06 先輩はどうして……
公民館を出て、僕は先輩の後について自転車を走らせた。寒くて吐く息が白い。強く吹いた向かい風が、かさかさと枯れ葉を滑らせてくる。思わず身震いをした。
毎度のことながら、九先輩は目的地を告げずに出発した。なんだか覚えのある道順を辿っているなと思いながら、二件目のスーパーの前を通過した瞬間に、どこに向かっているのか予想がついてしまった。
遠目に看板が見えてくる。緑地に白文字。周りについている白色電球が、はっきりとその文字を照らしている。『ニコ福マート』の看板だ。
ああ、まさか本当にそうだとは。
僕はそれを苦々しい気持ちで見つめた。入りたくないけれど、ついてきてしまったものはしかたがない。
「そういえば、結局昨日は聞きそびれたんですけど、先輩が僕を外に連れ出すのって、どうしてなんですか?」
店に到着し、僕は先輩に改めて尋ねた。嫌な予感がしていた。彼女は白線が薄れている駐輪スペースに自転車を停め、施錠していた。
「後にしてくれるかしら。いま集中したいのよ」
だが彼女は質問には答えぬまま、きょろきょろと辺り見回しながら店内に入っていく。真剣な表情だった。
「す、すみません」
僕は謝りながらも、なかば答えを聞いたような心持ちになっていた。
彼女は店内をぐるりと見て歩いた。僕は叔父に遭わないよう注意を払った。長年の経験により、叔父がどの辺りで仕事をしている確率が高いかわかっていたので、その場所に先輩が近づいた時だけ彼女と大きく距離を取り、身を隠した。あのお喋りな叔父にいま遭遇したら、絶対に悪いことしか起きないからだ。
先輩は店内を一周した後に、色違いの少し高めなチョコを二箱買っていた。意外だった。彼女がこういう時に、何か買い物をするのは珍しい。
さいわい叔父に遭うことなく、僕たちは店を出た。
「寒いし、何か飲む? ごちそうするわ」
彼女は外の自動販売機を指差して言った。
「いいんですか?」
「ええ、いいわ」
「じゃあ、お茶で」
僕はその言葉に甘えることにした。本当はコーヒーを飲みたかったけれど、口に臭いが残ってしまうのが嫌だったので緑茶にした。
「ありがとうございます」
「構わないわ。良い問題を作ってくれたお礼よ」
先輩は自転車の横に立ち、チョコ入りの買い物袋をかごに納めると、ホットストレートティーのプルタブを引いた。ここで飲んでいくつもりらしい。
「お礼、ですか」
プシュッと軽い音が、寒空に響く。僕もそれに倣い、ボトルのふたを回した。
「……やっぱり、甘すぎね」
先輩はストレートティーの缶に視線を落としながら、眉根を寄せた。
「駄目なんですか?」
「嫌いなのよ、甘いのは。本当は無糖の紅茶が飲みたかったのだけど……」
見ると自動販売機に無糖のものはなかった。逆に、先輩が紅茶好きなのだということはわかった。
「知ってるかしら? この缶一本には、少なく見積もっても角砂糖三個分の糖質が含まれているのよ。それだけでも多い気がするけれど……それよりも茶碗一杯分の白米の方が、糖質量は多いのよ。意外なことにね」
彼女は缶の側面をじっと見つめながら言った。
「糖分の多寡って、味覚とは別ものなのね。まあ、吸収速度は飲み物の方が早いらしいけれど」
「へえ。知らなかったです」
本当にいろいろ知ってるなと感心しながら、僕はお茶に口をつけた。
「そういえば、さっきの話だけど」
「え?」
「私があなたを外に連れ出す理由、訊きたがってたでしょう?」
「あ、はい」
唐突だったので少し面食らった。店に入る前に僕がした質問を、先輩は覚えてくれていたようだ。
「私が問題を解く際に、本やネット検索に頼らない理由は、話したことがあったかしら?」
彼女はそう切り出した。僕は首を横に振った。
「えっと……ないです」
「私は自分の脳内で起こるひらめき──AHA《アハ》体験を伴ったうえで問題に正解しなければ、気が済まない性分なのよ。だから何を差しおいても、それだけは絶対に避けるの」
「その気持ちは、わかります」
僕もクイズを解く時に検索を頼ったりするのは、不正行為だと思っている。カンニングと同じで、正解できても気持ち良くはない。先輩がそれを徹底しているのは知っていたし、そうでなければナゾ解き勝負のルールも違うものになっていたと思う。
「でもすぐにひらめきが浮かばない時もあるから、そういう時に思考の範囲を広げるため、こうして外出するのよ」
彼女は明かりが漏れている『ニコ福マート』の店舗を指して言った。
「じゃあ、僕をそれに誘うのは……」
そこまで聞いたら、回答はもう予想できた。
「これが同好会活動の一環であり、かつ、あなたが出題者だからよ。私が回答や質問をしたい時に、すぐレスポンスがあったほうが嬉しいから。でも、強制はしていないでしょう? なるべくあなたの都合は聞くようにしているし、無理な時は電話での対応でもいいのだから。もちろん、極力そばには居てほしいけれど」
「はははは……」
思わず乾いた笑い声がこぼれた。
納得した。僕の勘違いはそうやって生まれたのかと。
先輩は、時折そういう発言をしてきた。『ここにあなたが居てくれてよかったわ』とか『そばに居てくれて嬉しい』なんてことを。そのたびに僕はどきどきしたけれど、その意味するところは、『すぐに出題者の反応が返ってくるから嬉しい』だったわけだ。
答え合わせ終了。
人によっては『思わせぶりな態度とってんじゃねえ』と憤慨する場面かもしれないけれど、僕はどちらかというと、ショックは一割で、尊敬が九割だった。
なぜなら、仮に僕が逆の立ち場だったら、そんなことは思っても言えないから。でも先輩は、本心から出題者がそばに居ることに感謝し、その気持ちを躊躇なく告げるのだ。ただ言葉足らずで、ちょっとナゾ解きに狂っているだけの話で……いや、そこが駄目なところといえば、そうなのだけど……そういうところも含めて、誰にでもできることではないと思う。
一方の僕は、心の中で考えていても言えないことがたくさんある。
『言わない』のではなく、『言えない』だ。
親に言いたいこと。友達に言いたいこと。先輩に言いたいこと……本当はいろいろあるのに、話したいことがあるのに、胸の途中につっかえて出てこない言葉がいくつもある。タイミングが悪いなんてごまかすこともあるけれど、要するに恐れているのだ。不用意に相手を傷つけたり、その反動で自分が傷ついたりすることを。
先輩は女子だし、平均的な男子よりも身長は低いし、格闘技の心得があるという話も聞いたことはない。それなのに、なぜ思ったことをためらわず言葉にできるのだろう? 自分の主張を堂々と貫けるのだろう? この前のデパートでの出来事のように、圧倒的な体格差のある男に対して、平気で立ち向かって行けるのは、どうしてだろう? 怖くないのだろうか?
この人みたいになるにはどうすればいいのか。彼女と一緒にいると、そう思わずにはいられない。
先輩がストレートティーを一口飲み、こう告げた。
「それじゃあ、あなたの質問にも答えたことだし、次は問題の答え合わせに移りましょうか」
「えっ?」
いきなりだったので動揺し、僕はふたを取り落としそうになった。
『ニコ福マート』を訪れたのが、今日のクイズを解くためだというのは話を聞いてわかったが、いつの間に回答が浮かんだのだろう。
「本当はここに来る前から答えを見つけていたのだけど。それがあなたの想定している解答かどうか微妙なところだったから、現地に赴いてみたの。思考するだけなら他の場所でもよかったけど、店舗の指定があったし、少し不安になったのよね」
「ど、どういうことですか?」
意味がよくわからない。僕が尋ねると、彼女はその細い人差し指と中指を、目の前に立てて見せた。
「この問題の解答は、少なくとも二つある。そういう意味よ」
「そんな、まさか」
僕は慌ててスマホを取り出し、クイズの内容を確認した。二つの答えなんて、見つけられない。でも先輩は自信ありげだった。
彼女はふたたびストレートティーを口にしてから、人差し指の第二関節から上だけを、ひょこひょこと動かしてみせた。
「一つめの答え。それは、『返品があったから』よ」
「え、返品──?」
僕はその回答と問題文を照らし合わせ、
「あ……」
ようやく自分が致命的なミスをしていることに気がついた。
「その反応からすると、やはりこちらの回答は、あなたの想定外だったみたいね。一応、解説を聞きたいかしら?」
彼女は誇らしげに目を細めた。
「……はい」
本音ではそんなもの聞きたくないけれど、原則なので従う。
「もう気づいたでしょうけれど、この問題文の中では、『返品』について、少しも触れられていないのよね」
「……」
苦々しい気持ちで、僕はボトルに口を付けた。
「木元氏は確かに、一万円を上回る買い物をしたのよ。でもその後で、すぐに何か不都合があり、返品に至った。その分の金額が、会計処理によって、売り上げから即時マイナスされたら──前日の売上げを超えることは、できなくて当たり前よね」
「そのとおり、ですね……」
「あと余談だけど。もしかしたら次郎店長が何かヘマをして、木元氏を怒らせたせいで、返品になってしまったのかもしれないわね。だから彼は辞職してしまったとも推測できる。──どう? あなたは想定していなかったかもしれないけれど、理論上は正解に成りうるでしょう?」
「はい……確かに。正解です」
悔しいけれど、僕はそう答えざるを得なかった。
完全に手落ちだった。先輩の言うとおり、僕は文中で返品のことについて少しも言及していなかった。ツケには対応していないが、返品なら『ニコ福マート』でも対応している。
ぽっかり空いた問題文の穴を、見事に突かれてしまった。この場合は同好会の原則に従い、出題者である僕の意図とは関係なく、正解として認めなければならない。
かつてそれが原因で、同好会を追放された会員がいた。彼は僕と同じように問題文の矛盾点を突かれたのに、強情にそれを正解だとは認めず、先輩を怒らせてしまったのだ。
同じ
「正解したのだから、とりあえず今回の問題については私の勝ちとして、今度はもう一つの答え合わせをしましょうか」
先輩は勝ち誇った顔で、中指も動かしてみせた。
「……どうぞ」
僕は緑茶を飲みながら、その回答を聞いた。……正解だった。そちらは僕がもともと想定していた方の解答だった。
完全にやられてしまった。次は問題文にも細心の注意を払わなければと反省しつつ、一気にボトルの中身を飲み干した。
こうして翌日も、その翌日も、僕は新しいクイズを作っては先輩に見せた。しばらく放置していた緑茶のようにどれも苦い結果となったけれど、僕はくじけず、持ち前の粘り強さで挑みつづけた。
戦況に変化が現れたのは、そんな二週間後のことだった。
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