第7話:宿での一幕




「キリエちゃんただいま~」

「っ」


用事を済ませて宿へと戻れば、マグカップを持ったキリエが驚いたように肩を震わせた。

その拍子に取り落しかけたマグカップを慌てて掴み直してから、ボロ布の代わりにベージュのシャツを着た少女はムラクモに視線を向ける。しかし、目が合った瞬間に笑いかけられ、落ち着かなさそうにその視線を逸らした。

小動物を見ている気持ちになりながら、抱えた荷物とともに部屋の中に入った。


『おかえりなさいませ、主』

「おう、ただいまトツカ」

「……お、おかえり、なさい、ムラクモさん」


本体に戻ったトツカの言葉でこういう時にかけるべき挨拶を思い出したのか、はたまた覚えたのか。遅ればせながら、上ずった声で出迎えの言葉を口にする。


「ただいま、キリエちゃん」

「……ぁぅ」


満面の笑みを返され、またもキリエは顔を逸らした。


「(可愛いなあ)可愛いなあ」

「……っ」

『主、だらしない顔で言われてキリエさんが困っていますよ』

「そういうお前はキリエちゃんの慎ましやかさを少しは見習え」


相変わらず慇懃無礼なトツカに呆れ顔をしてから、改めてキリエの方を見た。

トツカの手腕により、その全身はシミ一つない陶器のように磨き上げられている。汚れでくすんでいた髪も肌も今では本来の美しい白色を取り戻し、キリエという少女をよりいっそう清廉なものに見せていた。

白い美しさにまた呆けそうになるのをグッと堪えて、穏やかな笑みを浮かべた。


「それはスープかな。おいしいかい、キリエちゃん」

「……あ、はいっ。あったかくて、おいしいです」

「ごめんなあ、今まで我慢させちまってて。食料は持ち歩いちゃいるが、さすがに腹持ちも歯ごたえもいい携帯食を弱った胃に食べさせるわけにもいかないしよ」


すまなそうに言いながら、荷物の中から瓶詰めのジュースを取り出す。新鮮搾りを謳い文句に売られていたそれは一目見ただけで果肉の量が多く、のどごしはやや悪いだろうが、果物の栄養は多くとれそうな代物だった。


「今日はそのスープとこのジュースな。固形物は、明日試してみよう」

「何から何まで、すみません……」

「なあに、可愛い女の子の世話を焼くのも男の甲斐性ってな。……しかし」

「?」


急に真面目な顔になったムラクモを見て、キリエはマグカップを持ったまま首を傾げる。


女将のお下がりなのか、シャツは小柄なキリエの体格に合っていない。そのため襟ぐりが大きく開いており、浮いた鎖骨が露わになっていた。


「――よし!」

『よし、じゃないですよスケベ野郎』


ぐっと拳を握る主に、ツクモは辛辣な言葉を口にした。


『変態臭いリアクションしてないで、ちゃんとした服を与えてくださいよ。どうせしっかり買ってきているんでしょう。下着も含めて』

「もちろんだが?」

『胸を張って言わないでください』

「さすがに上の方はサイズがわからないから無理だったが、他はサイズぴったりだと思う」

『観察眼の無駄遣いが過ぎます』


深々と溜息をつくトツカを後目に、ムラクモは嬉々とした様子で荷物から平たい小包を出す。そしてそれを、首を傾げたままのキリエに差し出した。


「ひとまず一通り買ってきてみたから、着替えてもらってもいいかい?」

「……ぁ。え、えっと、服、ですか?」

「ああ。着てた肌着はさすがにゴミ箱行きだし、女将さんの服借りっぱなしにするわけにもいかないからな。当座はこれでしのいでくれ」

「……本当に、何から何まで」

「さっきも言ったろ?こういうのは男の甲斐性だってな」


ニカッと笑いかけながら、ほとんど中身が残っていないマグカップを受け取り、代わりに小包を持たせる。接触のたびに肩を強張らせるキリエを気遣うように、大きな手は一度も彼女の肌に触れなかった。


そんなムラクモに、キリエは深々と頭を下げる。

それにもう一度笑いかけてから、トツカを持って扉の方に移動した。


「着替え終わったら呼んでなー」

「は、はいっ」


そう声をかけた後、部屋の外に出る。そして、閉めたばかりの扉に寄りかかった。


『聞き耳は立てないでくださいね』

「するか!お前の中で俺ってどこまで変態なんだよ!」

『申し訳ありません。よもやご自身が変態ではないなどと思っているとは……』

「雨ざらしにしてやろうかテメー」


恒例の軽口が交わされる。

それから少しの沈黙が流れた後、トツカが話を切り出した。


『キリエさんのこと、これからどうされるので?』

「明日イオのとこに連れてく予定。そっからどうするかは、まあキリエちゃん次第かねえ。その前に怪我診てもらいたいからイディスは呼んだが」

『ああ、イディスさんは白属性魔術使えますからね』

「ちょうど近くで馬の早駆けしてたらしくてよ、そう時間もかからんとさ。非番だってのに、体を動かすのがほんと好きだねえあいつは」


言葉だけなら呆れているようだが、その声音は微笑ましさを帯びていた。

友人間ならではの気安さである。トツカもそこは承知しているので、変な茶化しを入れることはしなかった。


「……あ、あのっ。着替え、終わりました」


ほどなくして、部屋の中から声が聞こえてくる。

待っていましたとばかりに、ムラクモは返事をするよりも早くノブに手をかけた。


「さーて、可愛い姿をお兄さんに見せてちょーだいなっと」

『発言が親父臭いですよ主』


トツカの呆れた言葉を無視して扉を開ける。自身を焦らすようにゆっくりと開けた扉の先には、新品の服を着て落ち着かなさそうに立っているキリエの姿があった。


ムラクモが買ってきたのは、白と紺色で構成されたフェミニンな女性服だ。

落ち着いたデザインは、丈が長めのスカートも相俟って清楚さを演出している。露出が多い服は似合わず、かといってガーリーなものも違うだろうという判断で選んだ服だったが、想像以上にキリエに似合っていた。

恥ずかしそうに頬を赤らめている様も、少女の可憐さをいっそう強調している。


「…………」


すごく似合っているだとか。

とても可愛らしいだとか。

用意していたはずの褒め言葉が、綺麗に頭から抜け落ちた。


彼女と出会った時のように、その立ち姿に魅入られ、見惚れる。

そんなムラクモの反応を悪い方に捉えてしまったようで、キリエはスカートの裾を握りしめながらいたたまれないとばかりに身を縮こまらせた。


「す、すみませんっ。せっかく買ってもらったのに、私、不格好で……っ」

「……あ、いやいやいや!そんなことないって!」


キリエの言葉に自分が呆けていたことに気づき、慌てて否定を口にする。

フォローのため、キリエに歩み寄ろうとする。だが、一歩踏み出した足は床に落ちていた包装紙の上に着地し、そのままずるっと滑った。


「うお…っ!?」

「きゃっ」

『ある――』


三者三様の声が上がるとともに、二人の体がベッドに倒れ込んだ。


「っ、たた…。キリエちゃんごめん、重かったろ?」


そう言いながら起き上がろうとしたところで、動きがぴたりと止まる。

上体を起こすために手に力を込めた瞬間、トツカを持っていない方の手に柔らかな感触を感じたからだ。


「…………」


恐る恐る、目の前の光景に意識を向ける。


「……ぁ、ぁぅ」


そこには、ムラクモに組み敷かれて目を白黒させているキリエがいた。

アメジストの目が、困ったように自分の胸元へと向いている。より正確に言うならば、自分の左胸の上に置かれているムラクモの手へと。


申し訳程度に身じろぐたび、体に当たっている大太刀が硬い音を立てる。

普段即座に諌めてくれるはずのトツカはなぜか何も言わず、それが余計ムラクモの思考を長くフリーズさせた。


自他ともに認める女好きなので、当然女性経験の数は多い。

今までの経験と比較すれば、押し倒して胸に触るなど前戯のようなもの。加えて、何かの拍子に女体と触れ合い、その柔らかさを不意打ちで味わうことなどこれまでに何回もあった。

しかし、こうやって押し倒してしまうのは初めてだった。

触れたところから伝わる早鐘の鼓動やキリエの初々しさに釣られて、初めて女性を組み敷いた時のような緊張感に見舞われる。自分の心臓の音をうるさく感じるなど、あまりにも久しぶりのことだった。


「……っ」


こくりと。

思わず、喉が鳴る。


「――――ムラクモ!!」


直後、扉を大きく開け放つ音とともに、聞き慣れた大声が響いた。


「私が来たからにはもう大丈夫だ!安心するがよ…い……?」


だがその大声も、瞬く間に尻すぼみになる。

沈黙はやがて、痛いほどに突き刺さる視線に変わった。


「…………」


整備不足のからくりのようなぎこちなさで、後ろを振り返る。

そこには、種族に相応しく鬼のような顔をした赤髪の女騎士が立っていた。

仕事の時に身につけている鎧を脱ぎ、代わりに動きやすさを重視した私服に袖を通した赤の勇者。彼女は恐ろしい顔つきのまま、拳を固く握りしめた。


その反応も、当然と言えば当然と言えよう。

なぜなら彼女の視点では、ムラクモがいたいけな少女を押し倒しているようにしか見えなかったのだから。


「――天誅!!」

「たんまたんまお前の馬鹿力で殴られたらやば……ぎゃーっ!!」


数十秒後。

男の甲高い悲鳴が上がった。




「なんだ、ただの事故か。それならそうと早く言えばよかったろうに」

「言う前に全力で殴られたんだけど???」

「すまんな!性犯罪者となった友を一刻も早く誅さねばという使命感に駆られた!」


そして十分後。

散らかった部屋を片づけてから、イディス=アイギスは堂々とした態度で開き直った。


こしらえられたコブに氷袋を当てたムラクモは、盛大に溜息をつく。そんな彼の姿を見て、キリエはおろおろとうろたえた。


「す、すみません、私のせいで…っ」

「ああ、キリエちゃんは悪くないって。悪いのは早とちりしたこいつだし」

「貴殿の日頃の行いにも責任はあると思うが、非が概ね私にあるのは肯定しよう。驚かせてしまったようですまなかったな!」

「はひ」

「こらっ、声の大きさにびびってんだろうが。宿にも迷惑だし音下げろ」

「むっ、すまない」


仰け反るキリエを庇うように腕を上げながら、相変わらずの大声を咎める。それに素直な謝罪を返してから、改めてイディスはキリエに向き直った。


「私はオリュンポス家に仕える騎士、イディス=アイギスだ。よろしく頼むぞ、キリエ殿」

「ぁ……。っ」


そう言って、親愛の証とばかりに手を差し出す。

反射的にそれに手を伸ばしかけたキリエはしかし、すぐにその手を引っ込めた。


「む?」

「察してくれ」

「……ああ」


怪訝そうな顔をするイディスに言葉少なに伝えれば、通信であら方の事情を聞いていた騎士は露骨に眉をひそめる。

だが、それも一瞬。すぐに憂いを帯びた表情を消すと、握り返されなかった手を戻し、代わりに自分の胸元を力強く叩いた。


「私が来たからにはもう大丈夫、大船に乗った気でいるといい」

「は、はい……」

「良き返事だ。さて、足の怪我を見せてほしいのだが構わないだろうか?」

「わ、わかりました」


イディスの言葉に、キリエはおずおずと膨れ上がったままの片足を差し出す。

汚れが落とされた分、青紫に鬱血した部分は痛々しさが際立っている。それに片眉をはねさせた後、肌には直接触れないようにしつつ、片手をかざした。


「《疵よ、退去せよ》」


詠唱に合わせて、赤い光が手のひらから零れる。

灯火を連想させるそれが負傷を癒していく様を見ながら、ムラクモはふと口を開く。無論、これくらいではイディスの邪魔はしないと判断しての問いかけだった。


「そういやさっきはどうしたんだ?」

「む?」

「ほら、部屋に入ってきた時。妙に慌ててたっていうか焦ってたみたいだったしよ」

「それか」


そう言われ、思い出したとばかりに目を瞬かせる。


「この宿から禍々しいものを感じてな。何かあっては一大事と駆けつけたのだ」

「禍々しい?」

「ああ。もっとも、禍々しいとは言っても微細ではあったし、今はもう感じない。とはいえ気のせいとも断じづらく、後日調査したいところなのだが」

「ふぅむ。俺にはさっぱりわからんが、門外漢だから何とも言えないな」

「トツカはどうだ。何か感じたか?」


魔術を行使しつつ、イディスはトツカに意見を求める。

しかし、返ってきたのは沈黙だった。


「……む?」

「……」


思い返せば、事故でキリエを押し倒して以降、ずっとトツカは沈黙を続けていた。

会合の場では口数を減らすものの、話好きというツクモの性質に違わず、トツカは基本お喋りだ。それがこれほど長く黙り続けているというのは、珍しいを通り越して不自然だった。


「……おーい、トツカ。寝てんのか?」


それでもキリエを不安がらせないよう、わざとのんきな言い方で声をかけ、大太刀を掴む。


『……は、い。大丈夫です。意識は、あります』


ほどなくして、大太刀から声が返ってきた。

内心小さく安堵してから、明るい声音で話しかける。


「お前がぼーっとしてるなんて珍しいな。寝不足か?」

『そんなところです。申し訳ありませんイディスさん、ご挨拶できなくて』

「なに、構わん」


謝罪の言葉にそう返しながら、赤い光が消えた手をキリエから離した。


「痛みはどうだ?」

「……は、はいっ、大丈夫です」

「ならばよし!今日は私もトゥリアに泊まっていくつもりだ。もしどこか痛むようなことがあれば、遠慮なく言ってくれ」

「ありがとうございます……」


深々と頭を下げるキリエに、気にするなとばかりに片手を振る。

そんな二人を見て、ムラクモは言いづらそうに声をかけた。


「あー、イディス。その気遣いは嬉しいんだが、トゥリアの宿はどこも満室らしくてな。俺もここの一室をやっと見つけたくらいで……」

「む?片づけの途中、女将に聞いてみたら空きはあるとのことだったが?」

「あれー?」

「なんでも私が来た後、急に荷物をまとめて出て行った客がいたとか」

「ああ……」


その一言で、おおよその理由はわかったとばかりに遠い目になった。


黒の勇者おれと違って、赤の勇者こいつは有名人だからなあ)


大方、宿に泊まっていた小悪党辺りがイディスに恐れをなして逃げたのだろう。イディスと行動をともにしているとたまにあることだった。

それが正解だとすると犯罪者を一人逃がしたことになるのだが、言えば非番を返上してでも捜索に走るのは目に見えている。あくまで予想にしかすぎないことで彼女を職務に駆り立てさせるのは忍びなかった。


(それに、大体イディスにびびって挙動不審になってるからすぐ捕まるんだよな)


そんなことを思いながら、イディスに話しかけられてしどろもどろになっているキリエを助けようと身を乗り出した。


一方、トツカはジッとキリエに意識を集中させていた。

人の体があったなら、凝視を指摘されてもおかしくないほどに強く。


(……キリエさん。貴方は一体)


本体たる大太刀が、彼女と接触した時に起きたこと。

それを思い返しつつ、ツクモは主に気取られぬよう、少女への警戒を高めた。

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