔を両手ではさんだ。
「お前は、押さえ込むなよ、自分を」
「押さえ込んで……」
なんかいない、という言葉は結局言えなかった。
*
だが押さえ込んでいたのは事実だ。ただ、俺は自分が押さえ込んでいるということ自体に気付いていなかったのだ。
俺は彼の腕の中で、あの熱を出した時のことを思い出していた。
風邪が伝染る、と避けた俺に、彼は構わない、と長いキスをした。寒いと言ったら抱きしめていてくれた。
俺は、それが嬉しかった。
苦労してかぶり続けていた「手の掛からない子」というものを何の意味もないんだ、と無理矢理にでも破り捨ててくれて。そしてそれが決して強引な訳でもなくて。
ああそうか。そういうことができる人だから、俺は。
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