30.先輩の秘密③

 確かあれは俺が小学生の低学年の頃だった。普段から仕事で家にいない両親に代わってよく母方の祖母に色々とお世話になっていた。掃除から洗濯、それに加えて朝晩の料理まで当時の俺にとってはもう一人の母親と言っても差し支えない、そういった存在だった。


 何かある度、祖母に泣きついては甘やかしてもらう日々、今思えば俺は相当なお婆ちゃんっ子だったのだろう。そして当時の俺はそんな生活が永遠と続くのだと思っていた。


 そう思っていたある時、突然祖母が倒れた。元々心臓が弱かったというのもあって度々倒れることはあった。だから今回も大丈夫だろう、またすぐに戻って来ると、そういった適当な理由をつけて見舞いにはいかなかった。


 だが俺の予想に反して祖母の容態が段々と悪くなっていっていることを両親から聞いた。もう駄目かもしれない、そう言われても俺は頑なに見舞いへ行くことを拒んだ。きっと大丈夫だと両親に、自分に言い聞かせていた。だが現在はそう甘くなく祖母は間もなくして亡くなった。


 きっと寿命だったのだろう、寧ろ良くここまで頑張ったと両親は俺を慰めようとしたのだろうが、そう言い聞かされる度に俺は後悔した。どうして俺は最後まで一度も見舞いに行かなかったのだと自分を責めた。それでも結局どうして見舞いに行かなかったのか当時の俺には分からなかった。


 だが今は分かる。あの時の俺はきっと怖かったのだと思う。祖母がいなくなってしまうという現実に向き合うのが。だから適当な理由をつけて見舞いに行くことを拒んだ。


 そう、丁度今ののように。


 言ってしまえばただ現実から逃げているだけだった。自分が傷つかないために向き合うことを拒んでいるだけ。自分が男性恐怖症であれば、それを正当な理由にして父親に会いに行かなくて済む。彼女の場合は今までそうやってやり過ごして来たのだろう。だがいつまでもそのままでは駄目なのだ。彼女もきっと既にその事は気づいている。だからこそ俺達に体質改善──現実と向き合うためのあしかせ外し──を依頼した。だとしたら依頼を引き受けた俺達が出来ることはただ一つしかないだろう。


「四葉、ちょっといいか?」


 桜花先輩の話を聞いた俺は放課後、教室で一人俺を待っていた四葉に声を掛ける。


「もう用事は良いんですか?」

「ああ、結構待たせたよな」

「いえ、私は大丈夫ですよ」

「戻って早々すまないが新しい用事が出来てな。これから四葉にも付き合ってもらいたいんだけど大丈夫か?」


 これは月城先輩のことだが、四葉も月城先輩に協力してくれている内の一人、知る権利はあるだろう。


「どこに行くつもりなんですか?」

「まぁちょっとな。それでこれから月城先輩も呼ぶけどどこにいるか分かったりするか?」

「月城先輩ですか?」

「ああ」


 四葉は若干嫌な表情をするが、すぐに表情を元に戻す。どうやら何かを感じ取ったらしい。


「先輩ならさっき図書室の方に歩いて行くのを見ましたよ」

「よしじゃあまずは図書室に行くか」


 俺と四葉は揃って図書室へと向かった。

 俺達に出来るただ一つのこと、月城先輩が現実と向き合うきっかけを作るために──。



 図書室に向かうといつもの席に月城先輩はいた。彼女はこちらを見ると挨拶をしてくる。


「二人揃ってどうしたのかしら。帰らないの?」

「まぁ今日はちょっと先輩に用事がありまして。少し俺に付き合ってくれませんか?」

「付き合ってくれなんて彼女がいる前でよく言えるわね」

「それは用事があるので」


 俺が真剣な表情でそう返すと月城先輩は少し不満そうにため息を吐いた。


「つれないわね……。それでどんな用事なのかしら?」


 ここで目的地を言ってしまえば、理由をつけて断られるかもしれない。一先ず目的地は伏せておく。


「ちょっとした体質改善の訓練だと思ってくれて結構です」

「ちょっとした体質改善の訓練って一体何をするつもりなのよ」

「それは着いてからのお楽しみということで、それで行きますか? 行きませんか?」

「分かったわ。わざわざ体質改善に協力してもらっているのに行かなかったらバチが当たるものね」

「ということは付き合ってくれるということですか?」

「ええ」

「では荷物の準備をお願いします。少し学校を出ますので」

「学校を?」

「はい」


 これで準備は整った。あとは月城先輩を彼女の父親がいる病院へと連れて行くだけである──。


◆◆◆


「あの、どこまで行くつもりなのかしら?」


 学校を出てからしばらく歩いた俺達は例の病院の目の前にいた。緊張感を含んだ月城先輩の顔を見る限り、まさか今目の前にある病院に行くとは思っていなかったのだろう。


「すみません、俺は先輩に嘘をつきました。体質改善の訓練というのは嘘です」

「どういうことかしら?」

「今からあの病院に行きます」


 俺の返答に月城先輩は少しだけ目を細める。そんな彼女は今まで見たことないほどの冷たい表情をしていた。


「後輩君は一体どこまで知っているの?」


 正直ここで引き下がりたかったが、ここまで来てそういうわけにも行かない。月城先輩からの圧に耐えて俺はゆっくりと口を開く。


「すみません先輩、俺にはもう一つ謝らなければいけないことがあります。この前先輩がこの病院に入って、とある病室までいったのを見てました」

「……そう」

「それからある人に聞いたんです。先輩の父親が昔事故に遭ったって。それを聞いて思ったんです。もしかして先輩の父親はまだ……」


 その先を言おうとしたその時だ。突然乾いた音が辺りに響き渡った。それとほぼ時を同じくして俺の左頬辺りからじんじんと痛みを感じ始める。目の前には右手を押さえて下を向く月城先輩。いきなりでまだ整理出来ていないがどうやらこれは彼女がやったことのようだ。


「だ、大丈夫ですか!? 凛君!」

「ああ、大丈夫だ」


 俺の隣へと駆けつけた四葉は俺を守るようすぐに俺の前へと出る。それに対して月城先輩は動揺していた。


「ご、ごめんなさい。私そんなつもりじゃなくて……」


 月城先輩にとってきっと今の話は触れて欲しくないことだったのだろう。だが俺は心を鬼にしてさらに話を続ける。彼女が現実と向き合うためにはもうこれくらいしなければ駄目なのだ。


「先輩の男性恐怖症は現実から目を背けるための都合のいい道具だった。だから先輩は今まで男性恐怖症を演じてきた。違いますか?」


 俺が問いかけるもしばらく反応はなかった。だが五分ほど経った頃だろうか月城先輩は力が抜けたように手をだらんと垂らし、それからぶつぶつと何かを呟き始めた。


「……そうよ。私はただ逃げていただけ。でもそれの何が悪いの? 仕方ないじゃない! 私だって怖いのよ。もしお父さんが今後一生目を覚まさなかったらって思うと。それにあの事故は私のせいなの、私が赤信号で飛び出したばっかりにお父さんが私を庇って起きた事故……合わせる顔なんてないわよ」


 私のせい、彼女の口から発せられたその言葉は悲痛に満ちていた。過去のことは詳しく知らないがきっと月城先輩には現実と向き合うことに対する恐怖心の他に父親に対する負い目もあったのだろう。そしてその負い目は時間が経つごとに強くなっていった。彼女が中々見舞いに行けなかったのにはきっとそういった理由も含まれているのだ。


「でも先輩だって今のままじゃ駄目なことくらい分かっているはずです」

「……そうね、分かっているわ。だから私は後輩君達に協力をお願いしたのよ。でも後輩君が見ていた通り結局駄目だったわ。どうしても病室に入れない。きっとこれはお父さんが私にかけた呪いなのよ」


 月城先輩はそう言って下を向く。そんないつもの彼女らしくない彼女に俺は憤りを感じていた。いや、正確には違う。俺は彼女の全てを諦めた姿勢が気にくわなかった。だって彼女の父親は生きて欲しいと思ったから彼女を事故から庇ったのだ。別に負い目を感じて欲しくて庇ったわけではないだろう。それなのに今の彼女はなんだ? ずっと負い目を感じて現実から逃げ続けている。そんなのきっと彼女の父親だって望んでいないはずだ。


「……いい加減にしろよ!」


 そう思ったからだろうか、俺の口からは自然とそんな言葉が漏れていた。一度漏れた言葉はとどまることを知らず、まるでダムから流れる水のように口から流れ出す。


「あんたの父さんはなんで事故に遭った?」

「それは私を助けるために……」

「そう、あんたの父さんが事故に遭ったのはあんたを助けるためだ」


 これは説教なんていう大層なものじゃない。


「だったらあんたの父さんはあんたに生きて欲しいって思ったんだろ。それならせめて立派に生きている姿を見せてやるのがあんたの仕事だ。勝手にそれを放棄して悲劇のヒロイン気取ってんじゃねぇよ!」

「違う! 私はただ合わせる顔がなくて……」


 それに彼女の背中を押したいなんていう善意から来るものでもない。


「合わせる顔がないとか、そんな小さいこと気にするな! そんなことで悩んでる時間があるんだったらさっさと見舞いにでも行ってやれ! 結局あんたは理由をつけて逃げてるだけなんだよ!」

「……もしかしたらそうかもしれない。けど怖いのよ。きっとまた動けなくなる」

「動けなくなったら俺があんたを無理やりにでも歩かせる」

「それでもお父さんと何も話せないかもしれない」

「だったら話せるようになるまで何度でも俺が付き合ってやる。いい加減出来ない理由を探すのは止めろ! そろそろ現実を見やがれ!!」


 これは単なる我が儘だ。俺が出来なかったからそれを全て月城先輩に押し付けているだけのどうしようもなく身勝手な俺の我が儘。だけど、だからこそ伝わるものがあるのかもしれない。


「……現実を見ろ、確かに後輩君の言う通りかもしれないわね」


 月城先輩はポツリとそう呟く。きっと彼女は現実を見なければいけないことくらい分かっていたはずだ。だが分かっていても勇気が出なかった。背中を押してくれる人がいなかった。それが彼女に逃げる隙を与えていたのだろう。

 しかしもう逃げられない。俺の我が儘が彼女の逃げ道を全て塞いだ。


「それなら行きますよ」

「一体どこに?」

「それは先輩が一番分かってることです。……きっと先輩のお父さん、六年間も先輩に会えなくて寂しがってますよ」


 彼女に残された選択肢はただ一つしかない。


「……きっとそういうことなのよね。それで本当に後輩君は一緒に来てくれるのかしら?」


 とはいえいきなり一人で行くのは厳しいのだろう。


「さっき何度でも付き合うって言いましたからね」

「……そうね、良かったわ。最後まで後輩君と祝さんには迷惑を掛けるわね」


 月城先輩はそう言うと続けて俺の手を掴んだ。


「でも私の男性恐怖症は治ったみたい。これならお父さんにも会えるわ」


 俺の手を掴んだ月城先輩はとても清々しい表情をしていた。これでようやく自分自身を縛り付けていた足枷が外れたのだろう。


「良かったですね、先輩。でもいつまで凛君の手を握っているつもりなんですか? 早く離れて下さい」


 そして一方の四葉だが、彼女は見たものの背筋が凍るような冷たい表情を浮かべていた。この状況でそんなことが言えるとは、なんというか四葉の精神はかなり図太いようだ。

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