末の契り

増田朋美

末の契り

末の契り

「ねえ、先生。うちの教室では、発表会はしないんですか?」

と、ある生徒さんが苑子さんに言った。

「此間、ある教室の発表会を見に行ったんです。その教室は、とても楽しそうで、みなさん生き生きとしていました。」

そういえばそうだった。うちの教室では、ぜんぜん、演奏会なるものを開催していない。他のお箏教室は、みんなどこかのホール借りて、発表会とか、定期演奏会をやっているのである。

「そう言えばそうですね。」

と、浜島咲は言った。苑子さんも、そういえばそうだったという顔をした。

「いいことじゃないですか。演奏会やりましょうよ。うちの教室では、面白い曲をこれだけやっているんだって、アピールすることも大事なんじゃないかしら。他の教室とは違うんだって、皆さん、おどろかれるわ。」

「そうねえ。」

と、苑子さんは言った。

「でも、古典をやるなら、博信堂の楽譜はもうなくなっちゃっているし、新たにやりたいという人が出てきても困るし。」

まあ確かに、そうなのである。山田流箏曲の古典曲は、博信堂という出版社の楽譜が定番になっているが、そこが当の昔に潰れていて、入手など出来そうもないのだ。

「古典なんてやらなくていいじゃありませんか。それじゃなくて、もっと違う曲をやるんですよ、いつもやっている、コモエスタ赤坂とか、そういうポピュラーソングでいいんです。第一、古典なんて皆さん知らないから、かえって、この教室の評判を落とすだけです。そうじゃなくて、もっと楽しい曲ができるんだってことをアピールするんですよ。」

咲がそういうことを言っても、苑子さんは、うーんと考えこんだままだった。実は、咲も記憶しているのだが、こういう演奏会に苑子さんが躊躇する理由も何となくわかる。息子の薫さんが生きていたころは、頻繁に演奏会を開催していたし、田子浦の港まつりとか、公民館の文化祭とかそういう時にも、演奏会を開催していた。それは、薫さんが参加することができていたからだ。苑子さんは、その薫さんを失ってから、めっきりやることに意欲をなくし、最近は、お教室としてはやっているものの、演奏会を開催することは、全く開催しなくなってしまった。

「ポピュラーソングって、でも箏は箏ですもの、古典箏曲をやらなくちゃ。」

そういうことを言っている苑子さんだが、実は薫さんがいないので演奏をしたくないのだという事が、見え見えだと咲は思った。

「苑子さん、そうじゃなくて、私たちは、一生懸命やっていかなくちゃ。薫さんをなくして、確かにつらいかもしれないけど、それを乗り切るよう一生懸命努力しなきゃいけないことも、忘れないでください。」

その時は、お稽古時間がなかったので、そこまでしか言えなかったが、やはり苑子さんは、発表会をやるということに、意欲的ではなかった。生徒さんもこれではつまらないとは言わなかったものの、苑子さんが、やる気ではないので、そのあとの稽古には何か覇気がなかった。

とりあえずその日、生徒さんをすべてお稽古し終えて、楽器を片付けながら、咲は、苑子さんに言ってみる。

「ねえ。苑子さん。本当に、一度でいいから演奏会をしましょうよ。そうすれば、皆さんもモチベーションも上がるでしょうし、これまで以上にうまくなる人もいますよ、きっと。ホールを借りるほどの経済力がないというのなら、何かレストランとかそういう所でもいいじゃないですか。或いは図書館とか公民館でもいいかもしれませんよ。どこかで演奏会をしませんか?」

「そうねえ。」

苑子さんは、一寸ぼんやりとした口調で言った。

「そうだけど、なんだか薫に悪いような気もするのよね。今の教室は、ほとんど歌謡曲ばっかりになっているし。ほら、薫がいたころは、古典箏曲手伝ってくれていたから、わりと直ぐにできたんだけど。」

「でも、古典箏曲はもうないでしょうが。博信堂はとっくに潰れていますよ。だから、古典箏曲を求めても手に入りませんよ。私だって、お箏屋さんにいってちゃんと聞きましたよ。博信堂はつぶれたって。だから、古典はもうやめにしたほうがいいんじゃありませんか。どうせないものをねだったって、意味がありませんよ。」

咲は、躊躇し続ける苑子さんにそういうことを言って、なんとか覇気を取り戻そうとしたが、苑子さんはその気にはなってくれないようだった。

「せめて、それをするなら、古典を一曲やりたいわよ。薫が好きだった、古典箏曲。あの子は何よりも、古典箏曲が好きだったんだから。」

全く、苑子さんときたら、どうしてこんな風に凝り固まってしまうのだろうか。母親となると、変なところで凝り固まってしまう様になるらしい。薫さんのすきだったものとか、そういうモノを、変なところで思い出してしまうようなのだ。時にはどうでもいいことなのかも知れないけれど、いざというときに、そういう変な思い出を持ち出してきてしまうのが、母親というモノであるらしい。親というのは、そういうモノだとこっちが納得しないと、うまく物事が運べないこともある。とりあえずその日は、それ以上話を進められず、楽器を片付けて二人はそれぞれの家に帰った。

その日、咲は家にまっすぐ帰らず、一人で電車に乗って、ちょっと遠方にある古本屋に行った。時々、古本屋に、日本の伝統文化の本とか、そういう希少価値のある本が入荷されることがあると、お琴教室のお弟子さんから聞いたことがあったのだ。そこに行けばもしかしたら、お箏の楽譜があるかもしれない。そこにもしかして、薫さんのすきだった曲があるかもしれないと思ったのである。

「いらっしゃいませ。」

と、古本屋にはいると、白髪頭のおじいさんがそうあいさつした。さすがに古本屋だ。本がこれでもか!と言いたげに、所狭しと置かれている。普通の書店であれば、しっかり陳列してくれてあるのだが、古本屋というと、なんだかごみ箱みたいに適当に置かれているのだ。

「すみません。ここに箏の楽譜ありますか?できれば古典箏曲がいいわ。あればちょっと見せてください。」

咲がそういうと、古本屋のおじいさんは、

「はい、一寸お待ち下さい。これなど如何でしょうか?箏の楽譜は一冊一律五百円で結構ですよ。」

と、言って、目の前にある、本の束を、縛っていた紐をほどいた。確かに、古典箏曲の楽譜だった。楫枕、嵯峨の秋、新青柳、八重衣、みんなすごい曲ばかりだ。でも、咲が狙っていた、博信堂の楽譜は売られていなかった。でも、ちょっと面白いタイトルの楽譜を見つけた。「末の契り」。つまるところの、「永遠の愛」という意味だ。と、いう事は、誰かが恋人に愛を伝える曲なのだろうか?咲は、その楽譜を開いて読んでみる。何だか、女性が男性にプロポーズするという内容であるらしい。でも、古典箏曲ならではだが、その気持ちを小さな小舟や、海岸で鳴きかわす鶴とか、そういうモノに例えて、遠回しに結論を伝えるのようになっているので、じかに、結婚してくださいという文書が入っているわけでも無かった。それよりも、あなたを愛していることを忘れないでくださいという文句で締めくくっており、ある程度古典箏曲の知識がないと、プロポーズの曲であるとはわかりにくい歌詞である。日本の古典箏曲というのは、大体そういうモノである。つまり解釈によって、何十通りの情景が浮かんでしまうのだ。でも、それをよしとして、江戸時代から伝わってきているという事に、素晴らしさがあるのかもしれなかった。

よし、これでこじつけよう、と咲は思った。これを、薫さんからのメッセージとして、お弟子さんたちに演奏させるという演出をすれば、苑子さんも喜んでくれるに違いない。

「あの、これください。末の契り。」

咲は、店主さんにそういって、言われた通り500円を払って、その楽譜を買った。

そして、自宅に帰り、机の中から、教室に所属している生徒さんたちの連絡網を出した。いざというときのために、連絡網を用意してある。すぐに、今日発表会をやろうといいだした、生徒さんに電話をする。

「あ、あの、浜島ですが。」

「はいはい、何でしょう。」

生徒さんはすぐ出てくれた。

「実は、下村苑子先生を元気づけるために、末の契りという曲をやってもらいたいの。楽譜を見る限り、さほど難しくないと思うわ。今から楽譜をファックスで送るから、練習してきてもらえないかしら?」

この生徒さんは、教室の中でもかなり高順位な生徒さんで、箏の腕前もかなりのものであった。

「下村先生、昨日も今日も元気がないし、やっぱり薫さんを亡くされて、寂しいんだと思うわ。だからちょっと、慰めてやりたいというか、励ましてあげたいの。末の契りの歌詞が、薫さんからの願いだと思うのよ。」

「わかりましたよ。浜島さん。その通りにいたします。私も、苑子先生にはこれからも活躍されてもらいですし、息子の薫さんだって、きっと、そのように思ってくれていると思いますよ。」

生徒さんは、咲より年上だった。咲のその気持ちも理解してくれたようだ。

「じゃあ、すぐに送ってください。練習してきます。」

本当は、私がお箏を弾ければいいんだが、そういうことはちょっとできなかった。咲の家には、お箏を置く場所がないし、お箏を今更習うこともできないのである。

「ありがとう。すぐに送るわね。あ、私が末の契りをやってと頼んだ事は、秘密にしておいてね。」

咲はそこは念を押した。生徒さんは了解です、わかりましたと言った。咲は、とりあえず一端、電話を切り、お弟子さんに末の契りの楽譜をコピーしたものを、ファックスで送る。苑子さんに少しでも元気になってもらう様に、亡き薫さんからのメッセージだとこじつけて。

その数日後。その生徒さんが、咲と苑子さんの下へやってきた。

「先生、今日は、先生に元気出してもらおうと思いまして、末の契りという曲を練習してきました。この曲の歌詞が、薫さんからのメッセージだとも、とれたものですから。」

生徒さんは、箏を調弦しながら、そういうことを言った。苑子さんは偉く驚いた顔をして、生徒さんを見る。

「先生、もう少し、元気を出してください。そしてまた、演奏会しましょうよ。薫さんもきっとそれを望んでいらっしゃると思いますよ。」

そういって、生徒さんは、末の契りを弾き始めた。

「白波の、かかる憂き身のしらでやは

和歌に見る目を恋捨てふ

渚に迷う、海士小舟

浮きつ沈みつ、寄る辺さえ

荒磯伝う、芦田鶴の

鳴きてぞともに、たつかゆみ

春を心の花とみて

忘れ給うな、隠しつつ

八千代ふるとも、君まして

心の末を契り給うな。」

一見すると、強いメッセージのような歌詞なのであるが、

「嫌ねえ、私を励ますのに、遊女の歌詞を出してくるなんて。」

苑子さんは、そういうことを言った。何だそんなこと、どこにも書いてなかった。楽譜の表紙にも、解説本にもそんな事は書いていない。日本の歌というのは、こうして予備知識を知っておかないと正確に伝授できないものか。咲はちょっと恥ずかしいというか、なんていう失敗をしでかしたのか、と首を垂れてしまった。この歌詞だけだったら、どんなつらい世の中でも一緒に生きていこうという気持ちともとれるのに!それが遊女の歌だったとは、、、。

「いいえ、でも上手になったわね。そうよね、あたしも、落ち込んでいてはだめよね。」

不意に苑子さんがそういうことを言った。苑子さんは、初めから終わりまでわかっているのではないだろうか。咲はその時そう思ってしまった。でも、生徒さんの目は、浜島さんが私にそうしろと言っていることは誰にも言いませんといった。

「今日の末の契りはよく出来たわ。なら、あなたの演奏曲は、これにしましょうか。」

え?という響きがあった。

「決まっているじゃないの。演奏会の事よ。」

やっと薫さんの想いが通じてくれたんだなあ、と喜ぶ咲であった。苑子さんは、急いで爪をはめ、末の契りのお稽古を始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

末の契り 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る