三、暗影
一人の初老の男が椅子に座って待っていた。小走りになりながら、男に声をかければ、律儀に頭を下げる。
「すみません。ちょっと外せない用事があって。」
「いえいえ、そんなにお時間は頂戴しませんから」
座るのを促したと同時に本題に入ろうとする男に、すかさず名刺を机の上に滑らせる。
男は少し息を吐き、すみません、と名刺を差し出してきた。
「村上、羽奈さん。歴史にまつわる名前ですか…?ご両親は歴史好きか何かで?」
「ああ、珍しいですよね、その名前。両親じゃなく、祖母が付けた名前だそうです。おっしゃるとおり、祖母は歴史が好きで。」
「なるほど。お祖母さんがですか。」
などと、世間話に流せれている男は時計をチラリと見るとすぐ、またなにかを取り出し机の上へ滑らせた。
「私の名刺…ですか?」
見覚えのある名刺。端はなんとなく、焼けている。
見慣れているもので驚きはしないが、出てきたところに驚いてしまう。
「遠藤さん、これ…?」
どこで?の声が消えた。なにも驚きはしないのに、冷や汗が湧き出た。遠藤の口へ眼を移す。
「机に置いてあったんです。私の書斎の」
何故私の名刺が?あったこともない人間の机の上に?
「記憶違いでしたら申し訳ありません。何処かで、お会いしました?」
「いいえ。私は人様からもらった名刺はきちんとファイルにして保管しています。」
目の前の名刺はどうも手に力一杯握られた様子で、縦にしわくちゃになっていた。
「だとすれば、これは…?」
そして、遠藤は微笑した。
「それを聞きに伺ったのですが、やはり貴方も見覚えがありませんでしたか。」
遠藤は初めから検討をつけてここにきているらしかった。彼がゆったりと構えている様子にも納得が出来た。
「ええ。遠藤さんには心あたりが?」
「まぁ、言いにくいですが…」
遠藤の目は周りを伺った。言いにくそうに居住まいをわざとらしく変える。目も泳いでいた。
「よろしければ、場所、変えましょうか?」
「そんな、仕事中の人を…」
言ってるものの、待ってましたと言わんばかりだ。周りを窺うように、頭も自然に動き始める。
「大丈夫です。上には遅くなると伝えているので。」
「そうですか」
遠藤は張り切って、腰を浮かせた。
近くの商店街に位置する喫茶店は、昼間だからか閑散としていた。マスターも暇そうにしている。
コーヒーが運ばれてくるまで、お互い口を開かずに窓の外を見ていた。
「恥ずかしい話、ですがね?」
遠藤はコーヒーを一口啜って話を切り出した。目は先程から上がってこない。
「私の娘は度々、家出をするんです。最初のうちは、友達の家とか、学校の先輩の家とかだったんですけど」
陽の反射でわかるくらいに手汗が激しい遠藤は半ば震える手でコーヒーを啜った。落ち着きを取り戻し、また舌を動かし始めた。
「ある日、娘が警察に呼ばれて、レイプにあった、と連絡が来て。急いで行ったら、本人が暗い顔でパトカーにいて、犯人は現逮していたんですが、それが、昔の知り合いでして。酔って、襲ってしまったって言って。当然ゴムなんか付けてなくて、」
「辛いんでしたら、もう」
聞いてられないが、それを私に話されても仕方なく、半ば困ってしまう。
大丈夫ですか?と女のスタッフが気を利かせて、布巾を持ってきてくれた。
「あ、ありがとう。大丈夫だから。すみません、お店の中でこんな」
いえ、私こそすみません。ほとんど聞いてしまって。泣き声が聞こえたもんですから。大丈夫です、この時間帯はお客さんは来ませんから。
と、気を使った言葉でその場を後にした。
すみません、と仕切りに遠藤は涙を拭いていた。
私は気の効く言葉もかけられないまま、呆然としわがれて行く老人を目の前にしていた。
「その娘が帰ってこないんです」
「は?帰ってこないって」
唐突に刺さった槍は、しばらく私の口そのままにした。
帰ってこない?娘が?
「どうして?」
「それが、わからないんです。分かっていたら、こんなところにはいませんよ。」
怒りの篭った声は蒸せていく。やがて、咳き込み始めた。
「遠藤さん、落ち着いて」
流石にマスターの目が気になり出したとき、終止符と言わんばかりに遠藤は言った。
「名刺の主があんただから聞いたもの、しらばくれた態度を取りやがって。ふざけてるのか、お前。俺の娘に何した?答えろ!」
と、胸ぐらを掴まれた。見ていた二人は慌てて仲裁に入る。
「やめろ、いい歳して。」
「やめて下さい!遠藤さん」
強引に二人の間に体を入れ込む。
遠藤は抑えきれぬ猛犬をなんとか制御し、私を睨んだまま、乱れた様子店でを飛び出した。
「なっちゃん、聞く限り疑われてるね。」
「マスター、違いますよ。羽奈さんは悪くないですよ」
二人は交互に疑問や、擁護の言葉を投げかけてくる。
「でも、なんで、なっちゃんはあの人に親切なんだい?」
「なんでしょうね…なんでかな…」
自分の感情を計りかねている、
「よかったよ。人がいないときに。いたら暴力沙汰と思われて、通報されてかもね。」
「本当にごめんなさい。こんなことになるとは…」
「いいですよ。羽奈さんが悪いわけでもないのに」
いつも、七椿はこういうとき慰めてくれた。いつか、カケルの愚痴を聞いてもらってた時もこんなんだったけ。
「そういや、なんであのおっさんに胸ぐらを掴まれるくらいに恨みを買ったんだ?」
「ただでも買いませんよ。」
「そうですよ、店長。ただでさえ女性はお金がないってのに。」
協同戦線を張れば、マスターの嫌味も痛くない。
肩を潜めて、マスターは白旗をあげた。
「でも、わかんないんですよね…それが」
「心当たりは?」
「ないといえば嘘に…」
「じゃ、あるんですか?」
「そうとも言いづらいしな…」
「なんだ、釈然としないなぁ。」
マスターはおかわりのコーヒーを持ってきた。
「サービスね。この後も頑張りなよ。」
マスターはそそくさとカウンターに戻ってしまった。
「聞かなくていいんですか?」
「何を」
「その…」
「俺に言いにくいなら、なっちゃんに言っとけ。少しはスッとするだろう。」
私の心を見透かしたように、マスターは外へと出て行った。看板を裏向きにして、店を横切った。
「で、なんですか?言いにくいことって」
なかなか言い出さない私を前に、じゃ、コーヒー入れてきますので、その間に準備してて下さい。と、大ごとの報告でも聞くかのような顔で、カウンターに戻った。
「いや、そんなことじゃ…」
口とは裏腹、思いが声を堰き止めた。
大ごとだから、誰かに言いたくて、だからミチルにも相談したし、マスターも気を使ってくれて退室してくれた。
言わなきゃ、失礼な気がした。やれることなら、やったほうがいいかもしれない。
「準備、出来ましたか?」
「うん。」
カフェエプロンを取った七椿は前の椅子へと腰掛け、私の顔を凝視している。
「えっと、カケルが、行方不明に」
「ん?届けは出しましたか?」
「まだ…」
「どうして?」
「いや、その、戻ってくるかなーて」
「まぁ…羽奈さんがそう言うなら、無理にとは言いませんけど、いつぐらいからカケルさんはいなくなったんです?」
「一週間前?」
「タフですね」
「そうかな…」
「検討はついてるんですか?」
「最近喋ってなかったから、わからない…」
「時々、本当にカップルか、てなるくらい、お二人を見ているとサバサバしてるなぁ、て思っちゃいます。」
「あ、そう。ありがとう。」
「褒めてませんよ。」
七椿は合わせていた目を、左下へと持っていった。小言を呟いたが、聞き取れなかった。
「なんか、言った?」
すごい速さで黒目が動いた。
「いえいえ!なんでも、ないです。」
何か隠し事しているだとは思うが、聞くのも忍ばれた。
「そういやさ、あいつの職業なんなの?」
マスターが帰ってきた。第一声、紫煙を吐きながら尋ねる。
ロビーで受け取った名刺に目をやる。注意深く見ていなかったので、今初めて怒鳴られた相手を知ることになった。驚いた。
「警察官…だそうです」
「ふ〜ん、そりゃ逃げたくなるわ。」
上を向いて紫煙を吐いたマスターは、灰を落とした。
「マスター、灰皿は?」
怒りが募った真礼ちゃんは腰を浮かし、カウンターへ行った。
クシャクシャになった私の名刺が、床に落ちてた。胸ぐらを掴まれた際、振動で落ちたのだろうか。
拾い上げるとき、白紙の裏面に何やら、鉛筆の線が見えた。
広げてみれば、そこには見覚えのある達筆な文字が。
『この人のところにいます。心配なら、この人に聞いて』
なんですか、それ。まあやの声が深く感じる。自分は海底に沈んでいる感覚を覚える。
そうだ、あの違和感。遠藤の文字、容姿を見たとき、懐かしさを感じた。誰かはわからない、だが誰かに似ていると直感している。
まだ、覚めようとしない直感をこじ開けようとしてみるも、ずっと断り続けられる。
羽奈さーん。
七椿の可愛らしい声が、上着の下からの振動と同じくらいに鼓膜に響く。まだ、沈んではいけない。
「ん?」
「スマホ、なってますよ。これお土産です。」
前には紙箱があった。
エッグサンド。ネームペンでの丸字が堂々と真ん中を陣取っている。
感謝しつつ電話に出る。
「はい。笹咲です。」
「終わったかい?笹咲」
部長の声だった。
長身は10を、短針は3を刺しかけている。
「すみませんっ!今出ますから!」
「そんな慌てんなよ。お前の部下がどうやら、そそくさとやったらしい。お前のチームは早いな。まぁ、ひとまずお疲れさん」
早々に部長は電話を切った。
部下は可愛いが、こんな状況のとき機嫌が斜めになり私への仕打ちを計画している。早めに戻らないと後に面倒臭いことになる。
カバンを持ち上げ、店を出て行こうとしたとき、「お、ちょい待ち」とマスターが顔を上げる。
「はい、部長へ差し入れ」
複雑な思いで見つめる私は、顔の前で手を合わせる。
「お願い!マスター、もう一個作って!」
ウインクをサービスした。
蛇みたいな目から、不意に寒気に襲われたらしく、その姿勢で数秒止まったままだった。
「失礼ね!」
「お前が勝手にしたんだろ」
呆れた声は、もう既にパンを切り始めていた。
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