第11話:やどかり勇者
紫紅の月明かりが、地平線から零れ出た眩い光で白み始める時刻。
すなわち早朝。そんな刻限に、ムラクモは建物の屋上に立っていた。
着流しもトレードマークの外套もなく、身に着けているのはズボンだけ。
朝日の中に曝け出された体躯はバランスよく引き締まっており、己が体を鍛え抜いた者だけが持つ一種の美を体現している。大太刀という得物を過不足なく振るうために調律されたその体は、一級の勇士と呼ぶに相応しい仕上がりだった。
「……、ふ」
抜身の大太刀を構えたまま、小さく息を吐く。
数拍、間を置いたのちに得物を横に振るう。しかしそれは直線に振り抜かれることはなく、まるで誰かに防がれる直前、その防御の隙を突くかのように変則的な軌道を描いた。
横の軌道から、振り上げるように縦へ。
鋭い風切り音が響き、それを追うように舌打ちが零れる。
「――っ、せい!」
前へと踏み込み、振り上げた刀を今度は勢いよく振り下ろす。
そこからさらに踏み込んで、切っ先を右上、円を描くように左、足元を狙うように右下、柄の向きを持ち替えて刺突。流れるように太刀筋を躍らせ、虚空に向かって斬りかかる。
ムラクモの眼前には誰もいない。
敵がいるのは、彼の頭の中。
脳内にいる仮想敵の首をとろうと、真摯な顔で刀を振るう。
傍から見れば攻勢一方。だが、ムラクモの表情に優位を示す色はない。その証左とでもいうように、数分後、彼の体が不自然に止まった。
さながら、喉元に刃を突きつけられたような静止。
それから逃れるように四肢をひくつかせるが、どうシミュレートしても回避の未来が見えない。ほどなくして、降参とばかりに肩から力を抜いた。
「……っ、くはー!」
悔しそうな声とともに、その場に座り込む。
「やっぱ強いな、イディスは。まだまだ引き分けもとれねえわ」
今朝の対戦相手に選んだ友に賛辞を贈りつつ、そのまま屋上の床に寝転がる。
鍛錬で火照った体に、冷たい床が心地よい。誘われるまま目を閉じそうになったところで、沈黙を続けていたトツカが諌める声を発した。
『風邪を引きますよ』
「へいへい」
その声に閉じかけていた瞼を開き、上体を起こす。
『お疲れ様です、主。まだ鍛錬を続けますか?』
「やめとくわ。今日やることあるし、キリエちゃんも起きるころだろ」
そう言って肩を軽く回した後、小さなかけ声とともに立ち上がった。
軽く伸びをして、実戦を終えた後のように強張っている背筋をほぐす。そうしてストレッチを終えてから、床に置いていた鞘を拾い、屋上を後にした。
ムラクモの住まいは、王都の一角にある集合住宅の一室だ。
『機関』名義ではなく機関長のオージンが個人所有しているもので、王都に滞在する時には使わせてもらっている。一時は『機関』名義や一般向けの集合住宅を借りていたのだが、前者だと隣室からの嫌がらせが、後者だと襲撃が多発したために利用を諦めざるを得なかった。
その点、エクストラエデンでもトップクラスの
とはいえ、権力の恩恵に預かれるのは限られた者だけ。この集合住宅も住民は数少なく、定住している者となるとよりその数は減る。
早朝という時間もあって、階段を下りる最中も人の気配はほとんど感じない。
汗が引いてきた肌で静寂を感じながら、ムラクモは自分が使っている部屋の前で足を止めた。中から人の気配を感じたが、無警戒に扉に手をかける。
がちゃりと。あえて音を殺さないようにノブを回した。
「……あっ。おはようございます、ムラクモさんっ、トツカさんっ」
そのまま中に入れば、一人の少女が二人を出迎えた。
ムラクモが買い与えたフェミニンな服に袖を通す少女の名は、キリエ。
彼女の後ろにはキッチンがあり、湯気を上げているフライパンが見え隠れする。すんと鼻を鳴らせば、食欲をそそる匂いが嗅覚を刺激した。
「朝ごはん、ご用意させていただきました。……えっと、その、よろしければ」
不安げな表情で声をかけてくるキリエに、ムラクモは手のひらで顔を覆う。
その様子を見てキリエの肩が縮こまりかけたところで、男の口からは感無量の声が出た。
「結婚しよう」
「……ふぇっ!?」
『馬鹿なことを言っていないで、汗臭い体を綺麗にしてください』
トツカの辛辣な声が、幸せに浸る男の妄想に水を差した。
「いやあ、本当にキリエちゃんがご飯作ってくれるなんてなあ」
嬉々とした声で言いながら、フライパンで温められたパンをちぎる。完全に固まった黄身をのせて頬張れば、質素ながら美味な味が口の中に広がった。多少ぱさつきは感じるが、それはご愛嬌といったところだろう。
「ムラクモさんがいつも作ってくださるものに比べれば、大したものじゃありませんが……」
「いいのいいの。焦がさず焼けただけでも花丸だし、何より可愛い女の子が用意してくれたってだけで高級レストラン以上の価値があるってもんさ」
むしろ、昨夜何気なく口にした「キリエちゃんに朝ごはん作ってもらいたいなあ」という願望を真面目に受け止めて、懸命に料理をしてくれただけでも満点である。相好を崩して、今度は腸詰に手を伸ばした。
キリエと出会ってから、一週間が経とうとしていた。
ネガティブな性格に反して順応性が高く、教えてやれば乾いたスポンジのようにそれを吸収し、ある程度のことはこなせるようになった。栄養不足で痩せ細り、血色が悪かった体も随分とマシになっている。それでもまだ、体のあちらこちらは折れそうなほど細かったが。
ともあれ、キリエとの生活は今のところ穏やかに過ぎていた。
しかし、平和だからといって完全に気を緩めるほど、ムラクモも能天気な男ではない。
他者からの妬み嫉みを何年も浴びているからこそ、こういう時に気を抜くのが一番危ないということを十分に心得ていた。
「キリエちゃん。ここに来た時に言ったこと、覚えてるかい?」
「あ、えっと」
不意の問いかけに、マグカップに口をつけかけていたキリエは慌てて顔を離す。
「何日か経ったら、別のおうちに移動する……でしたよね?」
「そうそう。ちゃんと覚えてて偉い偉い」
「……ぁぅ」
この一週間で完全にキリエを撫でる癖をつけたムラクモは、ここぞとばかりに彼女の頭を撫でる。あまりにも撫でられるものだから、キリエの方も恥ずかしそうに俯きこそすれ、反射的にびくつくこともなくなってしまった。
そんなキリエに満足感を覚えつつ、話の続きを口にする。
「襲撃者のことを考えると、同じとこに居続けるのも危ないしな」
「すみません……」
「キリエちゃんが謝ることじゃないさ。俺も色々あって、王都にいる時は住むところを転々としてるから。それに合わせて家もいくつか手配してるんだよ」
肩を縮こまらせるキリエを宥めるように、そんな言葉を口にする。
ムラクモ側の事情は、端的に言えば嫌がらせや襲撃対策だ。
オージンの名前が防波堤になってはいるが、その名をもってしても止まらない者は一定数いる。そういった者達への対処として、同じところに長く留まらないようにしているのだ。
「君のことがなくても、俺がやどかりになるのは変わらないってこと」
「……やどかり?」
「あ、見たことない?海に住んでて、住処の貝を転々としてる生き物なんだけど」
首を傾げたキリエに、かつて故郷の海で見た生き物を簡単に説明する。
「すみません、その、海を見たことがなくて……」
「あー、王都付近に住んでたらそうなるか」
王都は四方を大地に囲まれているので、海が遠い。王都に属する市街地やその近辺の村に住んでいれば、海を見ずに一生を終えることも珍しいことではなかった。
恐縮そうにするキリエを再び撫でてから、名案を思いついたとばかり口を開いた。
「じゃあ、ごたごたにケリがついたら俺と一緒に海を見に行こうか」
「……海に?」
「ああ。トツカは潮風で体が錆びそうになるって文句言うけどよ、一生に一度は見る価値がある景色だ。キリエちゃんもきっと気に入ると思うな」
そう言って、ニカッと屈託のない笑みを浮かべる。
「――」
当たり前のように、人らしい未来を約束してくれる。
そんな男を、しばし感じ入るように見つめてから。
「……ムラクモさんに、ご迷惑がかからないなら」
俯いたまま、肯定の言葉を口にする。
少女の根底にあるは、男の言葉を無下にしまいとする思いが第一。彼の優しさに土をつけたくないと、申し訳なさを押し殺して首を縦に振る。
しかし、その中に別の感情が芽生えつつあることを、少女は確かに感じていた。
朝食の後、二人は荷物を持って集合住宅を後にした。
外はそれなりの人数が往来を行き来している。誰かと肩が触れ合いそうになるたび、体を強張らせて身をよじるキリエを庇うように歩きつつ、ムラクモの足は次の住まいを目指した。
「キリエちゃん、歩きづらかったら俺の腕掴んでもいーよ」
「えっ、その、ご迷惑ですし…っ」
「なあに、可愛い女の子にしがみつかれて喜ばない男なんていないさ」
そんな言葉を口にしつつ、キリエの肩を抱き寄せる。
そのまま外套の中へと小柄な体を隠してしまえば、ムラクモの意図を察したのか、おずおずと体を寄せてきた。それに相好を崩しながら歩調を緩めたところで。
「おっ」
視線の先に、知り合いの姿を見つけた。
相手もまたムラクモの存在に気づき、露骨に眉をひそめる。それとは対照的に笑顔を浮かべたムラクモは、空いている片手を上げて近づいた。
「よお、サイアちゃん久しぶり!いつ見ても凛々しくて美人さんだねえ」
「ムラクモ=クサナギ……」
そこにいたのは、新緑を思わせる若葉色の髪をした女性。
緑はエルフの髪の色として有名で、それに違わず特徴的な尖った耳をしている。もっとも彼女は純正のエルフではなく、エルフと人の間に生まれたハーフエルフなのだが。
年若いハーフエルフは、動きやすさ重視の緑青のドレスに白銀の甲冑を合わせた、『王室』に仕える女騎士によく見られる恰好をしている。ムラクモの言うとおり、顔つきは凛々しい。佇まいもあいまって、物語で語られるような女騎士そのものでる。腰から下げている刀身の長い聖剣がまた、その雰囲気をより強めていた。
彼女の名は、サイア=アダマス。
『王室』派の騎士にして、緑の勇者と呼ばれている勇士の一人である。
「貴方、またふらふらと女遊びですか」
その口から出たのは丁寧な言葉遣いだったが、声音は冷えたものだ。自分より上背があるムラクモを前にしても怯むことなく、軽蔑するような声をぶつける。
「ただでさえ、六勇者の末席を分不相応な立場で汚しているというのに……」
「あっはっはっ。今日も手厳しいねえ、サイアちゃん」
そんなサイアの態度を気にする様子もなく、気さくな言葉で対応する。
それが気に入らないとばかりに、サイアの眉間にシワが寄る。不機嫌を隠しもしない様子に小さく肩をすくめてから、困ったように頬を掻いた。
「俺はサイアちゃんと仲良くしたいんだけどなー」
「あいにくと、私はそうは思いませんので」
「そんなこと言わずにさ。今度デートしようぜ、デート」
「結構です」
ムラクモのナンパな言葉に、拒絶の言葉を返し続ける。
キリエだけがおろおろした様子でやりとりを見ていたが、トツカにはまた始まったとばかりに溜息をつき、静観の構えをとっていた。
「眉間にシワばっか寄せてたら、せっかくの美人さんが台無しだぞ」
「誰のせいで……っ」
忌々しそうに零しかけた後、ふと我に返ったように短く咳払いをする。
そしてムラクモの顔を鋭く睨みつけてから、同じ眼光のままキリエに顔を向けた。突然の睥睨に肩を震わせるキリエに構わず、威圧するように口を開く。
「貴方も、こんな軽薄な男といたら品性を疑われますよ」
「こらこらサイアちゃん。俺が気に入らないのは構わないけど、俺と一緒にいる子まで威嚇するのは感心しないな」
「威嚇ではありません。忠告です」
「顔が怖いんだって。あ、ひょっとして実はやきもち?」
からかうような言葉に、サイアの眼光がいっそう鋭さを帯びる。視線だけで人が殺せるなら射殺せてしまいそうなそれに晒され、思わずキリエはムラクモにしがみついた。
それを見て、サイアの険がより深くなる。
しかし、次の瞬間にはただの不機嫌そうな表情へと戻った。
「小手先の鍛錬では、他の勇者の方々に追いつこうなど夢のまた夢。女遊びを断ち、武器をそんな邪剣ではなくまっとうなものにしてはいかがですか」
「だーかーら。俺が気に入らないのはいいから、トツカは邪険にしないでくれ。邪剣だけに」
「……呆れて物も言えません」
そう言って、踵を返す。そのまま、遠巻きにやりとりを窺っていた同行者――『王室』の騎士達の方へと向かって行った。
『相変わらず懲りませんね、主は』
十分に距離が離れたところで、トツカが呆れた声を零した。
『普段は脈なしと見ればあっさり引くのに、なぜサイアさんにはしつこいんですか』
「いやあ、押せばいけると思うんだよなあれ。俺のセンサーがそう囁いてる」
『十中八九気のせいですよ。自分とも相性が悪いんですから』
そう言って、またもトツカから溜息が零れる。
邪剣トツカノツルギ。
魔剣よりなお悪辣な法則を宿す異端の武器が、大太刀のツクモ・トツカの正体だ。
装備することで所有者を強くする従来の武器と異なり、トツカノツルギは「所有者の力量に見合った切れ味にしかならない」という武器にあるまじき特性を持っている。
聖剣使いのサイアにしてみれば、悪感情を向けている男が邪道の剣を持っているなど余計に許容しがたいのだろう。折に触れてはトツカのことを言及してきた。イオ曰くの、蛇蝎の如く嫌われていると言われる所以の一つでもある。
とはいえ、彼女に好かれるためにトツカを帯刀しない選択肢はムラクモにはなかったが。
ただ、トツカにはきつく当たらないでほしいと思うばかりだ。
「ほんとサイアちゃんには邪険にされてるよな、お前」
『二度目は寒いですよ主』
「お前、場を和ませようっていう俺の気遣いをなんだと思ってるわけ?」
軽口を叩き合った後、それとなく意識をサイア達の方に向ける。
正確には聞き取れないが、何か問題が発生したことは理解できた。もっとも、六勇者の一角が市井のパトロールに駆り出されているということは、そういうことなのだろうが。
(早いとこ次の住処に行くか)
協力したいところだが、サイアはあの調子だし、何より等級Ⅵのムラクモは基本軽んじられる傾向にある。変に首を突っ込んでも統制を乱すだけだと判断し、ひとまずキリエを安全圏に置くのを優先することにした。
そうして一歩踏み出そうとしたところで、外套を引っ張られて足を止める。
原因はすぐにわかった。
「キリエちゃん?」
外套の内側にいる少女に、声をかける。
俯いたまま外套を掴んでいる姿を見て、まだサイアへの怯えが消えていないのかと考える。安心させるように手を伸ばしかけたところで、キリエが顔を上げた。
「……ムラクモさん、女の人にはいつもああなんですか?」
「へ?」
「その、可愛いとか、美人とか、デートしようとか……。女将さんや店員さんにも言ってましたし、イオさんにもこの前の帰り際に……」
消え入りそうな声で言われた言葉に、ムラクモは若干顔を引きつらせる。すぐ後ろで、自業自得だとばかりにトツカが鼻で笑うのがわかった。
(やっべー、そういや世間知らずだったんだ)
内心冷や汗をかく。
非難の眼差しもないのでつい通常運転で過ごしていたのだが、あれはムラクモの言動を許容していたのではなく、そういうものだと認識していたのだろう。人並みの生活に馴染んでいくうちに、ムラクモのナンパさが普通からずれていることを理解してしまったわけだ。
これで責められているのなら潔く開き直るし、嫉妬混じりだと明確にわかるなら甘い言葉でごまかして口説くという手もある。だが、疑問と悲哀が入り混じった問いかけは初めてで、うまく言葉が浮かばない。
加えて、さりげなく女性としてカウントされていないイディス――おそらくは彼女の性別に気づいていないのだろう――におかしさを感じてしまい、余計に思考がまとまらなかった。
「あー。えーっと、その」
しどろもどろになりつつ、思わず後ずさりをする。
「……うおっ!?」
「と、と」
そんなムラクモの背が、後ろを通り過ぎようとしていた男にぶつかった。
衝突の勢いで、男が持っていた箱が地面に落ちる。ムラクモはとっさに手を伸ばして受け止めようとしたが、運悪く変なところに手が当たり、箱を弾いてしまった。
箱は重たげな音を立てて地面にぶつかり、蓋が外れる。
中に入っていた球体が、そのまま外へと転がりでた。
「すまん。こっちの不注意で――」
口にしかけた謝罪は、不自然に止まる。
代わりに、素早くトツカを抜刀した。
「ひっ――。お、俺はこれを運ぶように言われただけで……!」
武器を抜いたムラクモを見て、後ろめたいことがあるとばかりに男は言い訳を口走る。
そんな男に鋭い眼差しを向けながら、ムラクモは声を荒げた。
「逃げろ!!」
その言葉に、男は怪訝な顔をし――
「ぎゅぁっ」
次の瞬間には、まのぬけた悲鳴とともに近くの建物に叩きつけられた。
響く轟音。近くにいたサイア達も異変に気づき、そして顔を強張らせる。
現れたのは、獅子の大きさをした蜥蜴――
魔術によるものと思われる圧縮から解放された体を振るわせながら、次の獲物を求めるように鱗で覆われた尾を揺らす。爬虫類独特の眼球は、爛々と理性なく輝いていた。
「……おいおい」
冷や汗を流しながら、大太刀を構える。
「なんで王都の街中に、“月狂い”がいるんだっつーの……!」
加えて、ムラクモの本能が告げる。
あれはお前にしか倒せないものだと。
すなわち――満月級である。
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