11 先輩と変な店に行く
放課後の公民館。第四和室で僕と先輩は向き合っていた。
すでに新しく作った三つのクイズのうち二つは正解され、残すところ自信作が一問だけ。僕は祈るような気持ちで、その【問題22】を彼女のスマホに送信した。
数分の沈黙の後、先輩は問題文が表示されているスマホを座卓の上にそっと置き、ストレッチを始めた。今日は座布団を腰の下に敷いたまま、座卓に対して平行になるよう仰向けで寝転び、片膝を抱えてお腹に付けるような姿勢を取った。またまたスカートでそんなことを……。
「出口君」
彼女はその格好のまま、こちらを横目に見た。
「は、はい!」
唐突だったので、驚いて声が裏返ってしまった。まさかストレッチ姿を盗み見ていたことを、糾弾するつもりだろうか。いや、だったら最初からそんな格好をしなければいいのに……。
瞬時にいろんな言い訳が脳裏に思い浮かんだけれど、
「以前も言ったと思うのだけど、出口君が作る問題は良いわね。好きよ」
「え、は?」
予想に反し、それは賛辞だった。
「私との勝負を始めてからは、さらに良くなったわね。解答をきちんと絞られるように、前提条件から丁寧に作ってみたりして。そのせいで長文にはなりがちだけど……それはきっと、あなたの根底にあるフェアプレーの精神が、そうさせるのよ。素晴らしいことだと思うわ」
「あ……ありがとうございます」
じん、ときた。
以前も先輩は、僕を褒めてくれたことがある。実は僕が彼女に告白をした日のことなんだけど……思い出すと、今でものどを掻きむしりたくなるほど、自分が痛々しく感じる。あの時、初めて先輩に褒められた僕は有頂天になっていた。嬉しくて浮き足立つ僕。そして二人きりのデパート。勘違い。
いま思えば、先輩が県外の大学を志望していることも手伝って、僕は焦っていた。精神的に追い込まれ、状況を客観的に把握できていなかった。結果は大惨事。でも、まったく希望がないわけではない。先輩が答えられない難問さえできればいいのだ。
「ただ……良い問題ではあるけれど、私が答えられないレベルに到達するのは、ずっと先でしょうけどね」
先輩は自信に満ちた声で言った。
「今日の答えがもうわかった、ということですか?」
褒めた後で気分を下げる寸法か。僕は悔しさをこらえ、なんとか平静を保った。
「……そうね。もう少しでひらめく感じがするわ」
その自信に反して、まだ答えはわかっていないらしい。だけど解けるのは時間の問題、ということか。
「まだ正解できていない以上、何とも言えないじゃないですか。これが先輩の答えられない問題かもしれないですよ」
僕は悔しまぎれに言い返した。
「確かに可能性はゼロではないわね。限りなくそれに近いけれど」
先輩は静かに笑った。
「ところで出口君。今日のこれからの予定は?」
彼女は上体をむくりと起こして姿勢を正した。制服に付着した畳くずを軽く叩いて払う。ストレッチはもういいらしい。
「えっと、特に無いですけど……」
「これから外に出るから、よければ一緒に来なさい」
僕はその言葉に、心が高ぶるのを感じた。
「はい、行きます!」
久しぶりの外出だった。『ニコ福マート』以来じゃないだろうか。
先輩が以前話してくれた外出する理由を思い出す。彼女はすぐにひらめきが浮かばない時に、外に出て、思考の範囲を広げるのだと説明した。つまりなんだかんだと言いいながら、今回のクイズは彼女をそれなりに追い詰めているということだ。考えてみれば、ストレッチ中に先輩から話しかけてきたのだって、異例のことだ。僕からヒントを得るために探りを入れていた可能性もある。まあ仮にそうだったとしても、彼女は絶対に認めないだろうけど。
もしかしたら、今日こそ……。
僕はかすかな期待を胸に抱きつつ、先輩と共に公民館を出た。
それから十五分ほどかけて到着したのは、繁華街のはずれだった。長年ほそぼそとやってます、という感じの古びたラーメン屋や居酒屋、床屋なんかが、同じくらい年季の入っている民家を挟みつつ、軒を連ねている。
「自転車通学もそろそろ終わりかしらね。今週中には積もりそうだし」
先輩は雪がちらつく曇り空を見上げ、自転車を停めた。そしてすぐ近くに建っている、ダークブラウン色のプレハブ小屋の横に、それを置いた。どうやらそこが自転車置き場のようなので、僕もそれに倣った。
目的地はどこなのだろう?
僕が周辺をきょろきょろ見回していると、
「何しているの、ここよ」
彼女はなんと、そのプレハブ小屋を指差した。
「は、はあ……」
大きさはワゴン車二台分あるかどうか。簡素なシングルタイプだ。サイズはなかなかだけど、物置きか、工事現場の休憩所にしか見えない。窓も付いてはいるけれど、黒いカーテンのせいで中の様子がうかがえない。ただ、かすかに明かりは漏れている。
「こ、ここは?」
恐るおそる尋ねると、彼女は平然と答えた。
「入ればわかるわ。変な店よ」
「変な店……?」
物置きではなく店舗らしい。どうしてそんな変な店に、わざわざ……?
店は車道に対して横向きに建っていた。正面に回ると、入口の引き戸より大きい手書きの看板が打ちつけられており、白いペンキで『Salty&Bulldog』と、画角いっぱいに記されていた。
先輩はためらうことなく中に入っていく。緊張しながら僕も続いた。
いらっしゃい、と声がした。木製の陳列棚を隔てた向こう側。四十代くらいの、痩躯でひげ面のおじさんが、椅子に座ってノートPCの画面を見ていた。おそらく店主なのだろう。
確かに変な店だった。
けれど、悪い意味ではない。
店内は間接照明や裸電球だけで暖色に照らされていて、別世界に入ったような不思議な雰囲気があった。なんだかちょっとファンタジーだ。真っ黒に塗られた木製の陳列棚が三方を囲んでおり、入口のすぐ横には、つくしみたいな形のほそ長い丸テーブルが、二つならんで屹立していた。椅子は無い。
「今日はストッキングだから駄目よ、あっちに行きなさい」
先輩がいきなりそんなことを口走った。どきりとして、自然と足元に視線が向く。
白いフレンチブルドッグがそこにいた。
「うわっ」
驚いた。その犬は彼女の言葉を理解しているかのように、今度は僕の足を選んでしがみついた。僕はペットを飼った経験が無いので、どう接すればよいのかがわからなかった。
「メスだから大丈夫よ」
「そうですか……?」
何が大丈夫なのか不明だれど、先輩が言うのだから、たぶん大丈夫なのだろう。
「『ピンク』一袋と、『ドッグ』を二つ」
彼女は慣れた感じで店主にそう告げた。店主は「はいよ」とこちらを向き、のっそりと立ち上がった。彼が「コユキ、バック」と言うと、犬はカウンターの裏に引っ込んだ。コユキという名前らしい。
「『ドッグ』はモドキ?」
彼が先輩に尋ねる。
「当たり前でしょう、制服だし。あと『ピンク』はプレゼント用だから、巾着をつけておいてくれるかしら?」
「はいよ、ラッピングする?」
「要らないわ」
ピンクやらモドキやら、何のことだろうと首をひねっていると、店主が僕をちらりと見た。
「もしかして彼氏?」
「違うわ。後輩なの」
彼女は至って冷静に答えた。
「ふうん」
僕は『彼氏』という言葉の響きにどきどきしつつ、「はじめまして」と会釈した。あと顔に出さないよう気をつけたけれど、先輩の態度には少しヘコんだ。
まあ、わかってたけどさ。
「どうも、後輩君」
「いいから、早く仕事をしなさい」
先輩が促すと、彼は「はいよ」と背を向け、作業をはじめた。
僕は棚に置かれている商品を眺めた。手のひらに納まるくらいの透明な袋にパッケージングされたそれらが、幅の広い器にいくつも並べてある。
店主が棚の向こう側から手を伸ばし、そのうちの一つを取り上げた。袋の中には、ピンク色のクリスタルみたいな結晶が、ころころと入っていた。これが『ピンク』か。
「……岩塩?」
「そうよ」
僕の呟きに、先輩が答えた。
「ヒマラヤ岩塩と呼ばれるものよ。綺麗でしょう?」
彼女は一袋をつまみ、目の高さに掲げた。照明の光が、透けた結晶に乱反射して、きらきらと輝く。
「そうですね。でも、どうしてこんな色になるんですか?」
僕が質問すると、
「それは、成分として含まれている鉄分によるものらしいわ。これはいわゆるピンク岩塩と呼ばれるものだけど、もっと鉄分が多いと、こっちの色のように赤っぽくなるのよ。これをレッド岩塩と呼んでいて、他にはブラック岩塩やクリスタル岩塩というものもあるのよ」
「へ、へえ……」
彼女は予想以上に詳しく説明してくれた。
「これ、よく見ると『バスソルト』って書いてますけど、お風呂に入れるやつなんですか?」
「そうよ。一応、食べることもできるわ」
そんなことを話しているうちに、店主がバーテンダーのように、銀色のシェイカーをカシャカシャと振り始めた。
呆気に取られていると、彼は大きい角氷がごろりと鎮座するグラスに、それを注いだ。
黄白色の液体が満たされていく。彼はそのグラスのふちに、くし形のカットレモンを差した。
先輩がそれをさっと手に取り、入口近くに並んでいるつくし型テーブルの上に置いた。
「あなたの分よ」
「えっと、これは?」
テーブルを挟むかたちで彼女と向かい合う。椅子が無いので、立ったままだ。
「ここでは略して『ドッグ』と呼んでいるわ。まあ、正確には
『モドキ』だけど。あ、そのふちのレモンは、絞ってからグラスの中に入れるといいわ」
「へえ」
さっき店主も言っていたけれど、モドキってどういう意味なのだろう?
「どうぞ飲んでみて。私の分はすぐに来るから」
「はい」
アドバイスのとおり果汁をグラスの中に垂らしていると、先輩がどこからか、おしぼりを持ってきてくれた。
なんだか慣れてるなあと思った。よく来る店なのだろうか。店主とも顔見知りみたいだし、常連なのかもしれない。
「なんか、まろやかな感じがするというか……」
飲んでみると、果肉入りのグレープフルーツジュースだった。けれど普通のものとは少し味わいが異なる感じがした。
先輩がその理由を明かしてくれた。
「ヒマラヤ岩塩と一緒に混ぜてあるのよ。本来ならウォッカが入るから、それはちゃんとした『ソルティドッグ』の味ではないけれどね。『モドキ』って呼んでいるのは、そういうわけなのよ」
なんだか聞き捨てならない単語が出た。
「ソルティドッグって、あのカクテルのですか?」
「そうよ。知っているの?」
「名前だけは、一応」
飲んだことはない。未成年だから当然だと言われればそれまでだけど、僕の場合は、父がたまに市販のお酒を自宅で味見させてくれることがあるので、いくらか舌に覚えがある。そこまでおいしくはない、というのが現時点での感想だ。
「一般的に知られているソルティドッグは、グラスのふちに食塩をまぶしているの。その見ためが雪のように見えることから、『スノースタイル』と呼ばれているわ。でもこの店の場合はそのスタイルを採らず、ヒマラヤ岩塩の粒と一緒にシェイクして作っているの。はじめにシェイカーで混ぜてしまうから、わざわざスノーする必要がないのね」
「は、はあ……」
なんだか専門用語が増えてきて、僕は言葉を拾い切れなかった。
先輩は、店主がソルティドッグモドキの二杯目を作っている工程を指差しながら、ソルティドッグの飲み方や、名前の由来などについても話してくれた。
正直なところ専門的すぎて、ほとんど僕の頭には入らなかった。
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