26 最後の勝負
結局、今日の勝負は惨敗だった。予想していたとおり、僕がこの十日間で用意した十五問は、ことごとく正解されてしまったし、外出にさえ至らなかった。
「もう時間ね。出ましょう」
「はい」
弾切れとなったのは、第四和室の利用時間ぎりぎりだった。座卓や座椅子の片づけをして、僕と先輩は一緒に退室した。
「明日が最終日だったわよね。頑張りなさい」
「はい、頑張ります」
落胆や悲観を顔に出さないよう、毅然として応えた。
受付に向かった。退室の際にも、利用者記録簿に氏名や退室時刻を記入するのがここの決まりなのだ。
小窓から事務室を覗くと、用意していたかのように、お姉さんが素早く記録簿を持ってきた。
お姉さんは、九先輩が記録簿に書き込みをしているすきに、僕を無言で見つめた。心配そうな面持ちだった。結果がどうだったのかを知りたいのだろう。僕は先輩に気づかれないよう、小さく肩をすくめ、首を横に振ってみせた。察してくれたらしく、彼女は残念そうに眉根を下げた。
──お姉さん、相談に乗ってくれてありがとうございます。お姉さんの夫婦関係のことも、誰かに相談できるといいですね。
僕は心の中で感謝を述べ、軽くぺこりとお辞儀をした。
ところが、その瞬間にそれは起きた。
き……来た!
本当に突然だった。予想だにせず、脳天を裂くような稲妻が走るのを感じた。大袈裟かもしれないが、まるで槍が降って刺さったかのような衝撃だった。
『お姉さん』『夫婦』『離婚』のキーワードから連想したのだろう。いきなり新しいアイディアが視えた。単語や文章が次々と降り注いだ。
「出口君、どうしたの? 行くわよ」
先輩は記録簿の記入を終え、その場を離れようとしていた。
「すみません先輩、ちょっと待ってください!」
僕はスマホを取り出し、頭の中にあるそれを打ち込んでいく。だけど慌てているせいか、打ちミスや誤変換が続いた。
ああ、くそっ、じれったいな!
「お姉さん、何か紙とペン、借りていいですか?」
「オッケー!」
お姉さんはふだんとは大違いの反応を見せ、おもて面の印刷ミスをしたコピー用紙を一枚と、ボールペンを持ってきてくれた。
先輩が言ったとおり、アナログの重要だ。僕は受け取った用紙を裏返し、受付の記載台で懸命にペンを走らせた。手に力が入り、殴るように書き込んだ。
【問題41】
『日本で生まれ育った一組の男女ABがいました。AとBは高校生のころに出会い、五年の交際の末にAからプロポーズ、西暦二〇一四年に結婚式を挙げ、一緒に暮らし始めました。その一年後、ABの間には子供もでき、幸せな家庭を築いていました。
しかしそのうちにすれ違いが増え、二人は離婚を決意しました。そしてABは子供の親権で争い、関係は泥沼化。言い争いが絶えなくなり当事者間では決着がつかないため、西暦二〇二〇年に地元の家庭裁判所に離婚調停の申し立てをしました。ところがそんな最悪の状況でありながら、裁判所は審議の上、なぜかその申し立てを棄却しました。なぜでしょうか?
※補足:申し立ての書類は正式な物で、記載事項もそれに則っていました。なお、AとBは生まれてからずっと現在まで日本在住で日本国籍、日本の法律のもと生活しています』
僕は全文を書き終え、最後に添削をした。いつもなら二、三ヶ所の手直しをするのだけど、この問題文だけは不思議なことに、訂正の必要がなかった。
用紙を持つ手がかすかに震えていた。
怖いとか、寒いとか、そういう震えじゃない。
会心の出来だと感じたのだ。『ついに生み出した』という、湧き上がってくる衝動を抑えるのに必死だった。
先輩に目を向けた。彼女は僕の作業が終わるまで動かず、急かすこともなく、じっと待ってくれていた。
「九先輩、勝負はあと一日残ってますけど……この一問で決着をつけることにしませんか?」
尋ねると、彼女は首をひねった。
「なぜ? 私はもちろん構わないけれど、あなたには何のメリットも無いわよ?」
僕は頷いた。
「わかってます。でも、もしこれを正解されたら……今の僕の実力では先輩には勝てないのだと、心から納得できる気がしたので」
少しの間、先輩は探るように僕を見つめた。目を逸らしてはいけない気がして、僕も見つめ返した。
「つまり、それだけ自信があるということなのね?」
「はい」
僕はふたたび、しっかりと頷いた。
どこか納得した様子で、彼女も首を縦に振った。
「なら、そうしましょう。その問題を今日中に解けば私の勝ち、解けなければあなたの勝ち。それでいいのね?」
「はい」
迷いなく答え、僕はその問題用紙を手渡した。
これが最後の大勝負だ。
「では拝見させていただくわ」
彼女はそう告げると、用紙をじっと眺め、しばらく動かなかった。僕はその沈黙に、じっと耐えた。
ふと見ると、小窓を挟んだすぐそこで、お姉さんも固唾を呑んで様子をうかがっていた。そんな食い入るように凝視していたら、先輩にバレてしまうんじゃないだろうか……とは言え、この状況だと注意もできないしな。
不安と隣り合わせの膠着状態が、そのまま数分継続した。
いきなり先輩が動き出した。
その拍子に、僕とお姉さんの背筋も、びくっと伸びた。
先輩は用紙を記載台の上に置くと、大きく両腕を上げ、ゆっくり息を吐いた。
次はその腕を下げて背後に回し、肩甲骨の辺りで合掌する。
……異様な光景だった。身体が柔らかくないとできないだろう。興味本位で僕も試してみたけれど、うまく手のひらを合わせることができなかった。
「ふう」
先輩は両手を戻すと、ふたたび台上の用紙をつまみ、綺麗に折り畳んだ。
そして折り畳んだそれを上着のポケットに入れ、涼やかに告げた。
「出口君、外へ出ましょうか」
「は、はい!」
それは期待通りの展開だった。僕は嬉しくて、高らかに返事をした。
先輩の態度を見てわかった。今度こそ、『思考のための外出』だ。すなわちこの最終問題は、まだ答えが浮かばないということだ!
「よぉし!」
すると同じタイミングで、なんとお姉さんがガッツポーズをとった。そしてすぐに、
「あ……」
自分の犯した過ちに気づいたようで、しまった、という顔をした。
これはまずいやつだ。一緒に喜んでくれるのは嬉しいけれど、そんなことをしたら、僕がお姉さんに相談したことがバレるじゃないか。
九先輩が「今のは何事だ」と言いたげな視線で、お姉さんを見ている。
さすがにまずいと思ったのだろう。彼女は慌ててどこからかスマホを取り出し、
「あ、えっと……ごめんね。地元のBリーグ速報観てたから……あははは……」
とても苦しい言い訳をして笑った。
……どう見ても嘘っぽい。
「そうですか」
ところが先輩は気にする様子もなく、すたすたと建物の外へ出た。思考に集中しているためか、どうでもよさそうな感じだった。僕はほっと胸を撫でおろした。
申し訳なさそうに両手を合わせていたお姉さんに手を振り、僕は「頑張ります」と声に出さずに言った。すると彼女も真似をして、ぱくぱくと口を動かした。
おそらく「頑張れ」と返してくれたのだろう。
僕は頷き、先輩を追って外に出た。
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