第19話 二つの想い。一つの答え。 その2

 俺が起きた時にはすっかり日も暮れていた。ダラダラとしているうちに寝ていたらしい。昼に聞こえていたセミの大合唱もなりを潜め、代わりに近所の小学生が家へと帰る声が聞こえた。


 一日を無駄にした気分だった。少なくとも間違ってなんかいないのだけど、その事実が無性に腹立たしかった。


 ゆるゆると体をほぐしていく。変な体勢で寝てたせいか、体が重かった。ついでに言うと、喉も渇いていた。


 冷蔵庫を空けると、入っていたはずの麦茶は底をついていて、中はがらんとしていた。そういやいつもなら真衣奈がなんでも準備してくれてた。それが真衣奈の手助けなしじゃ途端にこれだ。とんだ甲斐性なしだ。


 やがて俺は冷蔵庫の扉を閉めると、寝汗でびしょびしょになった服を着替えてから、テーブルの上に置いてある財布をズボンのポケットに押し込んだ。今日は久しぶりに千枝さんのところにでも行ってみよう。もしかしたら大樹もいるかもしれない。


 部屋を出ようとして、ふと、ドアの前で立ち止まる。部屋の中を見渡すと、狭いと思っていたはずの部屋を、どうしてだか広く感じていた。


 ああそうか。この部屋は二人じゃ狭いけど、一人だとこんなに広いんだな。


 一人足す一人、引く一人、イコール、一人。この部屋はただ単にもともとのあるべき姿に戻ったに過ぎない。


 それでいい。


 これでよかったんだ。


 俺はそんな戻らない時計の針を思いながら、そっと部屋のドアを開けたのだった。





「それで話したいことってなに?」


 紗季さんとわたしは、自販機近くにある神社のベンチに横並びに座っていた。この神社も三人で帰っていたころよく立ち寄っていた。ベンチのそばの大銀杏が日傘がわりになってくれて、夏の暑い日でもこの下だけは涼しかった。


 わたしはじっと紗季さんを睨みつける。正確にはジッと見つめていただけだった。けど、この険悪な雰囲気のなかではあながち間違ってないと思う。


 紗季さんが買ったばかりのコーラのふたを開けた。プシュッ、と炭酸の弾ける音がした。わたしも思い出したようにふたを開けた。すっとした炭酸の感触が喉の奥に伝わる。紗季さんはどう切り出そうかと言葉を探しているように見えた。


「あのさ……この間の花火大会のことだけど、わたしずっと真衣奈ちゃんに謝らなきゃって思ってたんだ」

「……謝る? なにを」

「真衣奈ちゃんにちゃんとわたしの気持ちを伝えてなかったこと。そのせいで真衣奈ちゃんを騙す形になったこと。真衣奈ちゃんがハカセのこと好きだってわかってたのにあんなことして……本当にごめんなさい」


 紗季さんが深々と頭を下げる。わたしはどこか冷めた目でそれを見ていた。


「別に紗季さんが謝ることじゃないと思うよ。だってわたし紗季さんの気持ち知ってたし」

「……?」

「多分、気づいていなかったのって紗季さんと先輩ぐらいなものだと思うよ。紗季さん、自分では隠せてるつもりだったんだろうけど、傍から見てたらけっこうバレバレだったから」

「そ、そうなの……?」

「そうだよ。紗季さんって嘘つけない人じゃない。それぐらいわかるよ」


 言って思わず自分で笑いそうになった。そのぐらいわかっていたのに、それでも紗季さんを責めた自分に。理由は……わかってる。本当に責めたかったのは自分自身に対してだ。紗季さんはいつだってわたしができなかったことを平然とやってみせた。そんな紗季さんが、いつも眩しく見えた。


 いつだってそう。


 いつだって紗季さんはわたしにとって憧れだったから──。



 わたしのもとにその電話がかかってきたのは六月の終わりごろだった。


「もしもし真衣奈ちゃん? わたしわたし。紗季だけど覚えてる?」

「紗季さん?」


 突然かかってきた思わぬ人物からの電話に、わたしは喜ぶどころかたじろいでいた。とにかく、落ち着いて話をしよう。


「もしもし、紗季さん?」

「はいはい。紗季さんですよー。そういうあなたは真衣奈ちゃん?」

「その感じやっぱり紗季さんだ。お久しぶりです」

「久しぶり。元気してた?」

「元気にしてたよ。そういう紗季さんは?」

「わたしも元気元気! 毎日元気すぎて落ち着かないくらいだよ」


 何年ぶりかに聞いた紗季さんの声はあのころとまったく変わってなくて、電話の向こうでも紗季さんがどんな顔をしているのか容易に想像できた。


「それでどうかしたの?」

「いや~この間街で偶然ハカセに会ってさ。それで懐かしくなってついかけちゃった」

「先輩から聞いてるよ。なんか紗季は何年っても紗季のままだって言ってた」

「おやおや、それってどういうことなのかなぁ? 今度会ったとき問いただす必要がありますな」

「お手柔らかにしてあげてください」


 久しぶりに話す紗季さんとの電話は楽しさのあまり、思いのほか長くなってしまって気が付けば日付が変わっていた。


「もうこんな時間だ。ごめんね長い間付き合わせて」

「ううん、わたしも楽しかったし」

「それならよかった。そうだ、今度時間あったらゆっくり話でもしない? たまには二人っきりでガールズトークなんてね」

「じゃあいつにする? 今度の休みとか?」

「じゃあその日にしよう」


 こうして紗季さんと会う予定ができると、わたしは彼女と会うのが待ち遠しい反面、その日がくることにどことなく緊張していた。


 次の休みの日、わたしは紗季さんと街に出かけた。二年ぶりに再開した紗季さんはやっぱり想像したとおり美人になっていた。まだ高校生だったころの雰囲気は残っているものの、それでもわたしから見たら大人の女性に見えた。


「真衣奈ちゃんずいぶん大人っぽくなったよね。おねーさんびっくりだよ」

「またそんなこと言って。紗季さんのほうがずっと大人に見えるよ」

「そうかなぁ? まぁ今日は真衣奈ちゃんとデートだから張り切っちゃったかな」

「デートって女二人で?」

「今夜は寝かさないよハニー」

「あはは。なに言ってるんですか、もう」


 紗季さんが声色を変えて囁いてくる。外見は変わっても中身はあのころの紗季さんのままだった。それからわたしたちは適当にウィンドウショッピングを楽しんだあと、駅近くの公園にあるカフェで色んな話をした。やはり電話越しじゃ話し足りなかったらしく、お互いに喉が痛くなるほど色んな話をした。高校のころの話だったり、今身の回りで起きている話だったり、あとは共通の友人でもある先輩の話などなど。


「そんなに人数増えだんだ。それじゃあ今年の天文部はなんでもできそうだね」


 紗季さんが嬉しそうに声を上げた。というのも今年度に入って天文部の部員は大いに増えた。それまで二年生と三年生を合わせてやっと十人だったのに、これまで活動してきた実績が認められたのか、新入生で入部したいという人が十人もやってきた。そのおかげで、文化系の部活で吹奏楽部並にとはいかないが、それなりの大所帯になった。天文部に所属していた先輩でもある紗季さんとしては、卒業した今となってもそれが嬉しいのだろう。


「なんだか感慨深いね。わたしがあの部に入ったころなんて潰れかけで、部員も二人しかいなかったのに」


 ふっと力を抜いて遠くを見つめる紗季さん。わたしはそのころの話を聞きたいと思った。


「紗季さんは戻りたいって思う?」

「ん、急にどうしたの?」

「なんとなくだけど、紗季さんは高校生に戻りたいのかなって思って」

「どうだろね。戻りたくないって言ったら嘘になるけど、今のほうがいいのかも。高校生になったら勉強しないといけないし」

「紗季さんらしいね」

「冗談だよ。あ、少し本音だけど。でもね、きっとやり残したことがあるから戻りたいって思うんだと思う」

「やり残したこと?」

「うん。わたしね一つだけやり残したことがあるんだ」


 そう言って紗季さんは目を細めた。


「高校生のころってさ、毎日が楽しくて、辛くて、色んなことがめまぐるしく起こって、一日があっという間に過ぎていくのに、その中で将来のこととか考えたりしないといけないし、すごく大変。生きるのに精一杯なんだと思う。やりたいこともたくさんあって、でもなにから手をつけていいかわかんなくて、そうしてる間に三年間が過ぎて卒業。学校に通ってるときは早く卒業したいとか勉強が面倒だとか文句ばっかり言ってたのに、それがなくなっちゃうとどうしてあの時ちゃんとしなかったんだろうって後悔ばっかり。自分勝手だよね」


 ふふっと口元だけで笑って、一区切りつけるようにコーヒーに口をつけた。わたしもそれにならって喉を潤す。


「わたしも……わたしもいつかそうなるのかな」

「真衣奈ちゃんはやり残したことあるの?」

「どうだろ。今高校生やってるからそこまで考えたことないよ」

「それもそっか。じゃあ年上のおねーさんからアドバイスをあげよう」

「アドバイス?」

「そ。人生なんてあっという間なんだからやりたいことがあったらすぐにやること。どうしようって迷ってる暇があるなら悩む前にやってみる。それで後悔してもやらないよりはいいと思う!」

「アドバイスって割に軽いなぁ。紗季さんのこれからが心配になるよ」


 わたしは呆れたように笑った。


 でも──、


「わたしもそんな風になれるかな」

「大丈夫。その点についてはわたしが保証するよ」


 紗季さんが胸を張ってアピールしていた。ほんっとどこからこの根拠のない自信が溢れるのだろう……。


「じゃあ紗季さんを信じる」

「うん。頑張れ」


 紗季さんが拳を突き出す。わたしも同じように拳を作って合わせた。


 それからというもの紗季さんはいろいろと世話を焼いてくれた。転校する前から世話焼きだということはわかっていたけど、再会してからはそれがさらに過剰になった気がする。姉というよりはお母さんみたいだと思った。


 これはある時の電話での内容だ。


「真衣奈ちゃんは恋とかしてる?」

「恋? んー、どうだろ」

「真衣奈ちゃんくらいの美人さんだったら言い寄ってくる男の一人や二人くらいいるでしょ」

「えー、そんなのいないよー」

「またまたー、そんなこと言って本当はいるんじゃないのー?」

「ご想像にお任せしまーす」


 紗季さんからの追求をなんとか払い除け、また他愛もない会話が続いていた。そんな中、わたしはずっと気になっていたことを聞いてみた。


「ねぇ、紗季さん」

「なにー?」

「紗季さんって先輩のことどう思ってるの?」

「どう思ってるってー?」

「なんていうか、言葉通りの意味で」

「そうだなー、わたしにとってハカセは大事な友達かな。一緒にいてなんだか落ち着くっていうか、楽しい気分になるっていうかそんな感じ。……なんかこんなふうにいうと照れくさいね」


 えへへ、と紗季さんは照れくさそうに笑った。


 紗季さんの言った『友達』という響きの中に込められた感情。電話の向こうからでも紗季さんがわたしに嘘をついていることぐらいわかった。もともと紗季さんは嘘をつくのがとても下手だった。そのくせ誰かのことを気にしすぎて遠慮する。きっと紗季さんはわたしの話を聞いてる間も先輩のことを想っていたはずだ。それなのに自分の気持ちにふたをしてわたしのことばかり考えて……。


「ずるいなぁ……紗季さんは」


 電話を切ったあとでわたしは泣いていた。紗季さんの優しさに対してじゃない。紗季さんの気持ちに気づいていたはずなのに、それに気づかないようにしていたことに腹がたったからだ。


 だから紗季さんが先輩のことを好きだってわかったときは、嬉しくもあったけど、同時に焦りも感じていた。きっと先輩は紗季さんに惹かれている。そして紗季さんも。


 だから偶然とはいえ、先輩が紗季さんとキスをしていたのを見てしまったときだって、本当は嫌だったし、なにもかも投げ出して見ないふりをしたかった。なのにわたしは心のどこかで納得していた。最初からこうあるべきだったのだって。



「だからさ、紗季さんがわたしに謝る必要なんてどこにもないんだよ」

「……」

「……それにさ、本当に謝らないといけないのは紗季さんじゃなくて、わたしのほうなんだよ」

「なんで?」

「……わたしだって、わたしだって紗季さんの気持ち知ってたのに、それなのに勝手に裏切られたって思って……」

「そんなこと」

「そんなことあるよ! わたし紗季さんにずっと嫉妬してた。紗季さんがいつも先輩と一緒にいるって考えるとすごいもやもやしてた。今だけじゃないの。ずっと……ずっとそう思ってた。紗季さんが先輩の前に現れたときからずっと。いつか紗季さんに先輩を取られちゃうんじゃないかってそう思ってた。だから紗季さんが転校しちゃったとき、わたし悲しいって思う前にホッとしてたの」

「……」

「今だってそう。紗季さんがこの街に帰ってきてくれて、久しぶりに連絡くれて、いっぱいいっぱいわたしの話聞いてくれて、わたしがいつも先輩の話するたびに、「うん、そうだね」「うん、大丈夫だよ」って励ましてくれて、本当なら紗季さんだって先輩のこと好きなのに、自分のこと棚にあげて、卑怯だよ!」

「ひ、卑怯……!?」

「卑怯だよ! なんでそんなに優しいの!? なんでそんなにわたしの心配ばかりしてるの!? なんでそんな風に笑っていられるの!? ねえ、なんで? なんで!?」


 わたしの中に溜まっていた色んな想いが溢れ出す。嫉妬だとか憧れだとかもう言葉にならないほどぐちゃぐちゃしたものがいっぱい!


「紗季さんバカだよ! 今だってこうやって私なんかに会うためだけに変な理由つけてさ! なんなの十円分って!? 公衆電話!? 今時、十円程度じゃ十秒も話せないわよ!」

「ご、ごめんなさい……」

「わたしだって紗季さんにちゃんとごめんって言いたかった! ちゃんとありがとうって言いたかった! 紗季さんが先輩に恋してるってわかってたんだったら応援したかった! 二人で先輩の悪口言い合ったり、どんな人が好きなのか話したかった! たまには先輩抜きで二人で遊びに行ったりして、もっと友達みたいに過ごしたかった! それなのにそれなのに! うわぁぁぁぁぁ!!」


 もうどうにもならなかった。わたしはありったけの感情をぶつけることしかできなかった。半ば飛びかかるようにして紗季さんに抱きつくと、一瞬驚いていたものの、そっと抱きしめてくれた。


「紗季さん! 紗季さんごめん、ごめんなさい!」

「大丈夫! 大丈夫だから!」


 大声で泣き叫ぶわたしに紗季さんはただ大丈夫と繰り返した。


 泣きつかれてようやくおとなしくなったわたしは、紗季さんに膝枕されていた。


「……ごめんね紗季さん」

「もういいって。それよりも落ち着いた?」

「……うん」


 ゆっくりと体を起こそうとすると、紗季さんにもう少しこうしてていいよ、と促された。こうしているのは恥ずかしかったけど、それ以上にこうされているのは心地よかった。


「紗季さんお母さんみたい」

「……失礼だなぁ。まだこれでも二十歳だよ?」


 紗季さんがムッとした表情で言う。でも、その奥にある本当は怒っていない、むしろその逆の感情が見えて、やっぱり嘘のつけない人なんだと思った。


「聞いてくれる?」

「うん。なに?」

「わたしさ、あんなことあったあとだけど、やっぱり先輩のことが好き。それは今でも変わらない」

「うん」

「きっとさ、わたしの恋のライバルってものすごく強敵で、わたしなんかが勝てる要素なんて一つもないって思う」

「うん」

「それでもさ、わたしはわたしなりにこの恋にちゃんと決着をつけたいって思ってる。例えそれがどんな結果になったとしても」

「……うん」

「だから紗季さんには見届けてほしいんだ。わたしが紗季さんの友達でいたいから」


 ゆっくりと体を起こす。じっと紗季さんの目を見つめる。紗季さんがいつかのときのように拳を突き出した。ガンバレのサインだ。わたしはそっと拳を合わせた。


「わたし負けないから」

「手ごわそうな相手だ」


 ふふっと笑い合う。


 わたしにもう迷いはなかった。

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