12 先輩がナゾ解き先輩になった理由
ソルティドッグモドキを飲み終えて店を出ると、先輩が声を上げた。
「これは……驚きね」
「うわっ、積もってますね」
根雪だ。二センチくらいだろうか、地面が白く覆われていた。
店の中にいたのは三十分程度。入店時は積もっていなかったので、いきなりの雪景色に衝撃を受けた。今もぽたぽたと、ぼたん雪が舞っている。
「この程度なら、まだ自転車でも滑らないかしらね」
「そうですね」
先輩はそう言って自転車のそばまで歩いたが、
「きゃっ」
途端に足を滑らせ、転びそうになった。足元にあった側溝のふたが、隠れて見えなかったらしい。金属の上は、雪が積もると非常に滑りやすくなる。
すぐ後ろにいた僕は、反射的にその身体を支えた。
間に合った。先輩は間一髪のところで、転ばずに済んだ。
「ありがとう。助かったわ」
「いえ……」
僕の方こそ、と言いたくなる。こんな風に先輩の身体に触れたのは、初めてだった。
細い。それに、なんか温かい。
「やっぱり、歩いて帰った方がいいかしらね」
「そうみたいですね」
僕たちの意見は百八十度変わった。
うっすら積もっている道を、先輩と一緒に自転車を引き、縦に並んで歩く。彼女の足跡やタイヤの細い跡が、白い歩道に残る。
「家まで送りますよ、先輩のこと」
僕は勇気を出し、提案してみた。外は暗く、しかも徒歩なので、彼女のことが心配だった。
「そう。ではお願いするわ」
断られる可能性が高いと思っていたけど、予想に反し、彼女はあっさり承諾した。その態度には、警戒や遠慮などは見られず、怒られることも、引っ叩かれることもなかった。
少しは信頼してもらえるようになってきたかと思うと嬉しいのだけど、なんだか拍子抜けだった。彼女の家はここから少し離れているらしく、どちらかと言えば公民館へ戻るような道のりだった。
歩いていると、制服の腕や肩に雪が積もってきて、僕たちは時折それを払った。
それにしても……なんか変だな。
僕はふと疑問を抱き、前をいく先輩の背を見つめた。
今日の彼女は、ストレッチをしたうえに外出もした。そしてこれから帰宅しようとしている。
それなのに、いまだにクイズの回答がない。
珍しい。というかナゾ解き勝負をスタートさせてから、初めての展開だ。
もしかして。
もしかして本当にこのまま、『無回答』ということが、あり得るのか……?
「変だったでしょう?」
「えっ」
僕が期待に胸を膨らませていると、信号待ちで横並びになった時に、彼女が口を開いた。僕はつい、びくりと反応した。
「何が、ですか?」
「さっきの店。それに、店長も」
どうやら、あの『Salty&Bulldog』の感想を訊いているようだ。
僕は素直に、思ったままを述べた。
「いや、まあ確かに外から見た時は、ちょっと驚きましたけど……そこまで変だとは思いませんでしたよ。どちらかというと、個性的な感じで、面白かったような」
「そう」
「それよりも、僕は先輩がああいうお店を知っていることの方が、驚きでしたけど。もしかして常連なんですか?」
「ええ、そうね」
「へえ」
信号が青に変わる。ほぼ白一色になっている横断歩道を渡り終えると、僕たちは再び縦列に戻った。先輩の表情が見えなくなる。
彼女はぽつりと言った。
「あの店長、私の父なのよ」
「……え?」
一瞬、思考が止まり、
「えええ!?」
僕は遅れて驚愕の声を上げた。ここ最近で一番の大声だったかもしれない。そうなってしまうほどに、衝撃的な発言だった。
「気づかなかったかしら? よく見ると、顔がちょっと似てるのよ」
「いやいやいや! 正直なところ、すごく似ていたとしても、気づかなかったと思います!」
言われてみれば、という感じがしないわけではないけれど、相手はひげづらの中年男性だし。先輩だって一言も、『お父さん』なんて呼んでないし。
それに僕が彼女の父親として想像していたのは、どこかの官公庁の上役だとか、大学教授とか、そういう職に就いているような人物だった。
「私の父が、あんな小屋であんな商売をしているとは思わなかったでしょう?」
「あ、いや、まあ……」
図星を突かれ、返答に困った。
彼女はくすくすと笑った。
「別に気にしなくていいわ。私もあの小屋を見た時は驚いたもの。でも一応、父はあれとは別にバーの店長もしているのよ。あっちは副業だそうよ」
話を聞く限りでは、そこは繁華街の中心部にあるバーらしい。
「だから一日のほとんどはどこかの店にいて、ほぼ家には帰って来ないのよ。……まあ、うちはあまり仲の良い夫婦ではないから、その方が家庭は円満みたいだけど」
「へえ」
どうやら仕事好きというか、奔放というか、そういうお父さんのようだ。
僕は先輩の家庭が垣間見えたのが嬉しかった。一歩、彼女に近づけたような気がするからだ。
同時に、我が家とは全然違うなあ……という感想も抱いた。うちの家族は妹も含めて、それなりに仲が良いような気がする。
というかよく考えてみると、先輩の言う状況は『円満』とは呼べない気がする。むしろ事実上の別居みたいだ。その口振りから皮肉のニュアンスを感じなかったので、危うくそのまま受け入れるところだった。
「先輩は……お父さんのことをどう思ってるんですか?」
先輩のことをもっと知りたい一心で尋ねた。なんとなく『円満』の原因は彼にありそうだったので、彼女がそれをどう思っているのか気になったのだ。プライベートな内容に踏み込むのは少し怖かったけれど、躊躇せずに訊くことができた。先輩の方からお父さんの話を放り込んできたという会話の流れもあったし、彼女の顔が見えないというのも手伝ってか、発したい言葉をきちんと発することができた。少しだけ自分の成長を感じた。
「……それを訊いて、どうしようというの?」
しかし彼女が疑うような声音で返し、僕ののどには緊張が走った。答え方を間違えたら機嫌を損ねてしまうだろうと直感したのだ。
「えっと、その……うちの妹は、父のことがあまり好きじゃないみたいで、避けることも多いんですけど、先輩は違うのかなあ……なんて思いまして」
慎重に、直球ではなく、変化をつけて答えた。
「ふうん、そう」
先輩は何度か頷いた。声に疑いは感じられない。むしろ興味がある時の『ふうん』のように思えた。
「私は妹さんとは逆に……母よりも、父の方が好きなのよね。だからたまにこうやって顔を出すし、買い物もするの」
妹の話が功を奏したのか、先輩は嫌がる様子を見せずに答えてくれた。今日はいける気がする。僕は勇気を出して、踏み込めるところまで踏み込もうと思った。先輩のプライベートを知ることのできる機会は、いま以上にないだろうと判断した。
「どうして、お父さんの方が好きなんですか?」
細心の注意を払いながら尋ね、彼女の声に耳を澄まし、態度に目を凝らした。どこまで踏み込んでいいのか、見極めるために。
「……出口君のご両親は、共働き?」
彼女は答えず、僕に尋ねた。
「いえ、母親が専業主婦です。僕が小学生の時に仕事を辞めたので」
「そう」
「……先輩のところは、どうなんですか?」
頭にのった雪を払いつつ、僕は質問を返した。相手が相手ならごく普通の質問かもしれないけれど、今の僕にとっては勇気のいる行為だった。目の前にいるのは好かれたい相手。憧れの先輩。この心境をたとえるなら、警戒し威嚇する捨て猫に手を伸ばすような──いや違うな、なわばりのボス猫にちょっとずつ近づこうとする若輩の猫みたいな感覚だろうか(もちろん僕が若輩だ)。いつ牙を剥かれるかわからず、びくびくしている。
幸い先輩は牙を剥くことなく、空を見上げた。自分の過去を振り返るように。
「……私のうちは、ずっと共働きなのよ。だから子供の頃は留守番をすることが多くて、すごく心細かったのを覚えているわ。家に一人でいるときは、時間の流れが遅くて、両親が帰ってくるのが待ち遠しかった」
「その気持ちは……僕も少しだけわかります」
「そう」
今度は心がすこし近づくのを感じた。僕の家でも、母が仕事を辞めるまでは、学校帰りに留守番をすることがたびたびあった。妹は保育園に預けられていたので、母が帰るまでは僕一人だった。孤独を紛らわせるためにゲームをしたり、友達を呼んで遊んだ記憶がある。
「でもそんなある日、父が一冊の本を買ってきてくれたの。私にって、渡してくれたわ」
「へえ、どんな本だったんですか?」
その光景を想像すると、微笑ましい気持ちになった。彼には『子供に優しいお父さん』という印象を受けなかったけれど、実はそういう一面もあったのか。
先輩は答えた。
「それが、子供用のなぞなぞの本だったのだけど、よく見ると、巻末の解答ページが丸ごと切り取られた状態だったのよ」
「え……どういうことですか?」
僕はその返答に、不穏なものを感じた。あまり続きを聞きたくない気持ちになる。
「その切り取ったページは、父が隠してしまったのよ。それで『お前が全部の回答と、そう考えた理由を本に書き込んだら、一緒に答え合わせをしてやるから』と言ったの。しかも『不正解は二問まで許す』という制約つきでね。そのあとは、私が全部の回答を書き終えるまで、まともに取り合ってくれなくなったわ」
事実は残酷だ。想像よりもぜんぜん微笑ましくなかった。
「そ、それって、二問まちがえたら、どうなるんですか?」
尋ねると、彼女はくすくすと笑い、首を振った。
「知らないわ。しっかり全問正解したもの」
「はあ」
さすがだ。
「私が思うに、単に父は私のことがうるさかったのでしょうね。子供の頃の私は、普段会えない父が帰ってくれば、構ってもらおうと躍起になっていたから。父はもっと静かに仕事のことを考えたり、自分のことに集中したかったのだと思うのよ。今だとわかるけれど、思考中にしょっちゅう話しかけられたら、鬱陶しくてしょうがないでしょう?」
「……そうですね」
先輩自身が嫌がる行為だ。ストレッチ中なんかに声をかけると、牙を剥かれる。
そう考えたら、今日の彼女は妙だ。話しかけるなと怒るどころか、自ら話題を提供し、お喋りしている。しかも僕を相手にプライベートなことまで明かしている。
何かあったのだろうか。こんなに話したのも初めてだし、そもそも喋ってばかりで思考に集中できているのだろうか?
「父の行動が、社会的にあまり褒められるようなものではないというのは、私にもわかるわ。けれど結果的に、私はその本の問題を解くため情熱を注いだ。自宅はもとより、学校の図書室で調べものをしたり、当時の先生たちにも質問して……そのうちいつの間にか、留守番の時間は私の人生のゴールデンタイムになったの。それ以来、時間が経つのが遅いと思うことはなくなったわ」
先輩がナゾ解きに目覚めたのは、そういう事情があったからなのか。ただの育児放棄と紙一重ではあるけれど、結果的に彼女は寂しさから解放され、今に至るわけだ。
「だから私は父のことが好きなの。きっと本人にそのつもりはなかったのでしょうけれど、おかげで私は、自分の大好きなものが見つけられたわ」
彼女はそれからというもの、次々と違う本に手を出しては自ら解答部分をお父さんに預けるようになり、そのルーティンは数年つづいたらしい。
たった一冊の本がきっかけで娘がナゾ解きフリークになるなんて、まさかお父さんも予測できなかったことだろう。
「じゃあナゾ解き同好会は、そのゴールデンタイムの延長なんですか」
僕がそう言うと、
「まあ……そういうことになるわね」
彼女は頷き、立ち止まった。なぜか自転車のスタンドも立ててハンドルから手を離し、くるりと振り返る。
「いい加減、解く問題が無くなってつまらなくなったから、同好会を作ったの。もしかしたら本やネットにない、独創的な問題を作る人が現れるかもしれないと思って」
外灯のすぐ下だった。人工の青白い明かりが雪に反射するせいか、よりいっそう彼女の顔が夜道に映えた。
「というわけで、これをあなたに送るわ」
彼女は唐突に言うと、ポケットからそれを取り出して見せた。
「えっ」
僕は驚いた。差し出されたのは、先ほど購入したヒマラヤ岩塩のバスソルトだった。
「送るって、僕にですか? でも先輩、さっきプレゼント用だって……」
「そう、プレゼントよ。あなたに」
「え……」
予想外だった。まさか相手が僕だとは。
「でも、悪いですよ。飲み物だってごちそうになったのに」
「いいのよ。もともとあの店へ行ったのも、あなたにこれを渡すためだから。断られたら逆に困るわ」
「えっと、それって──」
どういう意味ですか、と尋ねようとして、
「いいから、とにかく受け取りなさい」
僕は言葉を呑み込んだ。先輩が僕の手を取ったからだ。
「今日はこれを湯船に入れて、ゆっくり浸かりなさい。タイルを傷つけないよう、塩を巾着に入れることも忘れないようにね」
彼女はそう言って、バスソルトの袋を握らせる。
思いがけず手に触れることができて、僕の胸は途端に踊りだした。しばらく外を歩いていたので、さすがに彼女の手は少し冷たくなっていた。
「同好会を作ってみたものの……本気のナゾ解き勝負をすることになるとは、さすがに予想していなかったわ。さらさら負ける気はないけれど、私なりに自分を『越後の龍』だと思って、この決闘を楽しんでいるつもりなの」
「越後の龍?」
それって確か戦国武将の──。
誰だっけ?
「だからこれをあなたに送るわ。もっと全力で思考して、自分の限界を越えなさい。そしてせいぜい頑張って、私の貞操を脅かすくらいの難問を作ってきなさい」
自分で自分の貞操を脅かせって言う女子は、あまりいないだろうなあ。
「で、でも先輩。一つだけ、いいですか?」
僕が恐るおそる切り出すと、
「今あなたが何を言わんとしているかは、わかっているわ」
「え?」
彼女はそっと手を離し、口角を上げた。
「今日の問題のことを気にしているのでしょう?」
「う……」
僕は言葉を呑んだ。彼女に言いたかったのは、まさしくそのことだったからだ。
『今日のクイズが解けていない以上、結果的にそれこそがあなたの貞操を脅かす難問となるんじゃないですか?』
そう指摘しようと思っていたのを、見事に先読みされていた。
「残念ながら、もうその答えはわかっているのよ。だから今、ここで答え合わせをしましょうか。私の家はすぐそこだから、到着する前にね」
「え……」
僕は岩塩を手に握ったまま、呆然とした。
「この問題のかぎになるのは、警察が嘘をついているわけではないということと、B氏がどちらの方法で死に至ったのか、ということよね」
そうしている間に、先輩はスマホを取り出して問題を振り返りつつ、勝利を確信したような態度で回答を述べた。
……そういうことだったのか。
僕は歯噛みした。おそらく、苦虫を噛んだような渋い顔をしていただろう。
先輩はとうの昔に、答えを導き出していたわけだ。おそらく、公民館を出る前からだ。だから外出してもいつもと違ってお喋りだし、思考しているようなそぶりも見せなかったのだ。
やられた。そしてばかばかしくなるくらい文句なしの正解だった。
期待していた分、悔しさはいや増した。
答え合わせを終え、先輩は満足げな顔で路地に入っていった。その姿を見送ったのち、僕はうつむきながらきびすを返した。
自分の限界を越えろ、か。言うのは簡単だけど、どうやって越えろというのだろう? どうしたらひらめきが得られるのだろう? 思考して思考して、その思考した先に得られるのだろうか? だとしたら、もうそろそろいいじゃないか。こんなにクイズ作りのことを考え、こんなに先輩のことを考えてるのだから、すごいアイディアが生またっていいじゃないか。
僕はこの世界のどこかの伝承に存在するであろうアイディアの神様に愚痴をこぼし、灰紺の夜空を見上げた。ふりそそぐのは、雪ばかりだ。
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