19 出ていきなさい
それから僕はまっすぐ帰宅した。
いろいろと初体験のことが重なりすぎて疲れた。ベッドでぐったりと横になり、外出することなく過ごした。
後に電話で宮本から聞いた話によると、どうやらマユリさんは、女性経験の乏しい男性を好む人だったらしい。『デグチ、ヤったの?』と尋ねる宮本に、事実を事実として伝えるのは相当苦労した。それと余談だけど、僕の分のカラオケ代は、どうやら彼女が払ってくれたらしい。けっこう裕福な家庭の子供らしく、金銭面に関してはあまり気にしないだろうという話だ。マインでお礼した方がいいかなと思ったけれど、勘違いさせるとまずいし、やめておくことにした。
というか実のところ、もうマユリさんのことはそこまで気にしていない。
それより九先輩のお父さんに助けられたことの方が、僕にとっては衝撃的だった。
「なんか、前に会った時と印象が違ったなあ……」
先輩と一緒だった日の彼とは、どことなく雰囲気が異なった。フランクというか、悪く言えば軽い感じだった。さっきの場面で言うと、マユリさんが了承さえすれば、そのままホテルへ直行してしまいそうな感じすらあった。
娘が見ている前では自重しているのだろうか。本来は、ああいう浮ついた感じの人なのかもしれない。
それにしたって、どうして彼はあそこを通りかかったのだろう?
『父はあれとは別に、繁華街の方でバーの店長もしているのよ』
先輩の言葉が鼓膜によみがえった。もしかしたらそのバーが、あの近くにあるのかもしれない。
今度、先輩に訊いてみようかな。
──と考えてしまった途端、胸が苦しくなった。
「今度って、いつだよ……?」
来週の月曜日か? ろくなクイズも作れてないし、昨日だって無断欠席したのに……どんな顔をして彼女に会うつもりだ?
『そんなくだらないことを質問するためだけにわざわざ来たの? 新しい問題も持たずに?』
想像の中の彼女が、刺すような視線を向けてそう言った。
駄目だ……やっぱり無理だ。
僕は毛布にくるまり、両手を強く握りしめた。
そもそも彼女のことを考えないために外出したはずなのに、どうしてかさらに追い込まれている自分がそこにいた。
…………。
「出口君は……何か夢を持っているかしら?」
九先輩に『どうして県外の私立を志望するのか』と質問したあの時。彼女は僕をまっすぐに見つめて尋ねた。何かを測ろうとしているような目──僕はそう感じた。
「……いえ、無いです」
そんな問いが向けられるとは思っていなかった僕は、戸惑い、まごつき、だからといってそもそも何か違う答えが見つかるわけでなく、正直に答えた。
「そう」
先輩はこれといった反応を示すことなく、ただ頷いた。あごに手を当て、言うかどうか逡巡するような素振りを見せたのちに、
「私の将来の夢は、ナゾ解きを仕事にして生きることなの」
「え……」
大真面目な顔で、凛とした態度で、そんなことを告げた。ジョークではないと感じた。
どういう意味なのだろう? ナゾ解きを仕事にする、という言葉ですぐに浮かん
だのはシャーロック・ホームズだったけど、あれはフィクションだ。それか、ミステリーハンター? でもあれはどちらかというと、タレントというか、現場リポーターというか……。
先輩は言葉足らずな傾向がある。そのくせあれこれしつこく質問されるのも嫌う傾向がある。知りたい情報の三割すら受け取れていない気がした。でも、はたしてどこまで訊いていいのか。
この人に隅から隅まで尋ねても嫌な顔をされないような関係になりたいと、僕はこの瞬間、明確に感じていた。
「先輩、それって──」
勇気を出して訊いてみよう。
予期せぬ横やりが入ったのは、そう思った矢先だった。突然こつこつとノックの音がして、すぐに第四和室のドアが開く。あまりノックの意味をなしていない。
「調べてみたんすけど、九先輩の夢を実現するのって、たぶんすげえ難しいっすよ。不可能とは言わないっすけど」
敬意があるのか怪しい敬語をまくしたてながら入ってきたのは、桂木だった。委員会の仕事が重なって、遅れたのだ。
奴は着ていたライトダウンジャケットを部屋の角に脱ぎすて、背負っていた迷彩柄のリュックをそのそばに置くと、先輩の隣にあぐらをかいた。彼女は座布団とともに、少し距離をとった。
「すみませんね、廊下に声がちょっとばかし漏れてたんで」
後で聞いたところによると、桂木は他の会員と一緒にいる時に、会話の流れで先輩の夢のことを耳にしたそうだ。だからこの時に『なんでお前が知ってるんだよ?』という疑問を抱いていたのは僕だけだったのだ。
「そう」
彼女は咎めるでなく、ただ頷いた。
「この前、先輩の夢の話聞いたんで、俺なりにちょっと調べてみたんすよね」
「何を?」
彼女の眉がぴくりと動く。
「ナゾ解きを仕事にする具体的な方法ってやつ? いくつか候補は見つけたんすけど、一番現実的なのは、アフィリエイトじゃないっすかね。いまあるナゾ解きサイトみたいな感じでやるんすよ」
アフィリエイト。あまり詳しくはないけれど、たしかブログなどを運営して広告収入を得る手法のはずだ。
「そう」
先輩は相づちを打ちながらノートPCの画面に目を向けた。
一方、僕は不安だった。何か起こりそうな気配を感じていた。でも先輩が静かに話を聞いているので、止めるべきか判断がつかなかった。
結局、それは嵐の前の静けさだった。
「でもこの方法って大して稼げないっぽいっすよね。競合も多いし、サラリーマンっつーか、サラリーウーマンしながら、ちょびちょび副業としてやる方が安全なんじゃないですかね」
「……」
先輩は何も応えない。桂木は一人で話し続ける。
「あるいは結婚して、ダンナの収入で暮らしながら、パート代わりに小遣い稼ぎのつもりでやるのが理想的かもしれないっすね。子育てもしやすいだろうし」
その時の光景は鮮烈な記憶として僕の網膜に焼きついており、あと十年は忘れなることができないだろう。座卓の上にあった九先輩の手が、桂木の頬を横から殴った。鈍い音がした。
「出ていきなさい」
握りこぶしをさすりながら、先輩が冷静な表情を崩さずに告げた。桂木は頬に手を当て、呆気に取られた顔で彼女と、次に僕を見た。『殴られるほどのことを言ったか?』と言いたげな目で。
腹立たしい顔ではあるが、さすがに止めなければと思った。
「せ、先ぱ──」
僕は急いで腰を上げたものの、遅かった。彼女はさらに逆側から桂木の頬を叩いた。今度は平手。そしてすぐ両手で彼の胸ぐらを掴み、強引に立たせた。
「ここは私の創った同好会なのよ。私が不愉快に感じる相手には居てほしくないから、早く出ていきなさい」
彼女はふたたび告げた。声を張り上げたわけではないが、すさまじい迫力で圧倒された。僕はその場で固まり、気づけば心の中で『桂木自業自得説』を唱えはじめていた。
「な、何なんすかマジで。真面目に調べて報告しただけじゃないっすか。理解できないんすけど!」
桂木は首を横に振りながら、さすがに恐怖の色を浮かべた。
「当然ね。あなたは理解しようとすらしていないもの」
先輩は桂木のダウンジャケットとリュックを拾い上げ、彼の胸に押しつけた。そしてそのまま畳の端から押し出した。
「私の前から消えなさい。同好会にも今後参加しないでちょうだい」
「そんな……」
彼は愕然とドアの前に立っていたが何も言えず、背中を小さく丸めて部屋を出た。
僕は固まったまま、その様子を眺めていた。正直なところ、僕も先輩がそこまで怒った理由が明確にはわかっていなかったが、怖くて質問できていない。今その理由を考えても、推測の域は出ない。
桂木はこうして同好会を去った。
「あなたもよ、出口君」
すると先輩がいきなりこちらを向き、僕を睨みつけた。
「え?」
驚愕した、という一言では足りないくらい、僕は面食らった。
「やっぱり、あなたには私と勝負する資格なんて無かったのよ。その程度の人間には、ここに居てほしくないわ」
「い、いやいやいや、そんな!」
わけがわからなくて、僕は過去に類を見ないほど狼狽した。おそらく桂木のそれより見苦しいくらいだったろう。
先輩が座卓を踏み越え、腰に手を当てた姿勢で目の前に立った。僕は首を横に振りつつ、座ったまま後ずさりした。けれど身体がうまく動かず、すぐに仰向けで倒れた。
「私、変わった人にしか興味ないのよ。だからあなたもさっさと消えてちょうだい」
「うっ!」
そう言って彼女は片足を上げ、僕の腹部を思いきり踏みつけた。
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