第18話:十二番目の地獄




キリエにとって、ムラクモ=クサナギという男は大事な存在だった。


優しく声をかけてくれた人。

自分が触っても呪いにかからない唯一の人。

物だった少女を人として扱ってくれた、初めての人。


無垢な少女が特別な想いを寄せるには、十分すぎるほどだ。


キリエにとって他者とは自己より尊重するのが当然の相手で、傷がつくのを見るのはもちろんのこと、傷をつけるのも忌避に値する。しかしそれは他人ひとというものに愛情があるからではなく、自身の価値を最底辺に置く彼女にとって、他者というのはそれだけで価値がある存在だからに他ならない。

彼女が他者に寄せる危うい気遣いは、聖人的ではあったが博愛的ではなかった。


そんな中で、キリエは初めて「特別」を見出した。

だからこそ、彼を取り巻く理不尽は許容しがたかった。


最弱というレッテル。

幸運というアドバンテージ。

たったそれだけで、彼の優しさや強さに報いない者達がいる。

性別が女という以外には価値がないキリエを懸命に守ってくれる優しさも、早朝からの鍛錬を始めとする日々の積み重ねで培われている強さも。彼が他の勇者よりも弱く、彼が他者よりも運が良いというだけで、認められない。


こんな理不尽が、許されていいのだろうか。

そんな思いが日に日にキリエの中では積もっていた。

負の感情の向け方など知らなかった少女は、ムラクモという特別な存在を通すことで、間接的にそれを学習してしまったのだ。


そして、キリエは知った。知ってしまった。


――――十二番目の地獄ユダ・ゲヘナ

――――悪意を蔓延させる人々に災厄をもたらし、同時に月に蓄積された呪詛をその命をもって浄化する十二人目の巫女。それが、キリエという存在だ。


自分がどういうものなのかを。


――――十五年前、ムラクモ=クサナギの身に降り注いだ悲劇。

――――月に狂った育ての親を殺すことで終わらせた地獄が。

――――キリエが生まれるため、ムラクモを復讐者にするために起きたとすれば。


キリエが触っても、呪いに障られない唯一の人。

奇跡のようだと思っていたが、なんということはない。


ムラクモ=クサナギは、キリエに触られる前から彼女に呪われていただけで。

彼を最も理不尽な目にあわせていたのは、キリエだったというだけの話だ。


「――――、ぁ」


この日、真実を知ったキリエは学習の成果を発揮する。

今まで間接的だった、「何かを呪うこと」を直接的に行う。


その対象は、ただ一人。

大事な人を苦しめ、理不尽を強いていた元凶――すなわち、キリエ自身である。


「ああああああああああああああっっ!!」


自らを責め、呪う慟哭が天を衝く。

それに呼応するように空は紫紅に染まり。


服を突き破りながら、傷だらけの背から触手が生えた。


表皮が鋭い羽根で覆われた禍々しいそれは、有翼種が羽ばたくような動作で動く。たったそれだけ――何かの意図すらないような身動ぎ一つで周囲に破壊を撒き散らしてから、触手の動きは打って変わって緩やかなものになった。

空に向かって蠢きながら、災厄の権化は静かに待つ。

巫女の破壊いのりが、どこに向くかを。




月の許容量は日に日に限界に近づいているというのに、一向に当代の巫女が羽化する気配がない。イオがそこに異変を見出したのは、半年前のことだった。


天使がエクストラエデンに遣わされるのは、巫女による裁きと慈悲が正しく行われるかを見届けるため。よほどのことがない限り天使が直接巫女に干渉することはなく、そしてそのよほどは長い歴史の中で起きた試しもない。十一番目と十二番目を担当することになった天使イオフィエルも、まさか自分の時に何かが起きるとは夢にも思っていなかった。


同じく異変と感じた神の側近からも急き立てられ、イオは当代の所在地を調べ上げた。そして当代が奴隷の少女だと知ると、『教会』の権威を利用して調査の体を装い、当代のカウンターだと思われるムラクモ=クサナギを呼ぶための脅威として“月狂い”を配置したのだ。

巫女は近くにいる“月狂い”をより凶暴化させ、惹きつける性質がある。月に狂ったワーウルフは、瞬く間にムラクモを派遣しても不自然ではない怪物に育った。


後はワーウルフの暴走を理由に屋敷へと乗り込み、状況を整えるだけ。

機関長は何かしら不自然を感じたかもしれないが、彼はムラクモが【無敗殺しちから】を振るう機会を欲しているきらいがある。現に彼から何かしらの指摘を受けることはなかった。


そこまでは容易かった。

問題は、当代が羽化の片鱗すら見せていなかったこと。

当代のカウンターであり、出会えば本能的に巫女に悪感情を抱くはずのムラクモが、彼女を殺すどころか保護してしまったことだった。


隠密させていた幻影体を通して一部始終を見ていたイオは、頭を抱えた。

羽化を促すために直接的な脅威に晒そうとしたが、イディスが滞在までするとは思わず、失敗に終わる。そこに加えてキリエの精神性が器を拡張するに不向きと理解した時、また頭を抱えそうになった。


どうするべきか。ムラクモ達と話しながら悩んだ末にイオが思いついたのは、彼を利用することだった。




「あの精神性が博愛に帰依したものではなく無知ゆえの平等なら、一人に大事に扱われれば均衡は崩れる。一夜明けた時点でお前には随分と懐いていたように見えたからな。分はあると判断したわけだ」


ムラクモに背負われたまま、イオは小さく笑った。


「目論見通り、あれにとってお前は大事な存在になった。己そのものがムラクモという男を損なっていると理解した途端、一気に羽化するほどの悪意を自身に注ぐほどにはな」

「性格が悪い」


顔を顰めながらそう返すと、背負った体を抱え直す。

同じく背負っているトツカの体が、軟膏で塞がりかけた傷口に当たる。いたっ、と小さな声がイオの口から零れた。


「痛いんだが?」

「当ててんだよ」

『痛いと言える程度で済んだだけ感謝してほしいものですね』

「ムラクモに害を成すと判断した相手には途端に辛辣になるな、お前は……」


言葉がきつくなったトツカに呆れ顔をしつつも、それ以上の抗議は口にしない。

その程度で済んだというのは紛れもなく事実だったからだ。


移動しながら説明しろと言われ、傷口に軟膏を塗りたくられてから背負われたのがつい先ほどのこと。傷が会話に支障を及ぼしていたならまだしも、そうでないならわざわざ薬を与える必要はなかっただろう。イオがしたことを思えばなおさらだ。

それでも、ムラクモはイオに軟膏を塗った。

感謝しこそすれ、ささやかな意趣返しを責める道理はない。


「……うん。やはり私の目の付け所は間違っていなかったと確信せざるを得ないな」


その代わり、溜息混じりにそう呟く。


「お前はどんな時でも、どんな相手でも優しい。それが女とあればなおのこと」

「なんだよ、急に褒めてきて」

「だからこそ、お前を取り巻く環境は理不尽だと思わざるを得ない。私でもそうなんだから、まともに人の営みに触れてこなかったあれはなおのことそう感じただろうな」

『そこは自分も、概ね同意です。主は己の風評に無頓着すぎますから』

「……」


二人からの評に、ムラクモは複雑そうな表情を浮かべた。


最弱と幸運。

その風評が、耳あたりが良いものではないことくらいは認識していた。だからこそキリエの耳には入れないように努めたし、聞こえてしまった時は気にしなくてもいいと言い含めた。


しかし、二つのレッテルによる風評被害を彼自身は気にしたことがない。より正確に言うなら、気にならないように成熟せざるを得なかった。

祝福チートも含めて自身を過大評価していないムラクモにしてみれば、正しい評価の一つではあるのだ。人格や努力までも否定されるのは確かに納得いかないが、わかってくれる者だけが理解してくれれば構わないと彼は思っている。


ゆえにムラクモは、真剣に考えたことがなかった。

自身の置かれた状況を、他者がどう思うかを。


(くそっ)


胸中で小さく舌打ちをした後、足の動きを早めた。


「でもよ、イオ」

「なんだ」

「お前さんが言うところの優しい俺が、キリエちゃんに情を移して殺せませんってなるのは想定してなかったのか?」


そこは純粋な疑問だった。

キリエがムラクモに情を移し、それを利用して自壊させる。そんなイオの策には、ムラクモ側の感情が欠けていた。ムラクモにキリエを倒させたいなら、まずムラクモに情を抱かせないようにすべきではないだろうかと思ってしまう。

そんな問いに対し、イオはあっさりと答えた。


「心配していない。イディスもそうだが、お前も大のために小を切り捨てられる男だからな」

「――――、は」

「ここでキリエという小のために世界を切り捨てるのは、かつてクシナダ=クサナギという小を殺して世界を選んだムラクモ=クサナギの否定になる。だからお前は、どれだけ情が移っていてもあれを殺せるだろうと判断した」

「……今めちゃくちゃお前のこと殴りたい」

「構わんぞ」


ムラクモの言葉に、覚悟は決まっているとばかりに静かに返す。


「それでお前の気が済んで、十二番目の地獄ユダ・ゲヘナに引導を渡してくれるならいくらでも殴れ」

「……」


そんな返事には反応せず、ムラクモはさらに足を早めた。


ほどなくして、触手の壁によって進路が塞がれる。禍々しく蠢くそれの前で足を止めたムラクモは、背負ったイオをそっと地面に下ろした。

殴りたいと言った男の手に、優しい手つきで扱われる。

こんな時でも扱いがぶれないムラクモにいっそ感嘆しながら、イオは口を開く。


「……お前が手をくださなくても、あれは自死を選ぶだろう。カウンター以外の死因だと巫女が遣わされる間隔が短くなるが、私としてはそれでも構わん」

「……」

「お前の手で楽にしてやるのも、慈悲だと思うがね」


殴り飛ばされるのを覚悟の上で、黒い外套を羽織る背にそう語りかける。


「――」

返ってきたのは、短い沈黙。

それを経てイオの方へと振り返ったムラクモの顔には、


今までのやりとりが嘘のように、屈託がない笑みが浮かんでいた。


「……ムラクモ?」

「ああ、お前さんの言う通りだろうな」


予想外の表情に呆けるイオに対して、ムラクモは頷いてみせる。


「俺は、小のために大を切り捨てることはできない。それをやるのはクシナダに対しても、あの夜に一生分の無念を味わった俺に対しても、手酷い裏切りになる」


そう言って思い出すのは、かつての悪夢。

ムラクモが握る漆黒の大太刀に貫かれたドラゴニアンの女は、最後の理性でこう言った。


ありがとう、と。

辛い役目を背負わせてすまない、と。


殺すことでしか彼女を止められなかったムラクモを、クシナダは責めなかった。それどころか、世界のためにクシナダを切り捨てることを選んだムラクモに感謝し、謝りながら、女は灰と石になった。大事な者を自らの手で殺めるという疵を、称賛と謝罪で塞いだ。

クシナダは、最後までムラクモを守ったのだ。


だからムラクモは、あの日の選択を後悔だけはしまいと誓った。

彼女の姿を借りた無念に夢の中で責めることがあっても。あの日の疵が未だに完治していなくても。それを悔いることは、あの日の自分達に対する冒涜だったから。


それは、小のために大を切り捨てることもまた、同様だ。

小を選んでしまうことは、大のために小を切り捨てたムラクモを称えた、クサナギへの裏切りになる。己の無力さを嘆いた、昔の自分自身に対する背信行為でもある。


だからムラクモ=クサナギは、キリエを守るためにせかいを犠牲にすることはできない。

イオの言葉は、間違っていない。


「でもな、イオ」


黒い外套をはためかせながら、男は前を向いた。

まっすぐと、目の前にある脅威を――今現在、この地において最も敗け知らずで、敵なしであろう存在を見据える。

斬り伏せるべき敵にではなく、守るべき誰かに向けるような眼差しを湛えて。


「それなら、大のために切り捨てられる小も、まとめて助ければいいだけだ。そういうことをやってのけるのが、勇者ってもんなんだからよ」


「――――」


イオはただ、言葉を失った。


大も小も余さず救う。

一番の正道であり、しかしその難度の高さゆえに成しうる者がいない【偉業】。

己が正道を貫くイディス=アイギスでさえ、不可能だと断念してしまうこと。

多くの勇者が成し遂げたいと望み、けれどその困難さに諦めてきたこと。


そんなことをやってのけてみせると。そう宣言した後ろ姿を、天使は見開いた眼で見る。

彼女の眼差しを背に受けながら、番狂わせの男は鞘から漆黒の大太刀を引き抜いた。


(勝算は?)

。あとはあの子次第だ)


念話での問いかけに、即答を返す。

ならば何も問題はないとばかりに、大太刀のツクモは笑みを零した。


(ではどうか、存分にこの身をお使いください。親愛なる我が主が、十五年来の悲願を成し遂げられるよう。このトツカノツルギ、全身全霊をもってお供いたします)


そんな言葉を合図に、ムラクモは大太刀を振るった。

所有者の力量に見合った切れ味にしかならない性能。ゆえに、【無敗殺しジャイアントキリング】にとってはしつらえたように手に馴染む邪剣をもってして、邪魔な壁を容易く両断した。

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