第13話 ルネサンスから現代

 先に述べた歴史から、「黄色」はキリスト教圏で特に負のイメージが強かった。しかしルネサンスを経ると、同じように嫌われていた(のちに語る)「緑」と同様に、良いイメージが復活してくる。


 印象派ではゴッホやゴヤが、風景画ではイギリスのターナーが特に好んで黄色を使った。特に、ターナーは自称「黄色愛好家」というほどで、絵画には多様に黄色を使っており、絵の中で「光」を表現するのに使用している。


 特に1835から40年頃にターナーによって描かれた「ノラム城、日の出」、1884年「雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道」では、柔らかい黄色が光を表現していることが伺える。これは、ルネサンス時代を経て色彩科学に関する著作を出す学者が増え、当時の画家の中にはそれを読んで自分の作品に取り入れることもあったことも大きな要因だったと思われる。そしてターナーもその一人で、彼が作品の中で取り入れたのはゲーテによる色彩の見解だった。


 ゲーテは1810年に「色彩論」という本を書いている。約100年前の1704年に書かれたニュートンの「光学」に書かれていたことについて言及し、それを否定しているのが特徴的だ。それはニュートンが科学的に色を追求しているのに対し、ゲーテは哲学者であったからなのか、心理的な面からも色を追求していたせいでもある。


 ターナーはそのなかで「光にもっとも近い色は黄色であり、闇にもっとも近い色は青である」というゲーテが考えたことを元に、黄色で光を表現し、闇を青によって表現している。


 ここから、黄色という色を「光」を表現するのに使うことに抵抗がなかったことが言えるが、ターナーが描いているのは全て風景画である。


 それゆえ人が着る衣服に黄色を用いる感覚と、太陽の光として黄色を用いるのではその使用する時の感覚が違っていたのではないか、と私は思う。



【絵画】

*「ノラム城、日の出」1835~40年頃 ウィリアム・ターナー


*「雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道―」1844年 ウィリアム・ターナー


【画家】

*フィンセント・ファン・ゴッホ(1859~1891年)

 オランダ出身の後期印象派の画家。

 1853年に牧師一家の子供として生まれる。青年期は仕事も恋愛もなにもかも上手く行かない。また、娼婦と同棲したことから、弟テオ以外の家族からは信頼を失う。そのせいもあってか、ゴッホはテオを頼りに画家生活をする。

 1888年パリの生活に疲れたゴッホは、ロートレックの勧めもあって、強い太陽の光を求めて友人を誘い、南仏のアルルへ向かうこととするが、その誘いを受け入れたのはゴーギャンだけであった。

 はじめは楽しく生活していたようであるが、ゴーギャンとの関係はあっという間に悪くなり、2か月で共同生活は終わる。その後ゴッホは精神を病み、精神病院に入院する。

 1890年パリ近郊に移住するが、この年の7月27日にピストル自殺をし、37歳と言う若さでその人生に幕を閉じた。また、弟テオもその翌年に亡くなっている。


*フランシスコ・テ・ゴヤ(1746~1828年)

 スペイン出身のロマン主義の画家。

 1780年にサン・フェルナンド王立美術アカデミーへ入会が認められ、宮廷画家として王室や貴族の肖像画を描く。しかし、1790年になると耳が聞こえなくなる。また、当時のスペインはフランス軍の侵入もあり、革命や戦争などの争いが絶えない情勢であったことから、後半は黒を用いた絵が多い。

 1824年にフランスに亡命し、ボルドーで死去。享年82歳。


*ウィリアム・ターナー(1775~1851年)

 イギリス出身のロマン主義の画家。主に風景画を描く。美しい色彩の表現が特徴で、特に夕焼けが海に沈む場面が多い。後の印象派の画家に大きな影響を与えた。

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