第9話 好きという感情自体には理由なぞない。

 正直言えば、俺はベース自体に興味がある訳ではなかった。

 何だろう、と後になっても考えたのだが、はっきり言ってそれは、「成りゆき」だった。

 強いて言えば、彼がやっていた楽器だから、自分もできたらいいな、と考えたのかもしれないが。

 そう、今まで生きてきて、俺の選択は、どんなことにおいても、大体において「成りゆき」だった。

 ピアノを始めたのも、それが好きになったのも、高校がこちらになったのも、BELL-FIRSTのメンバーと仲良くなったのも。

 そして彼とそうなったのも。


 俺にはもともとその趣味はない。

 いや違う。趣味が無い以前に、考えたことすらなかった。

 思考の範疇外、というか、アウトオブ眼中、というか、そのあたりは適当だが、とにかくそれが良い悪い珍しい珍しくない正常だ異常だ、ということを考える以前に、俺の世界の中には無かったのだ。

 そして、無いからこそ、そこには禁忌タブーというものが存在していなかった。

 彼のことを好きなのか、と訊かれれば、俺はそうだと答えるだろう。

 ただ何故と言われても困る。好きは好きで、理由はない。

 理由は結局、後でつくものだ。好きという感情自体には理由なぞない。

 ただそこに欲望があったかと言うと、果たしてどうだか。

 自分から誘っておいて何だが、そもそも俺は、これまで女の子にすらそういう感情と言うか欲望と言うか――― を持ったことがないのだ。

 要は未熟なのだと思う。

 だから自分でも自分の行動が不思議だった。

 ただ、これまでが、そういった欲望を押さえつけてきたのではないか、という感じはしなくはない。

 それでも人の噂は、気にしない振りをする程度には気にする方だったのだ。

 小さな小さな村社会の中で、どうしても見られがちになる生活は、知らず知らずにうちにそういう傾向を与えていたのかもしれない。

 こちらへ出てきてから、俺はひどく背中が軽くなった様な気がしたものだ。つまりこれが「羽根を伸ばした」という感じなのか、とも思ったりした。


 そして彼に関しては。

 何がどう好き、と訊かれると、非常に困る。本当に、「何となく」好きなのだ。


 無理矢理理由づけをしてみれば、俺よりはずいぶん高い背とか、ベースを弾くごつい手だとか、穏やかな声とか視線とか――― そんなものが何となく心地よいのだ、ぐらいしか言いようがない。

 だけどそれは、結局現在持っているこの感情の説明にはならないのだ。


 俺はそんな揺れている感情は出さずに彼に訊ねる。


「今から始めて、ステージに立てるようになるかな?」

「努力次第ってところかな」


 ほんのさわりの部分を教えてもらうと、やっぱり左手の指がすぐに悲鳴を上げた。

 ピアノはピアノで手だの指だの手首だのに力は要るのだが、弦を押さえる時のように一点集中的に力がかかることはない。


「努力次第?」

「そりゃそうだろ。だけどお前、譜面読めるし、手の力強いだろ? それは大きいよ」

「さっき女の子でもって言ったくせに」

「それはそれ。できるということと有利ということは別だろ?」


 確かに、と俺はうなづいた。


「マキノはステージに立ってみたいの?」

「うーん…… 判らない」

「お前の学校って、結構文化祭とか盛んだった気がするけど? そういう時に演るって手もあるよな」

「知ってんの? うちの学校」


 そう言われるとは思わなかった。彼は俺の制服をつついてその種明かしをする。


「ダークグリーンの制服は有名どころだからね。俺も昔、高校生の頃、遊びにいったことがある」

「へえ」

「秋だったよな」

「だと思うけど。でも俺、別に文化祭はどうでもいいんだけど」


 へえ、と今度は彼の方がやや驚いた。


「何で? 結構楽しいじゃない」

「楽しいのかもしれないけれど」


 何って言うんだろう。

 俺は言葉を捜した。

 嫌いじゃあないのだ、お祭り騒ぎという奴も。ただそこに向かう熱いエネルギーという奴が、俺にはどうにも何かしら欠けているのだ。


「トモさんはどうだったの?」

「俺? 俺は最初のステージが学園祭。まあお前の所ほど有名どころじゃあないけど、それなりに、楽しいものだったし」

「高校の時?」

「高校の時。まあ正直言って、そのせいで電気なしのベースから電気ありのベースに心変わりしてしまった」


 ありがちなパターンだろ、と彼は笑った。


「じゃあそれからずっと」

「うん。そん時バンド組んだ奴が、どういう訳か、同じ大学行く羽目になってね。まあ二人とも最寄りの学校選んだってこともあるんだけど」

「近いの?」

「実家? 大学と近かったよ」

「そうじゃなくて、その人と」

「ああ」


 穏やかな笑みが、彼の顔を覆った。


「近かったよ。だから高校の時も大学入ってからも、どっちがどっちの家か判らないくらいにお互いの家に入り浸っていたな」


 でもそんな家を出たんだ。


 その問いは俺の口からは出てこなかった。

 BELL-FIRSTの他のメンバーから聞いたことがある。彼の実家は都内だと。

 だからそれを聞いた時、俺は思った。

 別にわざわざ一人暮らしをすることもないのに。何かと費用もかかるだろうに。


「それじゃ、トモさん、その人とは今でも仲良し?」

「そうだね」


 そしてまた彼の顔を穏やかな笑みが覆った。


 嘘だ、と俺は直感的に思った。



 ベースの方は、それから加速度的に上達していった。

 実際始めてみると面白かったし、ピアノをやっているから、ベース音というものが何なのか、理解するのが早かったらしい。

 彼は彼で、俺が目に見えて上達するのは楽しいらしかった。

 昔使っていたという教則本を引っ張り出してくれたり、判らないフレーズがあると、それこそ手取り足取り教えてくれた。

 ライヴのある日でもない日でも、俺は彼の所へ出かけていった。私服の時もあるが、制服の時がほとんどだ。

 いつ行っても彼は文句の一つも言わなかった。誰かが来ている様子もなかった。

 そして、そういう時の何回かに一回は彼は俺と寝てくれた。だけど彼が自分から手を出すことはなかった。


 決して。

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