18 名乗ったら、良いことある?
カラオケボックスを出てから十分くらい歩いただろうか。暖房とアルコールで火照っていた身体が冷えてきた。
「寒いね、デグチくん」
「うん」
繁華街に入った。コンビニに大型のゲームセンター、雑貨屋、レストラン、ラーメ
ン屋、喫茶店……いろいろな建物が軒をつらねている。時間はまだ午後の三時前なので、居酒屋やキャバクラ、バーなどの店舗はシャッターが閉まっており、看板の明かりもない。
「じゃあ寒いし、早く入ろー」
マユリさんが僕の手を引っ張る。
入るってどこに? そう思って顔を上げる。
「え……っと?」
すぐそばに、僕の身長よりも高いコンクリートの塀がそびえている。その塀と塀の中間に、いかにも『入口です』と言わんばかりのアーチがあった。アーチの向こうには、妙に角ばった、スタイリッシュな外観の建物が。色合いは鉛のような光沢のあるグレー。その一階のほとんどは駐車場となっており、一台一台の正面に灰色のカーテンが降りている。
建物の上部には白いネオン看板が取り付けてあった。特殊な字体なので正確な読み方はわからないが、『HOTEL』と書いているのだけはわかった。
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
僕が足を止めて拒むと、マユリさんは僕の口真似をしながら連れ込もうとする。
まさかの展開だった。こういう経験はないし、正直なところ心の準備ができてない。僕は一瞬で『無理』と判断した。
「マユリさんさ、手伝ってほしいことがあるって言ってたよね? 僕そのために来たんだけど」
「だから手伝ってほしいの。わかるでしょ? 一人じゃできないもん。わたし最近、彼氏と別れてつまんなくって」
「ならもっと適任がいるから。いま呼ぶよ。宮本とか、山下とか」
桂木の名前は出さないでおく。
「えー、やだー。デグチくんがいいんだもん」
「えー、なんでー?」
なるべく穏便に済ませたいけれど、どうしていいかわからず、僕も相手の喋り方の真似をしてみたりする。
効果なし。
「だってデグチくん可愛いんだもん。欲しい! 我が家に一人!」
「あいにく一人しかいないので。量産化を待って欲しいです」
どうしてかはわからないけれど、とにかく気に入られたらしい。終わりの見えない押し問答をこんな場所で続けたくはないのだけど、マユリさんは僕を放さない。無理やり抵抗しようとしたら、逆に後ろからぎゅっと抱き締められた。
温かい。香水の匂い。
「わたしこう見えて、中学まで柔道家だったんだよー。寝技得意だし、身体柔らかくて股割りもできるんだよー」
どうりで力が強いと思ったよ。握力もかなりだ。
「ねえ、一回だけでもいいじゃん。わたしのこと嫌い? 生理的に無理?」
「そういうわけじゃないけど……」
「だったらいいじゃん。さっき言ってたよね? 彼女いないって。こんな経験、めったにできないんだから、マユリ姉さんに任せなよー」
魔の手があやしく僕の身体をまさぐり始める。くすぐったくて、ぞくぞくする。
「いや、彼女いないとは言ったけどさ」
「もう、寒いよう。とりあえず中に入って、それから話して決めよ?」
やばいなと思った。根負けしそうな予感がした。
実際のところ、それもありかもしれない……徐々にそういう思いが芽生えてきた。
無理して苦しい思いをして、届きそうにない高嶺の花を追い続けるよりも、僕みたいな奴でも好みだと言ってくれる人がそこにいるのなら、それに応えてあげた方が幸せなのかもしれないなあ……。
そんなふうに、心が揺れ動きかけた時だった。
「確かに、めったにこんな現場は見られないね。AVの世界かと思ったよ」
そばで男性の声が聞こえた。
「だ、誰?」
「名乗ったら、良いことある?」
瞬間、僕とマユリさんの間にもう一本の手が挿し込まれ、不思議なほど簡単に僕の拘束が解けた。突如あらわれたその男性を警戒し、マユリさんが自ら解いたのかもしれない。
男性はひょろりと背が高かった。赤いニットキャップ。薄い色のサングラスにひげ。黒いタートルネックに深緑色のコート。
「この国はさ、おおむね机上だけなら男女平等が実現しているんだよね。その結果、女性が男性に対して行為をはたらく場合でも、痴漢は成立するんだよ。まあ『漢』かどうかは別としてね」
「あはは、何言ってるんですかー? わたし痴漢なんかじゃないんですけどー」
マユリさんはあっけらかんと笑った。でも目は笑ってない。
彼は首を横に振った。
「いや、責めてるわけじゃないし、それをネタに恐喝しようっていう話でもないんだ。それより、わざわざ嫌がってる子をどうこうするんじゃなくてさ。困ってるなら、お兄さんが彼の代行をしてあげようかっていう提案をしたくてね」
「キモっ」
マユリさんはそう言うと舌打ちをして、逃げるように去ってしまった。
……助かった。
「いやあ、自由な世の中になってきたなあ。ロマンがあっていいねえ」
男性は彼女を追いかけることなく、くつくつと笑っていた。
「少年、もしかしてゲイかい? 見ていてすごくうらやましいシチュエーションだったよ。おれが君だったら、百パーセントついて行ってるね」
彼は向き直り、僕に話しかけた。
「いや、そういうわけじゃ」
お礼を言うべき場面なのだろうか。そう思い、相手の顔をしっかりと見た瞬間、
「あ……」
僕は気づいてしまった。
間違いない。この人、九先輩のお父さんだ!
「ん? 君、どこかで会ったような?」
彼は首をひねった。
やばい。こんな状況が、もしも先輩に伝わったら最悪だ。
「あ、ありがとうございました! それじゃ!」
僕は彼に気づかれる前に、慌ててその場を離れた。
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