27 違います
公民館を出たあとは、先輩と一緒に街を歩いた。まだ時刻は午後三時で、外は明るかった。
「今日はいつもより、多めに回るかもしれないわ」
「はい、望むところです」
相変わらず先輩がどこへ向かおうとしているのかはわからなかったけれど、僕は本心からどこへでもついていきたいと思った。
最初に見て回ったのは公園だった。大きな公園なので、中を一周するだけでも二、三十分を要した。砂利の多い通路の両脇には、これでもかというくらい、桜の木々がずらりと並んでいる。満開の時期になると、ここは日本有数の観光名所となる。現在は枝という枝に雪花が咲いていて、きらきらと陽光を反射していた。
道すがら、カップルを何組も見かけた。恋愛に冬の寒さは関係ないようで、腕を組んで歩いたりしている。いや、寒いからこそ腕を組み、くっつくのだろうか。
うらやましい。僕もこの勝負に勝って、恋人として先輩と歩きたいと思った。……まあ、仮に付き合えたからと言って、彼女が腕を組んでくれるかは、わからないけれど。
公園の次に訪れた場所は、なんとブライダルホールだった。先輩はその外観を入念に見て歩き、たまたま見かけたそこの職員に質問を浴びせていた。今月の挙式数はどれくらいか。その中で離婚しそうなカップルがいるか。どうして離婚しそうだと思ったのか、などなど。職員は困り顔で、けれど親切に答えてくれた。長くこの仕事をしていると、将来的に離婚しそうなカップルの見分けがつくという。実際に今月も数組いたらしく、僕は驚いた。
その後は寒くなってきたので、近くにあった紅茶とデカフェコーヒーが売りの喫茶店に入った。先輩は窓ぎわの席でアールグレーを飲みながら、向かいにある産婦人科に出入りする男女をぼんやり眺めていた。
「出口君」
そのカップが空っぽになったころ、先輩が口を開いた。
何だろう? と不安になりつつ、僕は「はい」と短く返事をした。
「回答をしていいかしら?」
……ついに来たか。
「どうぞ」
今まで以上の緊張感。僕はテーブルの下で両手を組み、祈るようにぎゅっと強く握った。
先輩は静かに、ゆっくりと答えた。
「この問題、実は『家庭裁判所の裁判官が、ABの縁故者だった』という単純なパターンなのではないかしら。たとえば裁判官が彼らの親や兄弟だったら、自ら仲介役を買って出て、わざわざ裁判を通さないよう棄却することもあるかもしれないわよね? 問題文中に注釈は無いし、理論的には間違っていないと思うのだけど」
だが彼女にしては珍しく、自信無さげな回答だった。
実際のところ、
「違います」
その答えは不正解だった。
「どうして?」
彼女は眉をひそめ、理由を求めた。
僕は緊張感を維持したまま答えた。
「たとえ裁判官が身内であったとしても、裁判所へ提出された正式な申し立てを、個人的な理由で棄却することはできないですよ。彼がその申し立てを『取り下げるよう説得する』のなら可能でしょうが、あくまでもそれは、本人たちが『自ら取り下げる』だけです。でもこの問題では、裁判所が申し立てを、正式に棄却しているんです。だから、その回答では不正解なんです」
説明し終えると、彼女は納得したように小さく何度か頷いた。
「なるほど、そうよね……」
そしてぽつりとつぶやくと、おもむろに席を立った。
「じゃあ、帰りましょうか」
僕は驚いた。
「え、帰るんですか?」
「あとは、特に行きたいところが無いから。何か問題でも?」
彼女は首をひねった。
「いえ、そんなことは」
「そう。それなら出ましょう」
「は、はい」
そうだ、特に何も問題はない。けれど……まだ正解できていないうちに帰宅することは初めてだったので、そんなパターンもあるのかと、僕は妙な感慨に浸っていた。
店を出たら、外はだいぶ暗くなっていた。いろんな場所を回っているうちに時間が経ち、ひとけのない路上は薄紺色に染まっている。少し前から音もなく粉雪が降りはじめ、静寂さに深みが増す。
「ここでいいわ」
別れ道まで歩き、先輩がそう言った。
「はい。それじゃあ、お疲れ様でした」
「ええ、お疲れ様」
挨拶を交わし、僕は去っていく彼女の背中を見送る。
見送る──つもりだったのだけど。
「出口君」
彼女は途中で立ち止まり、そしてくるりと振り返った。
何か言い忘れたことでもあるのだろうか? と、僕は首をひねった。すると彼女はすたすたと戻ってきて──
いきなり僕を、正面から抱きしめた。
「え? ええ!?」
あまりに突然のことで、頭の中が一瞬で真っ白になった。上着ごしに先輩の体温が伝わる。温かい。
「ありがとう」
すぐ耳元で、先輩の声がする。
「何が……」
尋ねようとした途端、回された腕にぎゅっとさらなる力がこもり、思わず声が詰まった。
「私……わからないのよ」
「えっと……何が、ですか?」
詰まったのどでようやく質問をすると、彼女はゆっくりと、かみしめるように答えてくれた。
「私、あなたの作った問題の答えが、いまだにわからないのよ。見当が、つかないの。こんなこと、いつ以来かしら……」
その声は、かすかに震えていた。
「先輩、怖いん、ですか?」
「いえ」
彼女は首を振った。その黒髪が僕の頬に触れ、くすぐったかった。
「たぶん、嬉しいのよ。でもなんというか……この気持ちを『嬉しい』と、一言で表していいのか悩ましいけれど……とにかく感じるのよ。自分の心が、震えているのを。あなたも感じてるでしょう? 私の胸の高鳴りを」
先輩はそう言うと身体を反るようにして、僕にその胸を押しつけた。
「か、か、感じますっ」
正直なところ、僕は自分の鼓動が強くなりすぎて先輩のそれを感じることは難しかったが、そう答えた。彼女がいつもと違うのは見ればわかるし、何かが心に刺さったのだろうことは、想像できたから。
「ずっと、考えていたの」
「何をですか?」
尋ねると、彼女は苦しげに、そっと息を吐いた。
「私の、両親のことよ。……もしも彼らが、この問題のように離婚調停の申し立てをするとしたらどうなるかって、ずっと考えていたの」
彼女は僕が創ったクイズに自身の家庭環境をあてはめ、仮にどういう状況だったら裁判所にそれを棄却される可能性があるのかを、想像してみたらしい。
でもできなかった、と、彼女は呟いた。
「うちの両親の離婚が認められないという状況が、私には想像できなかったのよ」
二人がそうと決めたなら、その時はなんの滞りもなく、迅速にものごとが進むだろう──彼女はそう考えているらしかった。
「そんなの、わからないじゃないですか」
先輩は首を横に振った。
「先月──たしかちょうど、私たちの勝負の初日だったかしら。その日、実は両親の結婚記念日でもあったのよ。それで私は、子供のころによく家族で行っていた店を、ひそかに予約していたの。もしも二人がその日を覚えていたら、サプライズでそろってディナーをしようという計画だったわ」
僕はその日のことを覚えている。先輩は予定があると言って、同好会の活動を一時間で終わらせた。非常に珍しいことだったので、どんな予定なのだろうと気になっていたけど……まさかそんな親孝行なもよおしのためだとは、想像もつかなかった。
「……でも結局キャンセルしたわ。父は帰ってこなかったし、母もそう、記念日だとか、父の話だとかをいっさい口にしなかったもの」
翌日も先輩は、計画が無駄になった腹いせも込みで、両親にそれぞれチョコレートを手渡したらしい。だがやはり、どちらもなぜ娘がそれをプレゼントしたのかわからない様子だったという。『ニコ福マート』のチョコは、そのように利用するため購入されたらしい。
「だから……あの二人は無理なのよ、もう」
先輩は呆れたように溜息をつき、僕の肩に額をあずけた。……幸せだ。
もっと話したい。できるだけ長く。ここまで彼女に身も心も近づける日は、もう来ないだろうから。踏み込もう、もっと。勇気を出して。
「先輩は、二人にどうなってほしいんですか?」
「それは……」
僕が尋ねると、先輩は少しだけ黙り込んだ。
「……正直なところ、よくわからないわ。あの親があって、いまの私があることは確かだし、ナゾ解きに出会い、こうして難問に出会えたのも、両親の──特に父のおかげなのだから、感謝するべきかもしれないけれど……」
彼女は少しのあいだ、言葉を切った。
「なんと言ったらいいか……他の家庭と同じように、仲睦まじい夫婦であってほしいとは思っているのでしょうね」
「……仲睦まじい夫婦、ですか」
僕はそれを繰り返した。違和感をおぼえたからだ。いや、よく耳にするフレーズではあるのだけど、九先輩がそれを口にするのが妙に感じた。
そもそも夫婦って、どういう関係だったら仲睦まじいと言えるのだろう? おなじ屋根の下で暮らし、お互いに愛し合っていたらそれでいいのか。ケンカをしなけらばいいのか。
僕がまだ子供だということもあるけれど、それはとても曖昧で、答えの見えない問いだった。
だから僕は、その思ったままを口にした。
「でも先輩、『他の家庭』とか『仲睦まじい夫婦』って、いわゆる『普通』とか『一般的』な夫婦像と、自分のそれを比較してるだけのような気がしますけど……」
「え……」
先輩は意表を突かれたという感じで声を上げた。
「夫婦のかたちって、二人の仕事とか、子供の有無とか、時代とか……そういういろんな要素でそれぞれ変わるはずですよね。だから……特定の夫婦像と比べても、あんまり意味ないんじゃないかなって。それに、仲良く日常を楽しんでいるように見える夫婦だって、もしかしたら体面上そうしているだけの場合もあるじゃないですか」
実際に昨日、たまたまそういう知人ができた。
「だから先輩のご両親は、むしろ正直な人たちで、お互いを理解していて、『一般的な夫婦像』っていう曖昧なものに流されなず、自分たちの心地いい距離感を知っている、そういう良い夫婦なんだと思いますよ」
こじつけのようだけど、本心ではあった。お母さんに会ったことはないし、お父さんは短大生をホテルに誘うような変な人だけど……彼らなりに夫婦のかたちを探った結果、そうなったのかもしれないのだ。その可能性を否定することは、当人以外にはできない。
「一般的な夫婦像、ね」
先輩はそう呟くと、小さく笑った。
「どうやら私も、思考停止状態に陥っていたようね」
その言葉は自嘲するようではあったけれど、どこか喜んでいるように見えた。両親に対する違う見方ができるようになったからか、あるいは知らなかった自分の一面を発見できたからか。
「ありがとう、出口君。今まで知らなかったけれど、あなたはとても心の広い優しい人なのね。それに、屁理屈がとても上手だわ」
「あはは……」
喜んでいいやら悪いやらだ。
「ありがとう、本当に」
先輩はそう言うと、おもむろに身体を離した。なごり惜しかった。できれば今夜中、ずっとその温もりを感じていたかった。
まだ雪が舞っている。
雪の似合う人だなあ、となんとなく思っていると、
「ねえ、出口君」
彼女は僕の目をまっすぐ見つめた。
「はい」
僕の記憶にあるかぎりで、それはもっともやわらかな視線だった。
「やっぱり私、あなたの作る問題が好きよ。──いえ、むしろ愛していると言ってもいいわ」
「問題が、ですか?」
「ええ、もちろんよ。そう言ったでしょう?」
先輩はいたずらっぽく微笑むと、その身をひるがえして「それじゃあね」と去っていった。
僕はしばらくその場に佇み、彼女の背を見送った。
温もりと高鳴りの余韻が、胸にじんわりと残っていた。
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