第19話:番狂わせの男




ざんッ、と大きな音を立て、触手が斬り払われた。


切断面から壊死が始まっていくかのように、斬られた触手はぼたぼたと地面に落ちていく。その一方で、切っ先から逃れた触手がいっせいにざわめき、外敵を排除するかのように暴威をまき散らしはじめた。


「っ、と…!」


襲いかかってくる触手を半身でかわしながら、大太刀を振るう。


「――?」


とっさにイオを庇える立ち位置についたところで、小さく眉をひそめる。

そのまま刀身を振るっていくうちに、その表情が苦虫を噛み潰したようなものになった。舌打ちを鳴らしながら大振りに刀を振るい、触手の攻撃を掻き分けるように前進していく。


無敗殺しジャイアントキリング】をもってしても完全にダメージを無効化にできないのか、羽根がかすめるたびに小さな裂傷が生まれる。抉り、削り取られていく大地や、木片へと姿を変えていく木々を見れば、裂傷で済んでいるだけでも埒外であったが。


(これは……十二番目の地獄ユダ・ゲヘナが、さらに呪詛を取り込んでいるのか?)


そんな中、幸いにも暴虐を被弾せずに済んでいるイオは、破壊の権化を前に冷や汗をかく。


百年前に見た十一番目の地獄シモン・ゲヘナは、ここまでではなかった。

集落を一つ滅ぼしたが、あくまでそれだけ。今のように大地の形を変貌させるほどの破壊はまき散らしていない。目に見えていない場所でも似たような破壊が起こっていることを考慮すると、十二番目の地獄ユダ・ゲヘナの猛威は凄まじいものだった。


(幸い、人は死んでいないようだが……)


このままでは、時間の問題だろう。

想像を超える裁きの規模に、イオは焦燥を覚える。


巫女が遣わされるのは天罰と浄化のためだが、天罰の役割を担っているのは巫女を精製するための地獄だ。羽化した巫女とて放置すれば世界を滅ぼすが、十二番目の地獄ユダ・ゲヘナは少しもたつくだけで世界を焦土に変えかねない破壊を振りまいていた。

巫女だけでここまでの災厄になるのは、想定外だった。

自死を選ぶと思っていた当代が、積極的に周囲へ破壊をばらまいているのも予想外である。


(器の急激な拡張で、理性が一気に消し飛んだのか?)


そう考察しながら、荒れ狂う触手の群れを見据える。


「――せいっ!」


一方のムラクモは、愚直に大太刀を振るい、キリエまでの道を切り拓くのに終始していた。


小さな傷はどんどん増えていく。

本来なら、無敵無敗の存在はムラクモにかすり傷一つろくに与えられないはずだ。今までの法則あたりまえにヒビを入れるような状況に、しかし彼は一歩も引かない、怯まない。


斬り払い、斬り捨て、斬り伏せ、斬りつける。

それを繰り返すうち、ようやくムラクモの目は目的のものを捉えることができた。


屋敷の残骸に囲まれて座り込んだ少女。

手のひらで顔を覆い、背から触手の形をした翼を生やす、キリエの姿を。


「――――キリエ!」


呼びかければ、声に反応するように触手の動きがいっそう猛々しくなった。

禍々しい触手がいくつも鞭のようにしなり、ムラクモを薙ぎ払わんとする。それをかわし、斬り落としながら、彼はキリエとの距離を詰めて行った。


「っ、ぐぅ」


 それを嫌がるように、触手はムラクモに攻撃を加えていく。

無敗殺しちから】によってブーストがかけられた体でも、災厄の猛攻を捌き切るのは難しい。傷はさらに増えていき、傍から見ても早期に決着をつけた方がいいのは明らかだった。


「キリエ」


それでも、ムラクモはキリエ自身に攻勢を仕掛けない。

距離を詰めながら、それを阻もうとする触手だけを切り捨てていく。


「キリエ、やめてくれ」


それは、大太刀の間合いまで近づいた時も変わらない。

漆黒の切っ先で小柄な体を斬りつけることはなく、ただ彼女に呼びかけた。



ぴたりと。

触手が、いっせいに動きを止めた。


「は……?」


その光景を見て、イオの口からは呆気にとられたような声が零れる。


「――」


そんな彼女を後目に、キリエはゆっくりと、顔から手を離した。


「……どうして、わかったんですか?」


怪訝そうに呟いたその表情。

爛々と紫紅に輝くアメジストの双眸には、確かな理性があった。


「最初の一撃と比べたら、加減されてることくらいはすぐわかるよ」


キリエの問いかけに、ムラクモは肩をすくめながら答える。


「それに、いくら俺が守ってるからって、無造作に暴れてるならイオの方に全く触手がいかないのも不自然だ。あいつに攻撃がいかないのは俺にとってもラッキーだが、さすがに俺の運だけでそこまでフォローはできたら苦労はない」

『なら、誰かがそうなるように意図した、と考える方が自然ですね』

「そういうこと。その誰かってのはまあ、キリエちゃんしかいないわな」

「……あ」


もっともな言葉に、イオの口から呆けた声が零れた。


運良く攻撃が当たらない。

幸いにも人死には出ていない。

人知が及ばないような破壊の規模につられて思わずそう考えてしまい、そこに人為的なものがあるなど思いもよらなかった。言われてしまえば、何らかの意図が働いていた方が状況としてはしっくりくる。


代わりに生まれるのは新たな疑問。

なぜ、暴れたふりをしたのか。

その答えには、イオはすぐに思い至ることができた。ムラクモもまた、キリエの意図が働いていると察した瞬間、彼女が何をしたいのか理解してしまった。

だからこそ、苦々しさを隠さずにキリエを見つめる。


「理性なく殺そうとしてくる怪物なら、俺も遠慮なく殺せるだろう、ってか?」

「…っ」

「そういう血なまぐさいのは、ちょいとご遠慮願いたいかな」


ムラクモの言葉に、キリエは唇を噛み締め、肩を震わせる。

そうして痛ましげにわなないた後、泣き出しそうな声が彼女の口から零れた。


「……だって私は、自分が生まれるために貴方を地獄に落としました。貴方を理不尽に扱う世界を許容しがたいと思った私が、貴方に一番の理不尽を強いてしまった……っ」

「……」

「だったら…っ。このじごくは、このさいやくは、ムラクモさんのために使われるべきです。貴方の成した【偉業】が、今度こそ多くの人に認められるように!」


破壊を演じて。

証人を残して。

そうして地獄キリエを殺した暁には、ムラクモ=クサナギは正しく評価されるだろう。

最弱などとは言わせない、幸運だったなどとは侮らせない。優しくて強い黒の勇者のことを万人に認めさせるために、キリエは月から呪詛を取り込み、より恐ろしい破壊の顕現たろうとした。誰が見ても災厄とわかるようにふるまい、殺されようとしたのだ。


「――」


そんな、あまりにも危うい献身を捧げられた男は小さく息をつき。


「女の子に命を張らせてまで得た名声なんざいらねえよ。かっこ悪いだろ、そんなの」


彼女の献身を、拒んだ。

ご丁寧に、交差した両腕でバツ印まで作って。


「つーかダメダメ!キリエちゃん殺して俺が英雄になるとか、そんなんまず俺が一番不幸だっつーの。女の子からもらえるもんは大体嬉しいけど、かっこ悪くなるわ不幸になるわって代物はちょっとNG。悪いけど、受け取ることはできねえよ」

「っ、だって!!」


普段と変わらない軽口で紡がれる言葉に、悲鳴のような反論が上がった。

今にも涙が溢れそうなアメジストの双眸を向けて、胸をかきむしりながら叫ぶ。


「だって私、これ以外にムラクモさんにあげられるものなんて、何も持ってない!私が貴方に差し出せるものなんて、これくらいしか……!」

「おいおい。悲しいこと言わないでくれよ」


悲痛な訴えに、しかしムラクモは努めて軽い声音を返す。


「「ムラクモさんが好きです、抱いてください」って。俺はそれが聞ければ一番嬉しいのに」

「――――ぁ」


ぼろりと。不意を突かれた眦から、大粒の涙が零れた。


そのまま、ぼろぼろと涙が頬を伝い始める。そんなキリエを見て困ったように笑いながら、ムラクモは言葉を続けた。


「思うところが何一つないかと言えば、嘘になる。だけど、君に不幸にされたとか、理不尽な目に合わされたとか。そういうことは思っちゃいねえよ」


何かが悪いと言うのなら、それはキリエをそういうものに生んだ神様に非がある。ただ生み落されただけのキリエが、その罪を背負う必要はない。


「だからさ。俺のために死ななきゃいけないとか、そういう悲しいことは言わないでくれ。俺はそんなことを聞くために、ここまで来たわけじゃないんだからさ」

「だったら、何の、ために……っ」

「そりゃあもちろん、地獄なんてご大層なもんに祀り上げられちまったせいで傷ついた、可愛い女の子を助けに来たのさ。そのついでに、世界ってやつも救ってやるつもりでな」

「でも、私が死なないと、月の呪いが」

「そんなもん、このムラクモ様がなんとかしてやるさ。それとも、俺にはそんな大それたことはできないって、また悲しくなるようなことをキリエちゃんは言っちゃうわけ?」

「…っ」


その問いかけに、キリエは首を大きく横に振った。

ほとんど反射的な反応だっただろう。それでも、こちらをおずおずと見つめてくるアメジストの目には、ムラクモ=クサナギに対する確かな信頼があった。


ムラクモには、それだけで十分だった。


「ありがとう」


短い礼を口にしながら、白い頭髪を撫でようと手を伸ばし。


「――――ムラクモッ、避けろ!!」


イオの叫び声が木霊した。

同時に、ムラクモの首筋にちりちりとした痛みが走る。その痛みに促されるように半身に構えた直後、触手の攻撃がムラクモの体をかすめた。


「え…!?」


キリエの顔が驚愕に歪む。

それが現況をまざまざと表しており、ムラクモは舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えた。


(そりゃあまあ、話し合いで解決なんかされたら困るだろうからな!)


代わりに胸中で毒づきながら、キリエの意思に反して動き始めた触手を刀身で捌く。

先ほどまでのように、どこか加減を感じられる動き方ではない。初撃と同様、ともすればそれ以の暴威を感じさせる動きで、禍々しい触手はムラクモに攻撃を叩き込む。


埒が明かない。

そう判断したムラクモは、大きく体の軸を捻った。


「女の子と話してる時にっ、割り込んでくるんじゃねえっての――!」


怒号に合わせ、体を回転させる。円を描くようにして放たれた斬撃が、さながら竜巻のように触手を薙ぎ払い、遠くへと押しのけた。

特攻は健在。斬撃を受けた触手が一気に動きを鈍らせた隙に、再びキリエに視線を向ける。


「俺はちょいとやることがある。それが終わるまでここで待っててくれるかい、キリエ」


投げかけるのは懇願のような問いかけ。

反射的に頷きかけたところで、キリエはこれだけは、とばかりに唇を動かす。


「……ムラクモさんは、私が女だから助けてくれるんですか?」

「ああ」


その問いかけに、ムラクモは迷わず頷く。

やっぱり、と予想していた答えにキリエが苦い思いを味わったところで。


「惚れた女を助けるのは、男として当然だろう?」


彼女の予想を覆す続きが、その耳に届いた。


「――――っ、ぅ」


涙で濡れた頬が、耳ごと真っ赤に色づく。

一拍遅れて、ムラクモへの返答として首を大きく縦に振る。それをしかと見届けてから、ムラクモは黒い外套をはためかせてキリエに背を向けた。


荒れ狂う触手のただなかで、少女は取り残される形となる。

しかし、そこに不安は一抹とて存在しない。

サイアが言っていたように、トレードマークを背負った後ろ姿は、キリエにこれ以上ないほどの安心を与えていたのだから。




「イオッ!」


迫りくる触手を防壁で弾く最中、ムラクモの呼び声が聞こえてきた。

振り向くと同時に、駆けてきたムラクモによって荷物のように抱きかかえられる。思わず小さな呻き声が零れたが、ムラクモはそれを無視して疾走した。


「お前、運ぶにしてももう少しやり方を」

「俺を抱えて飛べるか!?」

「……は?」


抗議を遮っての問いかけに、イオは状況も忘れて目を丸くする。


「そのために連れてきたんだから、多少無理してでも飛んでもらわないと困るけどな!」

「脈絡をよこせムラクモ、意味がわからんぞ!」

「いいから!飛べるのか、飛べないのか!」

「軟膏のおかげもあって飛べそうだがそれがなんだ!」


こちらの疑問には応じない様子に観念し、ムラクモの質問に答える。


「よし」


その返事に、小さな呟きを零す。そして、器用に片手でイオを抱え直した。

膝裏に手を回し、片腕だけで持ち上げているような不安定な体勢だ。とっさにムラクモの頭を掴んで体を支えたイオに、彼はさらに言葉を続ける。


「俺を抱えて飛んでくれ、イオ」

「何がしたいんだ、お前は……」

「決まってんだろうが」


呆れたような声音に対し、ムラクモは真正面から答えた。


「キリエと世界を救おうとしてんだよ」


やろうとしていることは、何一つ変わっていない。

そう言わんばかりの声音と眼差しを、イオにぶつけた。


「……そうか」


溜息を一つ。それが消える前に、天使イオフィエルは両翼を大きく広げた。

ひしゃげてはいるが、飛行に支障はない。二,三度羽ばたいた後、ムラクモの体をしっかりと抱きかかえながら、紫紅に染まった夜空めがけて飛翔した。


当然のように、触手はそれを追いかけてくる。

成人男性に大太刀という荷物を抱えているので、それを全てかわすことはできない。そんなイオの代わりに向かってくる触手を迎撃しながら、ムラクモは空を仰いだ。

それにつられて空を見上げながら、イオは質問を口にする。


「どこまで飛べばいいんだ?」

「できるだけ高く。ある程度の高度まで来たら、俺を上に向かってぶん投げてくれ。それが無理なら魔術使ってぶっとばすのでも構わない」

「はあ!?」


荒唐無稽な要求に、思わず素っ頓狂な声を上げる。

天使状態のイオの魔術なら、ムラクモにはほとんどダメージは入らないだろう。だが、それを差し引いても自殺行為としか言いようがなかった。何より、そうすることの意味がまったくもってわからない。


「頼む」

「……」


しかし、ムラクモの顔は真剣だった。

一分一秒も惜しいと、一方的な懇願を向けてくる。


触手がキリエの制御から離れてしまった以上、彼の焦燥はもっともだった。今は理性を保っていても、あれではいつ月に狂ってしまうかわからない。


「……望み通りに射出できるかわからんからな!」


だからイオは、その真意は問わずに応じた。

元より彼を連れて飛翔した時から、手段をムラクモに任せると決めたのだ。不可解な要求が増やされたところで、その判断を覆そうとは思わない。


それに、彼女も見てみたかった。

どんな勇者にも成し遂げられないような【偉業】――大のために切り捨てられる小をも救ってみせると言った男の、番狂わせジャイアントキリングを。


「舌を噛むなよ、ムラクモ!」


言いながら、さらに空高く飛ぶ。

途中でムラクモから手を離し、片腕だけを掴む。そのまま体を旋転させて勢いをつけた後、上空めがけてムラクモを放り投げた。


「、ッ――――!」

「《風よ!》」


推進と追い縋る触手の露払いとして、そこに魔術の風を叩き込む。激しい暴風によってさらに押し上げられ、ムラクモの体は雲よりなお高く翔んだ。


「……か、はっ」


小さな呼気が、血の飛沫とともに吐き出される。


(ちょいと、無茶しすぎたな)


油断すれば遠のきそうな意識。それを自分の精神力と、柄を握る手の甲にそっと添えられた手の感触で押し留める。姿は見えないが、相棒が自分を支えてくれているのがわかった。


小さく笑みを零す。

だがすぐに表情を引き締めると、鋭い睥睨を向けた。

地上にいた時より近くなった、紫紅の満月げんきょうめがけて。



無敗殺しジャイアントキリング】は、何の制約も代償もない祝福チート


少しの行使ならば問題ないが、対象となるものと長く対峙すればするほど内側から激しく消耗する。この事実を知っているのはムラクモとトツカ、そして【無敗殺しジャイアントキリング】を見出したオージンの三人だけだ。


ゆえにムラクモは、倒すべき相手と相対した時は速攻で勝負をつけなくてはならない。

自分にしか倒せないものがいる以上、その力を使う前に倒れることなど許されないからだ。


それでも十五年前は、時間制限があることを本能的に察しながらもギリギリまで足掻こうとした。この無法な力ならクシナダを殺さずに止められるのではないかと、彼女を助けられるのではないかと夢想し、粘り、そして諦めざるを得なかった。

あの時、クシナダを助けるだけの時間を稼ぐことができなかったばかりに。


だから、ムラクモは鍛錬を怠らない。

他の勇者には到底届かないだろうと嘲笑われても、【無敗殺しジャイアントキリング】を知る者には鍛錬に意味などないのではと怪訝に思われても、彼はひたすら己を鍛えた。

全ては、この瞬間のために。



「――――」


体が落下を開始する前に、空中で居合いのような構えをとる。

雲より高く翔んでなお、月は遥か高みにある。

漆黒の切っ先が届く道理は、ない。


(それが、どうした)


この手が握るのは、トツカノツルギ。

所有者が斬りたいと望んだものを斬る。途方もない祈りを込めて打たれたが届かず、半端に残った法則によって邪剣のレッテルを貼られた刀。

そんな祈りが込められた武器ならば。


使い手が、それに届かせてやればいいだけのこと。

(それができてこそ、番狂わせってもんだろうが――!)


最弱の身に宿るのは、無敗無敵に対する絶対的な優勢権。

曲げられない道理なぞ、まさにうってつけの相手。


「消しっ――飛べぇぇぇぇぇ!!」


十の指、すなわち両手で強く強く握りしめた大太刀を、月めがけて振るう。

斬るは神の装置に押し込められ、一人の少女を蝕んでいる呪詛そのもの――!


――――ざんッッッ!


大きく振り抜かれた刃は、届かぬはずの月を斬る。

満ちた月が内包していた紫紅色の呪詛は両断され、そのまま塵と消えた。


禍々しい月明かりは夜から消え去り、空っぽになった月は代わりに星々の明かりを吸う。青白い光は弱々しいものだったが、紫紅の月光にはない温かみがそこにはあった。


神の采配を殺すことジャイアントキリング、ここに成し遂げたり!」


ざまあみろと。

そう言わんばかりに、握りしめた拳を月に向かって突きつける。


「……あっ、や、べ」


直後、ぐらりと視界が歪んだ。


無茶を強いてきた代償が、痛みを通り越し、意識の明滅という形で訪れる。推進力を失った体が重力に引っ張られ、遥か下にある地面に向かって落下を始めた。

このまま叩きつけられれば、死は必然。

まずい、と最後の力を振り絞ってイオを呼ぼうとしたところで。


「――――ムラクモさんっ!!」


思わぬ声が聞こえたと同時に、落ち行く体を受け止められた。


霞む視界の端に映るは、紫紅色の羽根。

そこから視点をずらせば、泣き出す寸前に歪んだキリエの顔が見えた。


「……あー、可愛い天使が見える」


呼び声の代わりにそんな言葉を呟いてから、ふ、と笑みを浮かべた。


「キリエ」

「は、はいっ!」

「――今度、海、見に行こうか」

「――――っ」


かつてかわした約束を口にする。キリエは一瞬呆けた後、今度こそぐしゃぐしゃに顔を歪めて、決壊寸前だった涙腺から涙を流し始めた。

そうして、未来を捨てようとしていた少女に未来を約束した後。

温かい腕の中で、ムラクモの意識は暗転した。




夕暮れを塗り潰すように夜が訪れ、突如として現れた禍々しい触手がトゥリア付近の林を中心とした地域に災厄を振りまいた満月の夜。

紫紅の月明かりが消え去り、代わりに青白い光が夜を照らすようになった日。


人々からは、紫紅色の両翼を生やした天使を見たという証言が跡を絶たなかった。

その証言に尾ひれがつき、天使が裁きをもたらしただとか、天使が災厄を祓ってくれただとか、そんな話が語り継がれていく。飛地の教会が一切の言及をしなかったためにしばらくして話は絶えたが、歴史的な夜であったこともあって、物語としては残ることになる。


そんな中で、奇妙な証言をする者もいた。

あまりにも荒唐無稽で、言った本人も見間違いだったのではと首をひねるような話。天使の話より早くに廃れ、すぐに消えてしまった目撃談。

曰く、


――――黒衣の剣士が、月を斬ったのを見た。

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