第8話:襲撃者
その夜。
完全な球体となった月が、天上で妖しく輝いていた。
紫紅の明かりが帳となって世界を覆い、人々はその光を恐れて家にこもる。
特別用事でもない限り、満月の夜に出歩く者はいない。普段は夜遅くまで営んでいる酒場も歓楽店も、今日ばかりは早々に店じまいをしていた。
朝を待ち望み、この日は多くの者が早く床につく。
それはムラクモ達とて例外ではなかったのだが――
「――」
ベッドが一つだけの部屋で、寝台に横たわっていたムラクモは瞼を上げた。
男女が同じ一室にいるのは不純だとして、イディスがとった方の部屋に押し込まれていた彼は、そのまま上体を起こす。そして、脇に置いている大太刀を迷わず手にとった。
「……トツカ、何人いる?」
『ヒューマンが三、エルフが一、ハーフリングが一。それに使い魔と思われる気配が複数。五人はまだ全員外にいるようです』
「オーケー」
トツカの返事に頷いてから、東国風の寝衣の上から黒い外套を羽織った。
その格好で部屋の外に出ると、キリエとイディスがいる部屋の前を目指す。
扉を小さくノックすれば、すぐに少しだけ戸が開いた。
「キリエちゃんは?」
「安心しろ。静かに眠っている」
返事を聞いてホッと息をついたムラクモに、イディスが言葉を続ける。
「
「……まさか昼間の客じゃないよな」
「む?」
「こっちの話」
怪訝そうな声を受け流してから、肩にトツカを担いだ。
『数は五、使い魔もいます』
「さすがは精霊、魂の感知はお手の物だな」
「俺は外の奴らを相手するから、お前さんは使い魔が来たら迎撃してくれ」
「意外だな」
「あん?」
今度はムラクモが怪訝な声を上げた。
扉の間から顔を出しながら、イディスは不思議そうな眼差しを向けてくる。
「キリエ殿は自分が守ると息巻くかと思ったが」
「ちゃんと守りたいからこそ、お前さんに任せるんだよ。防衛戦最強の赤の勇者様にな」
「ははは。そう言われたら、指一本触れさせるわけにはいかんな」
夜遅くということもあり、さすがに普段の大声は鳴りを潜めている。しかし、勇ましい物言いは太陽が出ている時と変わらなかった。
そんなイディスに笑みを浮かべた後、ムラクモは止めていた歩を進める。
「んじゃ、任せた」
「心得た」
武運を祈る、とはどちらも口にしなかった。
「さーて」
廊下にある窓に手をかけ、開け放つ。
身軽な動作で窓枠に飛び乗ってから、口元に好戦的な笑みを浮かべた。
「夜の運動をするならベッドの上がいいんだが、たまにはこういうのも乙なものってな」
言うや否や、窓枠を蹴って跳躍した。
夜に溶け込む外套を羽織った男は、重力に従って落下を開始する。その動きには下手に逆らわず、なるべく衝撃を殺すように地面へと着地を果たした。
驚いたのは、宿の外で襲撃の機を窺っていた者達だ。
目の前に現れた標的の姿に、フードを被った集団が色めき立つ。
「――っ!」
「こいつ、気づいて……!?」
「あいにく、最弱なんて侮られているせいで襲撃食らうのには慣れててな」
動揺する彼らを見て肩をすくめながら、鞘に入ったままの大太刀を突きつける。
一対五。数としては、圧倒的に不利。
一騎当千を誇る他の勇者ならばまだしも、最弱と呼ばれる黒の勇者なら十分に圧倒できる。少なくとも襲撃者達はそう考え、だからこそ余裕が感じられるムラクモの態度が癪に障った。
五人のうち三人が、手のひらを突き出す。直後、そこには魔力の光が灯った。
「《邪悪を貫け!》」
同じ詠唱がコーラスし、水の槍が三方からムラクモを襲う。
通常の回避は難しく、上に跳べば次弾の良い的になる。
規格外の相手から放たれたものなら手で払いのけられるだろう。しかし、そうではない普通の魔術は、魔術耐性を持たず、また魔道具持たないムラクモには迎撃ができない。
ならばどうするか。
ムラクモは足裏に力を込めると、あえて前方から飛んでくる槍めがけて駆け出した。
一見すると自殺行為。だが、三方向から攻撃が来ているから回避が難しいのだ。ならば、それを一方向からの攻撃に変えてやればいいだけのこと。
飛んでくる水の槍をギリギリまで引きつけ、紙一重のところでかわす。そして、進行方向にいた襲撃者の胴体を、大きく振るった大太刀で打ち据えた。
「ぐぁ…っ!?」
「まずは一人」
吹き飛び、地面を転がっていく姿には目もくれず、残った四人に向き直った。
一方。イディスは剣を杖のように持ち、ベッドの傍らで静かに佇んでいた。
狙いが自分達のうちどちらかだと思うなら、巻き込まない場所に移動すべきという意見もあるだろう。しかし、『王室』に仕えるイディスの考えはその逆。
こちらが巻き込みたくないと思っても、相手がそう思うとは限らない。
特にイディスの戦場では、守るべき相手が人質に利用されることは多々あった。
ゆえに彼女は護衛対象を遠ざけるのではなく、自分の傍らに置いて守ることを徹底する。戦いの余波に巻き込みかねないリスクよりも、望まぬ形で危険に晒されるリスクを回避することを優先した結果だ。
(それに、狙いはこの子かもしれないからな)
ベッドで眠る少女を一瞥しながら、そう思う。
その可能性を視野に入れたからこそ、ムラクモは彼女を自分に任せたのだろうとも。
(ならば、その期待には応えねばなるまい)
柄を握る手に力を込め、己をより奮い立たせた。
「……む」
そんな思考に割り込むように、入り口の方から物音が聞こえた。
視線をそちらに移す。ほどなくして、扉の隙間から何物かが侵入してきた。
それはさながら、人型の紙。
使い魔の一種。式神と呼ばれているそれらは、平らな体を大きくうねらせた後、空気を入れた風船のように膨らんでいく。体積を得た紙は色のない兵士を模り、武器を構えた。
その体も武器も材質は変わらないが、どちらも魔力によって補強されている。武器ならば攻撃力、体ならば防御力が特に強化されるのが式神の常だ。
しかし、立体化したのは三体のうちの二体だけ。
もう一体は平たい体のまま、空中をたゆたっている。
三体目はしばらく浮遊を続けていたが、天井付近に到達した途端、急にうねり出した。瞬く間にその姿をランスへと変じ、矛先をイディスの方に向けて飛びかかってくる。
さながら矛のように鋭く尖った先端が狙うのはイディス――ではなく、ベッドで眠ったままのキリエ。だが、紙の矛が少女の体を貫くより早く、イディスの振るった剣が容易く式神を刈り取った。
「今は本来の得物を持ち合わせてはいないが」
斬られたことでただの紙と化した式神を、念入りに両断。
はらりと床に落ちたそれを踏みつけてから、再び剣を構える。
「使い魔風情に遅れを取るほど、この赤の勇者は甘くないぞ」
普段からは想像できない静かな声が、使い魔達を威圧する。怯えるという機能を持たないはずの式神にも関わらず、まるで人間のように総身がわなないた。
だが、彼らは人とは違う。
恐怖に駆られようと関係なく、与えられた役割を果たすために攻撃を仕掛けた。
「っ、ふ――!」
一対二。加えて、守るべき者という明確なハンデ。
そんな不利要素をものともせず、本来の得物ではない剣で二方向からの攻撃を捌く。時折背後のキリエを狙われるが、四肢を巧みに使って全て迎撃した。
(狙いは、彼女か)
圧倒的な防御性能を見せつけつつ、頭は冷静に状況判断を続ける。
相手が人間ならば、イディスへの牽制として関係ない者を狙うこともあるだろう。
しかし、交戦するのは魔力で駆動する意思なき人形。そんな判断ができるほどの知性があるとは思えない。イディスに攻撃が集中しているのは、単純に邪魔だからだろう。
それでも、式神は高等な魔術だ。
知性の高低はさておき、人のように戦えるものを造るのは並大抵のことではない。
(こんなものに狙われるなど、この子の身の上は一体……)
保護した奴隷というのは聞いているが、それだけで命は狙われないだろう。心当たりがあるとすれば彼女を所有していた奴隷商だが、牢屋にいるだろう者がわざわざ刺客を差し向けるとも思えない。
別の要因があるのか。なぜ居場所がわかったのか。何が目的なのか。
防戦と思考を並行していたイディスの首筋が、不意に焦げつくような痛みを感じた。
実際に負傷したわけではない。
その感覚は、第六感による警鐘だ。
「――」
痛みに引っ張られるように、視線を背後に向ける。
視線の先には、窓枠から入り込んできている四体目の式神がいた。
「っ、はぁ!!」
気勢の声を上げながら、イディスは四肢をフルに動かした。
右足。後ろに踏み込み、ベッドとの距離を詰める。
右腕。剣を横薙ぎに振るい、四体目を切り裂く。
左足。前方から迫りくる式神の得物を高く蹴り上げる。
左腕。横たわるキリエの体を掴み、抱きかかえる。
移動、攻撃、防御、確保。
それらを一瞬のうちにこなしたイディスはしかし、無様に膝から崩れ落ちそうになった。
「――――っ!?」
キリエの体に触れた瞬間、全身を襲った強烈な倦怠感。困惑しつつも反射的に踏みとどまりかけ、勇士としての勘がそれを悪手と告げた。
戦友とも言うべき勘に従い、剣だけは取り落とさないようにしつつ、あえてその場に座り込む。直後、イディスがいた場所を紙の兵士の得物が通過した。
攻撃は頭部をかすめ、赤い髪がいくつか床に落ちる。踏みとどまっていれば、それを受けていたのは胴体だっただろう。
「ちぃ!」
久方ぶりに味わう紙一重に舌打ちをしてから、攻撃直後の硬直を利用して距離をとる。そして、高熱が出た時のような気だるさを我慢して再び剣を構えた。
「ぁ――。……えっ、え!?」
深い眠りについていたキリエもさすがに目覚め、驚いた顔をしている。
その姿はただの少女だ。意図をもって何かしているとは思えない。だというのに、彼女に触れたところから、抗力が高いイディスにも弾けない強烈な呪いを受けていた。
(禍々しさの正体は、これか)
得心しつつ、イディスはキリエに向けて笑みを浮かべた。
「おはよう、キリエ殿。すまないが取り込み中ゆえ、この体勢は不問にしてほしい」
「で、でも、
「……なるほど。貴殿は把握済みか」
そうひとりごちてから、イディスは大きく息を吸った。
ハーフオーガであるイディスは、オーガの特徴をいくつか片親から引き継いでいる。
角、頑健な体、赤や青といった肌色、巨躯。それら外見的特徴からは、頑健な体と大柄な体。そしてさらに、身体的特徴からもう一つ。
デミヒューマンの中でも屈指の怪力を誇るオーガ。
その怪力を支えている、強靭な肺活量だ。
生まれながらに硬質な筋肉で体が構成されている
ちゃきっと。柄を回し、剣の向きを変える。
尖った刃から平らな側面へ。
その理由は単純明快。衝撃を面で分散しなければ、ただの剣には耐えきれないからだ。
「宿を壊したくなかったのだが、致し方あるまい」
その呟きに、再び人造物達は本来感じないはずの恐怖に襲われる。
しかし、それを感じた時にはもう遅い。
「――――ふんっ!!」
鬼の怪力によって振るわれた剣が、式神達にまとめて叩き込まれた。
強烈な殴打は、魔力による硬度強化を容易く貫通する。全身に亀裂を生じさせながら、紙の兵士達は後ろに吹き飛ばされた。その勢いは障害物にぶつかっても落ちることなく、障害物――窓ごと外に放り出される。
夜に響かせるにははた迷惑な破壊音。
そんな背景音楽が響く中、使い魔は空中でバラバラの紙片になった。
「……は、ぁ」
それを見届けてから、イディスはキリエから離れるように片膝をついた。
「ぁ…」
イディスを案じるように伸ばされたキリエの手は、しかし触れる前に引っ込められた。
気遣いと罪悪感が入り混じった表情は、彼女の性根を表している。優しい少女を安心させてやりたくて、我慢していた脂汗を滲ませながらも笑みを浮かべた。
「キリエちゃん、イディス!」
不意に声がした。
そちらに視線を向ければ、壊れた窓から大太刀を担いだムラクモが入ってくる。黒い外套を羽織った男の姿に、強張っていたキリエの表情が和らぐのがわかった。随分と懐かれているようだと、思わず頭の片隅で微笑んでしまった。
一方のムラクモは、片膝をつくイディスを見るや否や眉間にシワを寄せた。
「お前に膝つかせるくらいやばかったのか」
「いや、奴らは関係がない。性能としては平均程度だ」
ムラクモの言葉に首を振ってから、ゆっくりと立ち上がる。
キリエと接触を続けていた時は件の倦怠感が増す一方だったが、一度離れてしまうとそれは落ち着いていく。裏を返せば原因が容易くわかってしまうということで、その仕組みをイディスは直感的に嫌なものだと思った。
だが、わかりやすいからこそ確認せねばならない。
呼吸を整えてから、騎士は目の前の男に問いかけた。
「時にムラクモ。貴殿、キリエ殿の体に触ったか?」
「は?」
「答えてくれ」
脈絡のない質問に首を傾げるが、イディスの声音は真摯そのものだった。
ゆえにムラクモも、疑問を感じながらも真面目に受け答えする。
「移動する時に抱きかかえたり頭撫でたりはしたけど、それがどうしたよ」
「何もなかったのか?」
「はあ?」
またも首を傾げる。
「なんだってお前さんまでキリエちゃんみたいなこと聞くんだよ」
「……その返事から察するに、貴殿には何も起きなかったわけか」
「?」
『失礼』
ムラクモにとっては要領の得ない呟きであったが、彼に担がれているトツカは彼女が言わんとしていることを察した。
会話に割り込むことを謝罪しながら、質問を投げかける。
『イディスさん、
「なるほど。ムラクモだけか、例外は」
「……っ」
主語も述語も欠いたそれは、イディス――そしてキリエに正しく伝わった。
「おいおい。俺にもわかるように会話してくれ」
一人理解できないムラクモが、困ったように頬を掻く。
その要求には答えず、イディスは剣を鞘に収めながらさらに問いかけた。
「ムラクモ、キリエ殿はこの後どうするつもりだった?」
「……ったく」
溜息を一つついてから、仕方ないなとばかりに質問に応じる。
「ひとまずイオに会わせに行くつもりだ。例の“月狂い”は最初『教会』が対峙した以上、あちらさんに『魔月石』を見せる必要もあるしな」
「私も同行する」
「同行するってお前、普通に仕事あるだろ」
「一日くらいはなんとでもなる」
「お前さんがそういうこと言うなんて、明日は雪でも降るのか?」
「茶化すな。なぜ言い出したかわからん貴殿でもあるまい」
その言葉に、ムラクモは眉をひそめる。
イディスの傍らを見れば、いたたまれなさそうに身を縮こまらせているキリエの姿が目に映る。月明かりだけで照らされたほの暗い中であっても、その顔から血の気が引き、きつく唇を噛みしめているのがわかった。
イディスも同じようにキリエを一瞥してから、口を開く。
「
「……わかったよ」
キリエを気遣ってのことと言うなら、それを無下にする選択肢などない。小さく溜息をついてから、ムラクモは自身の疑問を引っ込めた。
本人に聞き出せば良いだけのことなのだろう。
しかし、キリエ自身が口をつぐんでいる以上、無理に聞き出すのは憚られる。彼女が自分から言わない理由の一端に、キリエを気遣うムラクモやイディスの気持ちを台無しにしたくないという思いを感じられるからこそ、なおさらに。
人によっては、キリエの態度はひどく優柔不断に見えるかもしれない。
だがこれは、おそらくずっと虐げられる側だった少女が、己の中で懸命に捏ね上げた不器用な優しさだ。無から生み出されたに等しい善心をそんな一言で片づけることは、ムラクモにもイディスにもできなかった。
「キリエちゃん」
穏やかな声音で呼びかけながら、そっと頭の上に手を置こうとする。
「……っ!」
今までと違い、キリエは明確な意思でその手から逃げようとした。しかしムラクモはそれを許さず、もう片方の手で細い肩を抱き寄せる。
そして、慈しむように白い頭を撫でた。
「よくわかんないけどさ。俺は君に触っても、なんともならない。だから安心してくれ」
「ぅ、ぁ」
じわりと、アメジストの目が潤む。
その涙の理由は、今のムラクモにはわからなかったが。
女の子が泣いているというだけで、慰めるには十分すぎた。
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