第18話 「どうして、俺が好きなんだ?」

 冷夏だ、と少し前の長期予報は言っていたはずだ。

 冗談じゃない。

 エアコンの壊れた部屋の中は、サウナのようだった。だったらそんなところにいなければいい。そう思ってもいいはずなのに、俺はその部屋から出ることができなかった。

 八月の半ば。その日彼は、全ての予定を空白にしていたらしい。夕方訪ねていった時には、やや驚いた顔をされたので、俺の方がびっくりした。


「今日は一日休みって言ったはずだけど……」

「あ、だったらごめん、帰る」

「いいよ、居たければ居な」


 彼は扉を開けた。だがその瞬間、その部屋の空気の暑さに俺は驚いた。

 クーラーが壊れているんだ、と彼は言った。

 俺はだらん、と団扇片手に雑誌のページをめくっていた。

 だけど大して内容なんて頭の中に入ってもこない。手と言わず額と言わず汗がじわじわとにじみでてきて、めくっている雑誌のページまでがよれてきていた。

 無論、その部屋の主は、出て帰って涼しいクーラーの効いた部屋で寝たければそうすればいい、と無言の主張をしている。だが俺は、意地でもそこから出なかった。

 ぱたん、と俺は雑誌を閉じた。

 別に病気でも何でもなくても、こう暑いと頭がぼうっとしてくる。

 夜中なぞ、特にそうだ。いい加減眠ってしまえばいい。少なくとも夢の中まで暑さが襲ってはこないだろう。

 だがこの部屋の主は、平気で本なんか読んでいる。寝る気配はない。

 俺は何となくそんな彼に苛立っていたのかもしれない。時々本を読むのを邪魔したい衝動にかられた。だが結局はできない。あまりにもその様子が涼しげだったので、壊してはいけない、と思ってしまう。

 と、不意に彼は顔を上げた。そして俺の方を見る。すると彼を見ていた俺は視線が急にあってしまい、慌ててそらした。


「暇だったのか、マキノ? 今日は」


 俺は首を横に振った。そして何となく、と付け足した。


「今日は一日、学校の補習授業があったんだけど…」

「ふーん… 高校生も忙しいんだな」


 何となくその口調は、いつもより辛辣なものに聞こえた。聞き覚えのない口振り。


「忙しくなんかないよ。所詮学校じゃない」

「学校は嫌いか?」

「学校自体は好きでも嫌いでもないよ。ただ、時々『ああここでもか』って感じはある」

「『ああここでもか』?」

「似てるんだ。俺の学校は、俺の田舎と何か」

「似てる?」

「ここは東京で、向こうは田舎なのに、何か、同じ空気が漂ってるんだ」

「それはお前の学校が古いからじゃなくて?」

「伝統、はあると思うけどさ」


 いかんな、と俺は思った。思考があまりよくまとまらない。暑さのせいだろう。


「何か、人が覚えにくいんだよ。個性的に一人一人見えるのに、結局同じように見える」

「個性的って仮面をかぶっているだけ?」

「うん、それ」


 俺はうなづいた。だけどあの会長は別だ。彼女は異彩を放っている。だからこの俺が、すぐ覚えた。


「夏休み入ってから、ずっと忘れていたんだけどさ、何か、久しぶりに学校行ったら、やけに目について。で、帰ってベース鳴らしていたら、何となく会いたくなって」

「ああ、マキノは俺のこと、好きなんだっけ」

「うん」


 俺は即座にそう答えていた。


「だってトモさん、俺、前にもそう言ったじゃない。最初から」


 それは間違いない。どういう種類のものであるか俺自身に判別ができなかったしても、そのことだけは事実だ。


「それともトモさんは、俺が嘘ついたと思ってる?」

「いや。でもあの時はお前、酔ってたみたいなものだろ?」


 だけど、その後については全然酔ってなんかいない。正気も正気だ。正気でこんな関係続けているなら、好き以外の何だと言うのだ。


「酔ってなんかいないよ」

「何で?」

「何でって」


 思いがけない問い。俺は言葉に詰まった。


「どうして、俺が好きなんだ?」


 団扇を放り出して、俺は彼に近付く。


「理由が居るの?」


 体温が感じられる程に、近付く。彼は本を閉じた。俺は重ねて問う。


「理由が欲しいの?」

「そうではないけど」

「それとも」


 ああまただ。これが酔っているということなのだろう。

 俺は自分の口が勝手に喋っている様を遠くから見ている気分になった。べらべらべらべら、実によく回る。


「クラセさんも、あんたにそんなこと言ったの?」


 マキノ、と彼は驚いたように強く俺の名を呼んだ。さっと背中が冷たくなった。

 俺は自分が聞いてはならないことを聞いていることにその時気付いた。だが一度開いた口は止まらなかった。


「クラセさんもやっぱり、あんたのことを好きだったんだ」

「違う……」


 彼は頭を振った。俺は彼に詰めよる。


「奴が俺のことを好きだった訳がない」

「そんなこと判るの? あんたは彼じゃない! 彼がそう言ったの? それとも言わなかったの?」

「言ったよ。言ったんだ。…ああそうだ。言ったんだ。俺は、言われたんだ。だけど」


 手が伸びる。抱きすくめられる。何か言おうとした俺の口は塞がれた。

 こんなことは初めてだった。何故、と俺は思った。

 それはひどく長い時間に感じた。ひどく荒々しくて、俺の知っているあの穏やかな彼など、そこにはまるで感じられなかった。

 ようやく身体を離すと、肩で息をついている俺を見据えて、彼はごめん、とつぶやいた。

 開け放った窓から、軽い風が入ってきた。俺は首筋に微かな涼しさを感じた。身体中から一度に汗が吹き出していたことに俺はその時ようやく気付いた。

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