第8話 告白 その3
俺たちが三年生になってから、それまで廃れる一方だったはずの天文部はずいぶんと変わった。まず変わったことといえばその人数だろう。当初は一人だけだった天文部は紗季が加わったことで二人になり、さらに学園祭でやったプラネタリウムが評判を呼んだ結果、それなりに大掛かりなことができるくらいに部員も増えた。部室も物置小屋よばわりされていたのが、一応、普通の部室に見える程度には綺麗になった。なにより、すぐ側にいつも楽しそうにしている紗季の姿があることで、それがいっそう部内の雰囲気を盛り上げていた。
もちろんこの頃の俺はまだ、紗季に自分の想いを伝えることが出来ず、悶々としながらもこの騒がしい毎日を楽しんでいた。
だが、毎日が輝いて見えたそんな日々も、ある日を境にあっけなく幕を閉じることになる。
「祐介さん! 紗季が……紗季が転校したって本当か!?」
一学期の終わり、終業式が間近に迫ったある日、俺は職員室に飛び込むなり祐介さんに怒鳴り込んだ。
そう、紗季が俺の前からいなくなったのは、ちょうど今と同じくらいの時期だった。その頃も今ぐらい暑くて、羽化したばかりのセミがウィーヨ、ウィーヨ、と大合唱を繰り広げていた。
「耳が早いな。誰から聞いたんだ?」
「そんなのどうだっていいだろ! それより紗季は!? 紗季はどうしたんだよ!?」
「落ち着け翔吾。あと、学校では椎名先生って呼べっていつも言ってるだろ」
息を切らして、睨みつけるようにしていたにも関わらず、祐介さんはいつもどおりの
「……椎名先生。紗季はどうしたんだ」
「長谷川はな家の事情でこの学校から離れることになったんだ。ついさっき親御さんが来て挨拶していったよ」
「なんだよそれ……急すぎるだろ……」
「ああ。俺も急すぎて驚いてる。まさかこの時期に転校なんてな。だけどこればっかりはどうしようもないことだ」
「どうしようもないって……そんなことあるかよ!」
俺は憤りを抑えることが出来ず、身近にあったデスクにダンッ! と拳を打ち付けた。その物音に室内にいた先生たちが何事かと目を丸くしていた。
「翔吾、いいから落ち着け。……ここで話すのもなんだな。場所変えるぞ」
「……」
俺は祐介さんに連れられると、その場を後にした。
「ほれ、とりあえずこれでも飲んで落ち着け」
学校の中庭に着くと、近くにあった自販機から祐介さんが買ったばかりのコーラを渡してくれた。いつもだったら喜んで受け取るところだけど、どうにもそんな気分にはなれなかった。
「……なんで……なんでだよ……。なんでなにも言ってくれなかったんだよ……」
俺はコーラの缶を握り締めながらそう呟くので精一杯だった。
この時の俺は、紗季に裏切られたという想いを持っていた。今となったらずいぶんと勝手な想いを持ってたと思う。だけど、少しでもそう思わないと俺自身がどうにかなってしまいそうだったからだ。
「なんで……紗季……。だって……せっかく部員も増えて……これからだろ! これから楽しくなっていくんだろ! なんでなんだよ! 一言ぐらい言えよ! 同じ部活の仲間だろ! 一緒にプラネタリウム作ったんだろ!? そう思ってたのは俺だけか!? ああそうだ! 俺の勝手な思い込みだ! だからってさよならもなしか! くそっ!!」
俺はたまらず手に持っていたコーラの缶を地面に投げつけた。ぶつかった拍子に、中身の詰まった缶がひしゃげて、クシャッ! という音とともに溢れ出した中身が地面を濡らした。
「はぁ……はぁ……。なんでだよ……くそっ……」
「気が済んだか?」
「……椎名先生」
「今は二人っきりだ。いつもどおりでいい」
「……祐介さん……俺……」
「ああわかってる」
「……俺さ紗季にもっといろんなこと教えてやりたかったんだ。星のこととかバイクとか」
「そうだな」
「……それにまた学園祭がある。今度はもっとすごいプラネタリウム作ろうって思ってたんだ」
「おう」
「だけどそれも出来なくなった……。どうしてなんだろうな……」
「……」
「わかってるよ。誰が悪いわけでもないことぐらい。たださ、気持ちがグチャグチャになってるんだ……。それにせっかくコーラもらったのに台無しにした。ごめん……」
「気にするな」
普通なら物に当たるなと言いたいところだろう。けれど祐介さんはなにも言わず、ただじっと俺の呟きに耳を貸してくれていた。
しばらくすると、ようやく俺の中にも落ち着きが生まれた。さっきまで心臓がドクドクと早鐘を打って、頭の中がチリチリと痺れていたのが嘘みたいだった。
「ほれ、これでも飲め。今度は投げつけんなよ」
そう言って差し出してくれたのは、コーラじゃなくてブラックのコーヒーだった。初めて飲んだそれは、今まで飲んだコーヒーとは比べ物にならないほど苦くて、思わず吐き出してしまった。そんな様子を見て、祐介さんは嬉しそうに笑った。
「これでお前も大人の第一歩を踏んだわけだな」
「なんだよそれ。コーヒー飲めたら大人なのか?」
「なんていうか、大人になるための通過儀礼みたいなもんだ。その苦味が美味く感じるようになれば大人として一人前だな」
「じゃあ、まだまだ俺は大人にはほど遠そうだ」
「あったりまえだ。クソガキが」
祐介さんが俺の頭をクシャクシャと撫でる。俺はその手を払いのけながら言い返した。
「祐介さんにだけは言われたくねーよ。祐介さんのほうが俺よりよっぽど子供っぽい」
「言うようになったじゃねえか。……でも、お前の言うとおりかもな」
祐介さんが浮かべていた笑みを潜めた。
「俺もな、今のお前と同じような思いを感じたことがある。それも二回もだ。一回はお前の親父が死んだとき。それでもう一回は春奈が死んだ時だ。お前には話したことなかったか」
「……知ってるよ。真衣奈が言ってたからな」
真衣奈には母親がいない。それは俺が小さなころから知っていたことだ。真衣奈の母親、つまり祐介さんの奥さんは真衣奈が生まれてすぐに亡くなった。もともと体が丈夫な人ではなかったらしく、真衣奈を出産するときにも医者からどちらかを選ばないといけないと言われていたらしい。そして真衣奈が生まれ、一つの命がこの世を去った。
「俺さ、あの時すごい泣いたんだよ。どうして俺だけを残した。俺はどうやって生きていけばいいんだってな。今になって考えると、ずいぶん恥ずかしい話だけどな。だからその時、勝利にも美和ちゃんにも結構ひどいことを言った覚えがある。そん時だ。お前が俺に言ったんだ。お前は小さかったから覚えてなんかないだろうけど、俺はお前の一言で救われたんだ」
「俺はなんて言ったんだ?」
「お前か? 確か『おじちゃんどこか痛いの? 痛いの痛いの飛んでけーってしたら痛くなくなる? だから泣かないで』ってさ」
「……本当に俺が言ったのかそれ?」
「紛れもなくお前が言った。なんにせよ、驚いたよ。まさかまだ二歳の子供に俺が慰められるとは思ってなかったからな。とはいえ、二歳の子供の言葉だ。特に意味なんてなかったんだろうし、俺がどうして泣いていたかなんてわかるわけもない。けど、その一言で春奈を失った気持ちが和らいだのは事実だ。そういった意味ではお前のほうが大人かもな」
「そんなこと」
「謙遜すんなよ。これでも感謝してんだぞ」
「感謝って……じゃあ、その感謝のしるしがこれか?」
そう言ってコーヒーの缶を持ち上げてみせる。すると祐介さんは嬉しそうに笑った。
「ふっ、これで貸し借りなしだからな」
「感謝してるって割にはずいぶん安いな」
「うっせ。さっきお前が投げつけたコーラの分も入れるとちょうどだろ。文句言うな」
さっきまでの姿から一転、いつもの祐介さんに戻っていた。きっとこういうところが子供っぽいと言われる原因なんだろう。
でも……。
「ありがとう祐介さん」
「なんだ急に改まって」
「別に」
「そうか」
缶の中に残ったコーヒーを飲み干す。口の中に広がる苦味で顔をしかめた。
やっぱり俺が大人になるにはまだまだ遠いみたいだった。
ん……。
薄ぼんやりとした意識の中、ゆっくりと目を開けると白く霞む光の中に紗季の顔があった。
「やっと起きた。おはようハカセ」
「あれ……? 俺学校にいたはずじゃ……」
「寝ぼけてるの? ここは学校じゃなくて浜茶屋だよ。それにハカセは高校生じゃなくて今は大学生でしょ」
「……夢か」
思えばたった二年しか経ってないはずなのに、ずいぶん遠い出来事のように感じる。あの時初めて飲んだブラックコーヒーも、今じゃ普通に飲めるようになったんだけどな。
「ハカセ、うなされてたみたいだけど、大丈夫?」
「昔の夢見てた」
「どんな夢?」
「……お前がいなくなった日の夢」
「……そう……なんだ」
紗季の表情に陰りが映る。言った直後に失言だったと思った。
「悪い……」
「いいよ別に。あの時のことは今でも悪いと思ってるから」
「そんなつもりじゃ──」
「もう、気にしすぎだよハカセ。わたしがいいって言ってるんだからいいの! はい、この話もう終わり!」
「……そうだな。ところで今何時?」
「もう夕方だよ。砂浜にいた人たちもほとんど帰っちゃったみたい」
「もしかして待っててくれたのか?」
「ハカセを一人になんてしておけないし、それに気持ちよさそうに寝てるからついその寝顔に見とれてた」
「……」
……寝言で変なこと言ってないよな俺。
「ありがとうな紗季」
「なに? 急に改まって」
「祐介さんと同じこと言うんだなお前」
「?」
紗季がよくわからないといった顔をしていた。無理もない。夢の中の話をしたって紗季には伝わらないだろう。
にしても、さっきから気になっていたが、今の俺はどういう状態にあるのだろう? 紗季の顔が俺の頭上にあって、後頭部に柔らかい感触がある。それで俺の寝顔を見ていたってことは……。
「──!」
思わず跳ね起きた。
「な、ななななにやってんだお前!?」
「え? なにってハカセと話を──」
「じゃなくって! そ、その、俺今までなにされてたんだ!?」
キョトンとする紗季。格好は普段と変わらない姿だったが、姿勢は正座のまま。そこに俺が寝ていたってことは。
「ああ、これ? えっへへ、ひざまくら。一度やってみたかったんだよね~」
「やってみたかったって、なんでだよ!?」
「なんでって、枕があったほうが寝やすいでしょ?」
「そういうことじゃなくて……」
「それにしてもハカセの寝顔って結構可愛いよね~。なんだか子供みたいでさ、なんかハカセが弟みたいだったよ」
「……」
俺はがっくりとうなだれた。寝顔を見られただけじゃなく、あまつさえひざまくらまでされて……。
「……悪夢だ」
俺はたまらずがしがしと頭を掻いた。
「いいじゃない減るもんじゃないし。それに気持ちよかったでしょ?」
紗季がなぜか嬉しそうに笑う。果たしてそういう問題だろうか。とりあえず出てくる言葉もなかったので、ため息を吐いて誤魔化すことにした。
それからしばらく会話をしたあとで俺たちは店を出た。鍵は事前に千枝さんから預かっていたから、戸締りをして店を後にする。
「すっかり暗くなっちゃったね」
紗季がポツリと呟く。思いのほか話が弾んだせいか、店を出る頃には太陽は海の彼方へと沈もうとしていて、代わりに月が涼しげに顔をのぞかせていた。
昼に感じた暑さも、日が沈むと一気に涼しくなる。わずかに湿っぽく感じる風はこの地域特有のもので、肌にしっとりと馴染む空気が夏を感じさせた。
「あー、お腹すいたー……」
「お前、昼にあれだけ食べておいてまだなにか食う気か?」
「お昼ご飯と夜ご飯は別腹なのだよ」
「さいで」
呆れた風に言うが、俺の腹もぐぅと鳴った。
「お前、今日これからどうするんだ?」
「んー、とりあえずどこかでご飯食べて帰るぐらいかな。ハカセは?」
「俺は家に帰って食べる。それに家に帰ったらあいつが来てるだろうし」
「あいつ?」
「真衣奈だよ。あいつなにかと理由つけて俺の家に来ようとするから、今日もいると思う」
というより今日一日ちゃんと勉強してたんだろうか。それが気になった。
と、
「なんだよ」
「いや~、ハカセもスミにおけないな~ってね」
なぜか紗季がニヤニヤしていた。
「あのな、俺とあいつはお前が考えてるような関係じゃない。なんつーか、俺が一人だとろくな生活をしないからって言って、押しかけてくるだけだ。それだけだぞ?」
「でもさ、それって十分愛されてるってことじゃない? なのになにもないなんてハカセってばもしかして……」
「変な想像するな。だからあいつとはただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない」
「そんなに否定するなんてますます怪しいな~。いいから本当のこと言っちゃいなよ」
「だから俺が好きなのは真衣奈じゃなくて、お前が──」
そこまで言ってハッと気づく。
……俺はなにを言おうとした
ドクン、ドクン、と、鼓動が早くなる。
「お前が……なに?」
紗季がじっと俺の方を見つめていた。その瞳は俺の心を射抜くようにして。
言うか?
言うのか?
どうすればいい。
時が止まったように体が動かない。
動こうとすればするほど、油をさし忘れた歯車のようにギシリと音を立てた。
「ハカセ」
紗季が俺の名前を呼ぶ。
「早く行こ」
「あ、ああ……」
たったその一言で呪縛から解放されたように体が軽くなった。
そこからなにを話したかなんてほとんど覚えてない。きっと「ああ」とか「うん」とかしか言ってなかったかもしれない。
店から少し歩くと、防波堤に並ぶようにして停まっていた俺のバイクを見て紗季が目を輝かせた。
「うわ、久しぶり! まだこの子元気にしてたんだ」
「お陰様でな。親父が乗ってた頃から乗ってるから、見た目は相変わらずボロいけどまだまだ現役だ」
それを証明するようにエストレヤのエンジンをかけると、バラララと小気味の良い音が木霊した、
「この音も懐かしいな。あの頃と変わらないね」
目を閉じた紗季がエストレヤの音に昔を懐かしんでいた。
「久しぶりに乗ってみるか?」
と言って気づく。そういやメット持ってきてなかった。
すると紗季が、
「あ、ちょっと待ってて」
店の方へと駆けていくと、中から安全第一と書かれた黄色いヘルメットを持ってきた。
「じゃーん! これでどうかな?」
「……どこから持ってきたんだよそれ」
げんなりしながら答えてやるが、紗季は対して気にした風もなくエストレヤのシートにまたがった。
紗季を後ろに乗せて、アクセルをひねる。軽快な音を奏でながらバイクが走り出した。
二人で風を切りながら赤く染まった海岸線を駆け抜けていく。時々、思い出したように紗季がコツンとヘルメットをぶつけてきた。俺もそれに応えるようにコツンとぶつけた。
「懐かしいね。この感じ」
「こんな風に走るのも二年ぶりだからな」
「ほほう。それじゃあ、わたしのいないその二年の間にこのシートに何人の女の子を乗せたのかな?」
「お前はどこのおっさんだ。生憎、お前以外なら真衣奈しか乗せたことねーよ」
「とか言って本当はどうなの?」
「そんなに気になるんだったら真衣奈にでも聞いてみたらどうだ? むしろお前と同じこと言うだろうよ」
そう言うと「そっか」と返す紗季がなぜか少しだけ寂しそうに見えた。
「風が気持ちいいね」
ギュッと体に掴まる紗季が呟く。俺は常套句のように「夏だからな」と返した。
しばらく無言のまま走っていると、妙に気まずくなる。いつもだったら紗季がくだらないことを喋ってくれているおかげで、沈黙など気にならないはずだが、後ろにいる紗季が、風に髪をなびかせながら景色を眺めているせいで今は静かだ。
紗季は今なにを思っているのだろう。ふと、そんなことを思ってしまった。
すると紗季が「ねぇ、ハカセ」と俺のことを呼んだ。
「なんだ?」
「ハカセってさ、今好きな人とかいる?」
「な、なんだきゅくっ!?」
思ってもみなかった質問に出た声は上ずっていた。
「あっはは! ハカセ変な声!」
「わらっ……! 笑うな!」
後ろのシートで紗季が人目をはばかることなくゲラゲラと笑った。その笑い声に道端を歩いていた人がなにごとかと見ていて、とっさに速度を上げてしまった。
ひとしきり笑ったあとで満足したのか、紗季がひいひいと泣いていた。
「あー、面白かった。どうしよ、まだ涙止まんない」
「そりゃよかったな。そのまま一生泣いてろ」
「怒らないでよ。悪かったってば」
紗季が「ごめん」の言葉と一緒にヘルメットをぶつけてきた。そんなことをされてしまったらこれ以上怒る気にもなれない。
「で、どうなの?」
「なにが?」
「さっきの質問の答え」
ふりだしに戻ってきた。すっかり忘れてると思って安心してたのに。
「……さぁな」
「えー、面白くない。教えてくれたっていいじゃない」
「男の恋愛話なんて聞いたって面白くないだろ」
「頭固いなぁ。ほら、友達同士だったら恋バナなんて当たり前じゃない?」
「頭固くて悪かったな。つーか、そういうのは女同士でやれよ」
「それはそうだけど。せっかくだし教えてよ」
「せっかくってなにがだよ。嫌なものは嫌だ。だから断る」
「そう言われるとなおさら聞きたくなる性格だって知ってるでしょ? ほらほら喋ちゃいなよ~」
紗季がしがみついたまま耳元で囁いてくる。なので俺も対抗して頑として口を割らないことにした。
「ねーねー、教えてよー。ハカセー」
「嫌だ!」
「なんでよ。別に減るもんじゃないでしょ?」
「そういう問題じゃないだろ。それよりなんでそんなに俺の恋バナなんて聞きたいんだ?」
「んー、面白そうだから?」
「……だったらなおさら言わない」
「あ、じゃあわたしがハカセの好きな人当てるってのはどう? それだったらいいでしょ?」
「どこをどうしたらそんな考えになるんだよ……」
人の話をまったく聞こうとしない紗季。もしバイクを運転していなかったら今頃思い切り頭をかいているところだ。
「それじゃあやっぱりハカセの口から聞くしかないじゃない。あ、もしかしてだけど、好きな人じゃなくて付き合ってる人がいるとか?」
「……俺に彼女がいるように見えるか?」
「いないよね。絶対」
「……」
自分で言っておきながらこれほどまで惨めなこともないだろう。というより絶対って……。
「ということは、やっぱり真衣奈ちゃんかな? それとも意外なところで千枝さん?」
「どうしてその二人だけしか出てこないんだよ。他にもいるだろ」
「じゃあ──もしかしてわたし……とか?」
「……」
心臓を鷲づかみにされた気分だった。
紗季が後ろに座っているから今どんな顔をしているのかなんてわからない。もしかしたら……なんて思うが、きっとそれは俺も同じことだろう。
「もしかして……正解?」
紗季が言う。
俺の答えは決まっていた。
「違う」
と。
俺がそう言うと紗季は「そっか」と納得したようだった。
それからしばらく俺たちは一言も喋らなかった。
風切り音とエンジン音が重なる。それ以外の音はなにもない。
その間ずっと考えていた。どうして俺は「違う」と答えたのかと。
もし、紗季が好きかと聞かれればそれは間違いではないと思う。かと言って紗季の言うとおり、真衣奈のことが好きかと聞かれればそれも間違いじゃない。
どちらも間違いじゃない。だけどそのどちらも正解じゃない。
俺には好きという感情がわからない。
実際、紗季に大して好きだという感情はある。ただ、その感情は友人としての感情であって、恋愛のそれかと聞かれると素直に認めることが出来ない。もちろん真衣奈に対しても同様だ。
好きだとは思う。決して嫌いではない。なのに俺にはその感情がわからない。
はたしてこれが友人としての好意なのか、恋愛としての好意なのか。その答えを出せずにいた。
俺がなにも言わずにいると紗季が口を開いた。
「ハカセはさ、自分じゃどうしようもないくらいに人を好きになったことってある?」
「なんの話だよ」
「いいから教えてよ」
「……どうだろうな……多分ないと思う」
「そなんだ。ちょっと意外」
「意外ってなんだよ。それよりそんなこと聞いてどうするんだ?」
「ただの確認。あ、そうだ。ちょっとそこで停めてくれない?」
バス停が見えた。俺は紗季の言うとおりバイクを停めた。
紗季がバイクから降りると、適当に座れそうなところを見つけて「こっちに来なよ」と手招いていた。
並んで座ると、
「ちょっと昔話しよっか」
そう言って紗季が一人語りのように話し始めた。
「昔ね、わたしにも好きな人っていうのがいたんだ。その人はさ、いつもなに考えてるのかわからないんだけど、時々子供みたいな顔で笑うんだ。特に自分の好きなことになるとほんっと子供みたいでさ、でもその顔がすごく好きだって思う。いつまで見ていたいって思わせてくれる。そんな人」
「……意外だな。お前がそんな風に思うやつがいたなんて」
「これでも年頃の女の子だからね。それぐらいいるよ」
紗季が遠い目をして答える。その瞳の浮かぶのは誰の顔なんだろう……そう思うとなぜか焦りと苛立ちが体中を駆け巡っていった。
「それでね、その人はいつもわたしの知らない世界へ連れてってくれた。狭い世界しか知らなかったわたしにいろんなものを見せてくれた。バイクで風を切って走ることの楽しさとか、夜空に浮かぶ星座のこととか。わたしが遠くに行ってからもずっとその人のことだけ思ってた。彼は今どうしてるんだろうとか、彼も今同じ空を見てるのかなって」
紗季の声が震える。
目を覆いたくなるほど眩しい光が見えた。
バスのヘッドライトだ。
紗季の言葉は続く。
「夜空を見るたびに、あの時二人で見た星空を思い出してた。でも、同じ空の下にいるのにどうしてこんなに遠いんだろうって思ってた。ずっと……ずっと……でも、もうそれも終わり」
紗季が立ち上がる。俺も引きずられるようにして立ち上がった。
「終わりって……どういう……」
「……まだ気づかないかな。そういう鈍いところも昔から変わってないんだから」
紗季が優しげに微笑む。と、同時に俺の唇にやわらかいものが触れた。
キス──された。
「紗……季……?」
バスが俺たちの前に停まった。
俺があっけに取られていると紗季が言う。
「やっと気づいた? わたしはハカセが好き。あの頃からずっと。もちろん今も」
乗車口の扉が開く。紗季がバスに乗り込む。
「今日はありがとう。ハカセのおかげで助かったよ。それじゃ」
「紗季!」
だが、俺の言葉は無常にも閉ざされた扉に断ち切られた。
窓ガラスの向こうで静かに手を振る紗季の口元が動いていた。
「またねハカセ」
と。
けたたましいエンジン音を響かせながらバスが走り去っていく。暗闇に消えていくバスのテールランプが揺らめいて、そして見えなくなった。
残された俺は唇に残ったわずかな感触と、安全第一と書かれたヘルメットを抱えて呆然としていた。
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