第8話 最初に彼がベースを教えてくれたとき
「それにしても上手いなあ。ねえマキノ、今度の文化祭の時に、うちのバンド手伝ってくんない?」
放課後になると、たびたびカナイはピアノ室にやってくるようになった。
苦笑いしながら俺が、バンドの練習はいいのか、と訊ねると、まだその段階じゃあない、と奴はそのたび言った。一体いつそういう段階になるやら。
そんな調子で文化祭に出られるのだろうか、と思った矢先の奴の言葉だった。
「君のバンドのやる曲には鍵盤が入るの?」
「んにゃ。まだそうとも限らないんだけど」
グランドピアノにもたれながら、奴はふらふらと手を振る。
「基本的にはお祭りバンドだしね。俺達結局、まだ初心者も初心者の集団だもの。だから、少しでも上手い要素が入ったら恩の字でしょ?」
「だめだめ」
俺は奴の真似をしてふわふわと手を振った。
「あまり俺はそういうの、好きじゃあないの」
「バンドが? それとも文化祭のステージって奴が?」
「んー……」
俺は言いよどんだ。
*
「ああ、やっぱりすじがいい」
彼はあの日、そう言った。
最初に彼がベースを教えてくれたのは、「あの」次の日だった。
太陽はもう高かった。朝と言ったら殴られそうな時間帯に、のそのそと起き出した俺は、適当に羽織ったシャツのまま、ぼぉっとして昨夜の続きで、そこいらの雑誌を繰っていた。
別に内容全てが理解できるという訳ではないけれど、彼と自分が共通して好きである情報というものに目を通しているという事実だけでも、結構楽しかった。
単純だ。好きな人と同じ趣味があるというだけで嬉しいのだ。
彼はそんな俺を見て、くすくすとあの穏やかな笑いを浮かべながら言った。
「猫みたいだな、本当に」
そう? と俺は問い返した。
彼はテーブルの上に大きなマグカップを置いて、自分のためにはブラックを、俺にはカフェオレを入れた。
「ねえトモさん、俺そんなに子供に見える?」
「充分子供だよ。俺に比べればね」
「じき大きくなるよ」
そうだね、と彼は笑った。だけど入れてくれたカフェオレは俺の好きな甘み入りだった。
彼は前日ライヴで使ったベースを取り出すと、チューニングを始めた。黒地に、虹色? 玉虫色と言うのだろうか? それとも貝殻を使っているのだろうか。そんなきらきらした不思議な色の細い曲線で、彼の黒いベースは飾られていた。
これが彼のメインベースらしい。ステージで、よっぽと変わった曲でない限り、彼はこのベースで通している。
俺はカフェオレをすすりながら訊ねた。
「何でベースなの?」
「何でって?」
「ギターとかじゃなくて。ベース選んだ理由」
「ああそういう意味か。もともとね、低音楽器って好きなんだ」
「低音楽器」
「小学校の鼓笛隊では小型のスーザフォンかついでたしね、中学校もすんなりチューバとかに行って。だけどそこでコントラバス弾いてしまったのが悪かったな」
「ああ」
確かにそれはあり得る、と俺は思った。
コントラバス。ウッドベースと言った方が早いかもしれない。ロカビリーのバンドなぞ、これをつかうことも多いのだ。
ブラスバンドでも、何故かコントラバスだけは弦楽器なのに入っていることもある。
「ちょうど俺の年には、入部者が多くて人が余っててね。なのにあれを志望する奴がいなくて。で当時は先輩だった人の一人が、『お前ならできる』なんておだてるからついつい」
俺は笑った。
「ま、今となっては感謝してるけどね。チューバじゃ応用は効かないけど、コントラバスは俺にこの指をくれたし」
彼は左手を開いて見せる。大きな手だ。指先が固くなったごつい手だ。俺はその手を取ると、自分と見比べた。指の太さなんて、俺の1.5倍はある。
「やっぱりこういう手じゃないと、ベースって弾けないかなあ」
思わずぼそっとつぶやいた。
「そんなことはないさ。だってブラスの女の子なんてお前よりずっと小さくって細い手だって居たし。それでもかなりぼんぼんいい音出してたしね」
「ふーん…… じゃあトモさん、中学がブラスで、高校でバンド?」
「まあね」
「そんな時期に始めても、そんな上手くなれるんだよね」
「やってみたい?」
彼はチューニングを既に終えてある別のベースを指した。深い赤のベースは、確か彼の三番目ぐらいのものだった。まずステージで使うことはない。
「いいの?」
彼はうなづいた。
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