第4話 彼に最初に出会ったのは、春先だった。
今でも時々ふっとその情景が浮かび上がる。
ライヴハウスだ。「ACID-JAM」。
天井の低い、空気も良くない、地下室のライヴハウス。煙草のけむりだらけの店内。焼き板で作られたような重い木の扉を開くと、そこにはそれまでの俺にとっては縁の無かった世界があった。
大人しく待ってろよ、と彼の大きな手が俺をフロアの隅に押しやる。
そんな光景が、初夏の時分に繰り返された。
*
彼に最初に出会ったのは、春先だった。
郷里に居た頃、俺はそんな所に出入りしたことはなかった。出入りしたことない程真面目、というのではない。出入りしたくとも、無茶苦茶な田舎というのは、そういう所が無かったのだ。
顔なじみの女性の店員が、飲物でもどぉ? と、押すとぺこっと音がするような、メーカーの名が白く入った使い捨てのコップ一杯になみなみとオレンジジュースを渡してくれる。
そんなたび俺は、ありがと、と受け取って、カウンターの一つの椅子を陣取っては遠目にステージを眺めていた。
そのバンドの客は多くも少なくもなかった。決して満員ということはないのだが、聴いて踊るにはちょうどいい程度の人数をいつもキープしていた。
最初に来た時も、そんな感じだった。
都心へ出てきたばかりの俺は、所詮ただの好奇心旺盛なガキだった。
目に映るもの全てが不思議で目移りしていた。そして昼間だけでは足らず、ピアノの練習もそっちのけに、夜の街を散策することが多かった。
もともと田舎に居た頃から、夜出歩くことは好きだった。ただ、昔のそれが、星を見るとか、仲間達と秘密の場所で待ち合わせとか、そういうものであったのに対し、都会に出てきたばかりのお上りさんのすることと言えば。
星ではなくネオンの瞬く街。ものすごく陳腐な表現だけど、俺にはそう見えた。
俺の郷里では夜はとても暗いものだった。
月の無い夜には「闇」が確実にあった。そしてそんな夜に、坂道をブレーキをかけずに自転車で疾走する時の恐怖と快感は、とうていこちらの人間には判るまい。
だがこちらはこちらでまた別の恐怖と快感が待っていたという訳だ。
ACID-JAMに最初に足を踏み入れたのは四月の終わり頃だった。
俺は別に何もそこがライヴハウスと知っていた訳じゃない。ただ、人がずいぶん集まっているな、と思ったから興味を持っただけ。
そして当日券を買って入ったら、そこは既に大音響だった。
水しぶきが頭の上から勢いよく降ってきたような気がした。夏の暑い日に、近くの川に飛び込んで遊んだ時の水しぶきだ。
あれにも似た感触で、音は、俺に降りかかってきた。降ってきた音は、俺の頭の芯を一気に揺さぶっていた。
情けないことに、全ての演奏が終わった後にも、なかなかフロアから動けずに居た。
どのくらいそうしていただろう?
もう閉めるわよ、と店のカウンターの女性が声をかけた時にはもう誰もいなかった。
出てからもしばらくは、頭の芯がくらくらしていた。足どりもおぼつかなく、ふらふらふらふらしていたらしい。店の名にふさわしく、何かに酔っているかのようだった。
だから、そんな時に不意に取られた手に、即座に反撃できるはずもない。
出てきたライヴハウスの前の道を歩いていたら、急に手を掴まれた。
慌てて振り向くと、にやにやと顔一杯に笑いを浮かべた野郎が三人でつるんでいた。色を抜きまくった短い髪、眉毛は何処へ行ったんだ? だらんとしたサスペンダパンツは、そんな短足がやるもんじゃない! ピアスも付けすぎで、お前はバインダーか!と言いたくなるような耳だった。
明らかに流行をはき違えたように身につけている、頭悪そうな(!)男達は、それでも身体は大きかった。俺はやや怖くなったが、それでも負けん気もなくはなかった。
「何か用?」
なるべくきつい声でそう言うと、手を掴んでいた男は、驚いて目を広げた。あいにく声は、きっちり変わり時を過ぎているのだ。
「何でえ、野郎じゃねえの。どぉする?」
どうやら俺は女の子と間違われたらしい。
何となくかっとなって、手を振り払う。無視して早く帰ろうと思った。
だが、三人というのはなかなか厄介な数だ。前へ進もうと思うと前に居て、振り返れば振り返ったでまたそこに一人居る。取り囲まれた、という方が正しい。
「野郎でもいーじゃん。綺麗さんだしさ。ちょっとそこまで付き合ってくんない?」
「やだ!」
俺は即座に答えていた。無論そんなこと言ったらどうなるか、など目に見えてたけど。
「何ぃ? もう一度言ってみろ!」
「いやだ、と言ったんだよ!」
その後はと言えば、もういきなり殴られ蹴られ…… そういう時のことはいちいち細かく記憶したくないものだ。
そして、そこが一応、往来だったことに俺は感謝した。
俺はどうすることもできずに、ずっと目をつぶったままじっとしていた。
と、いきなりその攻撃が止まった。
何だろう、とゆっくりと目を開き、顔を上げると、四人連れの男達が三人組相手にすごんでいた。
おぼえていろ、と逃げる時の常套文句を投げ捨てると、彼らは走り去って行った。
「大丈夫か?」
穏やかな声が耳元で響いた。
ふっと目を開くと、大きな手が視界に入った。顔を上げると、さっきステージで釘付けになってしまった姿があった。
「あ」
BELL-FIRSTのメンバーだった。そのくらい判る。まだ目に焼き付いていた。
それが、彼だった。
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