第17話:イオフィエル
「我が名は、イオフィエル」
厳かな口調で言った後、イオは小さく肩をすくめた。
「……まあ、こんな風に厳めしく名乗ったところで、私の人格が変容するわけでもなし。いつもどおりにやらせてもらおうか」
そう言うイオは、輪と両翼さえなければ普段と変わらない。
それに毒気が抜かれるのを感じつつも、構えは解かない。態度こそ普段通りではあったが、今の彼女からは満月級と対峙した時と同じ圧を感じるからだ。
「序列戦で戦った時は、お前さんからやばそうな気配はなかったんだけどな」
「あの時は
「それじゃあ何をしにきたんだ、お前は」
「話さ。本来お前に仔細を伝えるつもりはなかったが、状況が変わったのでな」
「わかりやすい時間稼ぎに付き合うとでも?」
「私を無視しても構わんが、その時はそいつの命を保証しないぞ」
言いながら、気を失ったままのサイアを見やる。
口調そのものは、悪い冗談を言っているかのように軽い。だが、その眼差しには本気の色しか浮かんでいなかった。ムラクモがイオを無視して駆けて行けば、彼女は間違いなくサイアを殺すだろうと確信するほどには。
「てめえ…っ」
「なに、お前にとっても無駄な話じゃない。何せキリエ(あれ)に関わることだからな」
歯噛みするムラクモにそう言ってから、イオは少しだけ視線をさまよわせる。
妙な間が空いた後、改めて彼女は口を開いた。
「私は第六礼拝堂で、悪意という呪詛がこの世にあるものと仮定して話をした。他者に対する負の感情、他者が不幸であることを望む気持ちが一種の呪いとなって、幸運をはじめとする曖昧な事象に干渉する。――あれはな、仮定ではない。この地に歴然と存在する理の一つだ」
「……理?」
「悪意なる名の呪詛は実在し、影響を及ぼしているということさ。曖昧なものに限らず、それこそあらゆる事象にな。だが、知性生命体が存在する限り、この「悪意」を排除することは叶わない。ゆえに遥か昔、エデンの神はある装置を創り出した」
そこで言葉を区切り、上を仰ぐ。
つられるように視線を向ければ、色が変わりつつある空がムラクモの目に留まる。太陽の茜色に、月が放つ薄紫色が混じり合った夕焼けの色だ。じきに茜色が消え、世界には紫紅の月明かりが満ちるだろう。
その証左と言うように、完璧な丸を描いた月が空の真上で待機していた。
「それが、月だ」
エクストラエデンでは凶事の象徴とされる月を見て、イオはそう言い放つ。
「神は月という入れ物を空に浮かばせ、自らの眷属を除いた知性生命体を月の下――エクストラエデンに住まわせた。月の下に住む限り、悪意の呪詛は月が吸うという仕組みだ」
「……」
「もっとも、呪詛による影響をゼロにはできないし、凝縮された呪詛が月光を通して生命体を狂わせてしまうのは神の想定外だったがな。とはいえ、悪意の呪詛による影響は激減した」
世界の真理をつまびらかにしながら、神の御使いはさらに続けた。
「しかし、月の許容量も無限ではない。どこかでその重みを減らさなければ、やがて月は呪詛の重さに耐えきれずに墜落するだろう。ゆえに神は裁きと慈悲を兼ね、あるものをこの地に遣わせることにした」
「……それが、キリエちゃんだって言うのか?」
ムラクモの言葉に頷いてみせてから。
「十二番目の
荒唐無稽で、だというのに大言壮語には聞こえない真実を口にした。
「信じられない、という顔だな」
「そりゃあ、いきなりそんな大それたこと言われたらな」
「無理もない」
「……」
苦笑とともに肯定を返す。
そんなイオの反応が、かえって話の真実味を補強していた。
『なぜ、キリエさんを殺すことが呪詛の浄化に繋がるんですか?』
問う言葉を見失った主に代わって、トツカが一つの疑問を口にする。
「……」
イオはまた妙な間を置いてから、その質問に答えた。
「月がメインタンクなら、巫女はそこに繋がれたサブタンクのようなもの。月と繋がった巫女には月に蓄積された呪詛が流れ込み、圧縮されていく。そうして圧縮された呪詛は、巫女の死とともに消滅する、というわけだな」
『……なるほど。空気中に漂う塵を除去するのは難しいが、集めて固形にしてしまえば消すのも容易い、といったところでしょうか』
トツカの言葉を肯定するように、イオの首が縦に振られた。
その理論は、さながらゴミ掃除。
散らばったゴミをそのまま燃やしても、うまく燃えつきはしない。だが、袋に入れて燃やしてしまえば、中身を飛び散らさずに灰にすることは容易い。
キリエという少女に与えられた役割とは、すなわちそういうもの。
呪詛というゴミを処分するための、入れ物ということになる。
「っ」
ギリッと。ムラクモの奥歯が、軋んだ音を立てた。
「到底、理解が追いつく話ではないだろうな」
怒りの形相を浮かべるムラクモを見て目を細めながら、小さく肩をすくめる。
しかし、イオの話はそこで終わらない。
「だが、ムラクモに全く関係がない話でもない。それどころか、ムラクモ=クサナギという男なくして十二番目の
「……どういうことだ?」
「裁きと慈悲の巫女はその役割上、最後には死ななければならない。そのためには当然、巫女を殺せる存在が必要となってくる。巫女に対して絶対の優位性を持つ、カウンターとしての存在がな」
「――ちょっと、待て。それは」
無性に嫌な予感がした。
イオの言葉を遮ろうと、彼女の方へと歩を進める。
だが、遅かった。
「圧倒的強者にだけ、問答無用の特攻を発揮する【
聞きたくなかった言葉を、イオは容赦なくムラクモに叩きつける。
「――――」
「信じられない、という顔だな」
言葉を失ったムラクモに、同じ言葉を口にする。
同じように反論するには、ムラクモの胸中を占める動揺は大きすぎた。苦々しい表情を浮かべる男を複雑そうに見つめながらも、言葉が止まることはない。
「……呪詛を溜めこむ巫女の器は、地獄のような悲劇で精製される。悪意をばらまいた人々への罰として、その身は人々の嘆きと痛苦によって構築されるわけだ。そしてその地獄は、カウンターとなる存在に大きな疵を残すよう発生する」
その理由は語られない。あえて言われずとも、吐き気を催すような合理性がそこにあることを、イオの言葉を聞いている者は理解してしまった。
すなわち、巫女を殺すための動力源――復讐心の精製。
「十二番目の
『――イオさん!』
それ以上言うのはやめろというトツカの声を無視して、イオは口にした。
「十五年前、ムラクモ=クサナギの身に降り注いだ悲劇。月に狂った育ての親を殺すことで終わらせた地獄が、キリエが生まれるため、ムラクモを復讐者にするために起きたとすれば、つじつまが合うというものだ」
ムラクモという男に降りかかった、理不尽を。
適当なことを言うなと、声を荒げるのは簡単なこと。しかし、飛地に遣わされた天使の言葉には、それができない不可思議な説得力があった。
「……っ」
『ムラクモ様……』
心を掻き乱されるような真実にムラクモが歯噛みをし、トツカが案じる声を紡ぐ。
「――ああ、よかった」
そんな中、奇妙な言葉がイオの口から零れた。
「これで駄目ならお手上げだった」
「……?お前、何言って」
不可解な言葉に、ムラクモが首を傾げた直後。
世界全体を揺るがすような轟音が、少し離れた場所から聞こえ。
――――空が、紫紅に彩られた夜へと転じた。
「っ、は――?」
困惑の呟きが零れる。
一拍遅れて、音が響いた方角から「それ」が猛撃してきた。
「――ッ!?」
反射的にトツカを構え、漆黒の刀身をもってして斬り捨てる。
そうしてようやく視認できたのは、禍々しい紫紅色をした触手。鋭利な羽根を全体に生やしたそれは天災の如き暴虐で周囲を薙ぎ払い、一瞬にして林を無惨な姿に変貌させた。
破壊の限りを尽くした触手は、現れた時よりは緩慢な動きで後退を始める。
ずるずると音を立てながら、音がした方へと戻っていく。触手の群れがその場からいなくなったところで、無惨なありさまがより露わになった。
無事なのは、迎撃に成功したムラクモと相棒のトツカだけ。
木々も、大地も、飛竜も、気を失っていたサイアも、そしてムラクモの前にいたイオも。ムラクモ達を除いた全ては一つの例外もなく、触手によって重傷を負わされていた。
「イオッ、サイアッ!」
「うる、さい……。死んでは、いないさ。私も、サイアも、な……っ」
声を荒げたムラクモに、途切れ途切れながらもイオが返事を返す。純白の両翼はひしゃげ、イオから出た血で一部が赤黒く染まっていた。足元に落ちているガラス片のようなものは、魔術による障壁の残骸だろう。
最高峰の守りを、一瞬で薙ぎ払った暴虐の権化。
戦慄を覚えるムラクモ達を後目に、ふは、とイオが零したのは笑い声だった。
「カウンターが、規格外なだけはある、な……。羽化したてだと、げほっ、言うのに……。この時点で、十一番目の
「……何をした、イオ」
「話さ。幻影体を使って、今の話を、あれにも同時に聞かせた」
ムラクモの問いかけにそう返しつつ、へし折れた木に寄りかかる。
「……巫女は、誰かに悪意を向けるほど器が拡がる機能を持っている」
背を預けることで落ち着いたのか、先ほどよりははっきりした声が紡がれた。
「だからこそ、巫女は他者に忌避される性質を帯びて生み出される。物心ついたころから他人からの悪意に晒されていれば、鏡のように悪意を返すのが知性生命体の性というやつだ」
だが、と。イオは溜息を零す。
「当代は特異だ。慈愛だけを餌に育った箱入り娘ならいざ知らず、あれが送ってきたのは、人としての尊厳を奪われ続けた人生のはずだ。だというのに、悪意によって自分が傷つくことには無頓着で、他者の心身ばかりを慮る精神性が培われている」
その精神性そのものは、美徳に違いない。
しかし、巫女がそれを有しているのはエデン側の者には大きな誤算だった。
「このままでは、器は拡張されない。そこで、こういう時のために神に遣わされているこのイオフィエルが一計を案じたというわけだ」
「一計って……」
「なに、至極簡単なことさ」
言いながら、触手が戻って行った方向を見る。
「他人に負の感情を抱けないなら、自身に抱いてもらえばいい。それこそ、自分を殺してやりたくなるほどのとびっきりのやつをな」
視線の先では、紫紅の触手が空に向かって禍々しく蠢いている。遠目から見たそれは、まるで巨大な有翼種が両翼を動かしているようにも見えた。
その姿はさながら、神に遣わされた異形の天使が降臨したかのようだった。
「さあ、神の裁きにして慈悲、十二番目の
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