第7話 告白 その2
お昼を過ぎるとさっきまで人で賑わっていた店内もすっかり静かになった。
「やっと終わった……」
俺が全身の力を抜いて呆けていると、この店の店主、千枝さんがまだボトルに水滴が浮かぶサイダーを差し入れてくれた。
「お疲れ翔吾。相変わらずいい働きだったよ」
「うーっす。千枝さんこそお疲れ様」
「お互いにね」
創作お好み焼きいろはは、店主の千枝さんと普段ならバイトの子が何人かで切り盛りしている店なのだが、今日に限ってバイトが来られないということで急遽、紗季と俺にその白羽の矢が立ったというわけだ。ついでに言うと千枝さんは紗季の従姉妹にあたり、俺はいろはの常連客でもあった。ちなみに普段はちゃんとした店舗で営業しているこの店も、夏の間だけ海の家で出張営業している。そういや高校生の頃も、タダでお好み焼きが食べ放題という文句に釣られてよく駆り出されていたっけ。そんな風に思い出に浸りながらサイダーの栓を開けると、中から炭酸が溢れ出し、数え切れないほどの気泡がボトルの中を踊っていた。サイダーで渇いた喉を潤すと、喉の奥で気泡が弾けて甘さとチリチリとした感触が疲れた体を癒してくれた。
「労働のあとの一杯は格別だな」
思わずそんなことが口を吐いて出た。すると千枝さんは「なにおっさんみたいなこと言ってんのさ」と笑っていた。
「そういやあんた今いくつになったんだい?」
「二十歳」
「へぇー、二十歳か。ついこの間まで青臭い高校生だったのにねぇ。時が経つのは早いわ。ということはあたしもそれだけ年食ったってことかね。その若さが羨ましいよ」
「年食ったってまだ二十代だろ」
「なに言ってんのさ。まだ二十代ってだけであと二年もしたら三十だよ? これ以上歳は取りたくないねー」
そうは言うが、はっきり言って千枝さんは見た目だけ見るなら俺たちとそんなに変わらない。それが謙遜なのか自信の表れなのかはわからないが、本人としてはさしてそのことを気にしていない風でもあった。
「千枝さん、それ」
「ん? ああ、これ? うん……なんだか外せなくってね」
千枝さんが俺の視線に気づいて左手の薬指にはめている指輪をそっと握り締めた。
千枝さんにはかつて誰よりも好きだった最愛の人がいた。千枝さんがその人と出会ったのは高校生ぐらいの頃で、高校卒業後にその人との子を身ごもった。それを知ったそれぞれの両親に反対されたが、千枝さんはその人とその子を守るために家を飛び出し、二人は一緒になったということらしい。それから何年かしてその人と二人で今の店を始めたのだが、その直後、二人に不幸な事故が起こった。
最愛の人の死。後に残されたのは二人の夢だった店と、授かったばかりの一人娘。その頃のことを千枝さんは詳しく話してくれなかったが、きっと俺には想像出来ないほどの苦労があったのだろうと感じることは出来た。
「もうあれから八年も経つのにね。未だにこれしてるなんて未練たらしいでしょ?」
「そんなこと……」
「ふふ、ありがと。そう言ってくれるのはあんただけだよ。でもね、やっぱり未練がないって言ったら嘘になるかな。それにあたしがこの指輪を外せないのって他にも理由があるんだよ。もしさ、あたしがこれを外してしまったら、あたしがあの人のことを忘れてしまいそうで怖いんだ。まぁ、これを外したから必ず忘れるってことにはならないと思う。ただ、この指輪があの人と過ごした証みたいなもので、それを手放してしまったらあの人との思い出を失ってしまいそうな気がしてね。これが未練って思うかどうかは別だけどさ。それにあたしには大事な娘がいるんだし、いつまでも後ろを向いてるわけにはいかないのさ」
そう言って千枝さんが珍しく困ったように笑ってみせた。その姿に俺はそれ以上なんにも言えなかった。
誰かを忘れるということは、その人の存在を消してしまうということ。それは肉体の死とは違う、存在そのものの死だ。千枝さんが怖がってるのはきっとそういうことだろう。だからこそ、千枝さんという人間を知っている俺にとってその姿が痛ましく、それだけ思われている旦那さんがちょっと羨ましく思えた。
「さーて、この話はこれくらいにして、あたしはこのあとちょっと外に出るから遊びに行きたかったらどこにでも行ってきていいよ。それに──」
千枝さんが近寄ってきて耳元に囁く。
「せっかくの機会なんだ。紗季ちゃんとしっかりやんなよ」
「ちょ、んなわけ──」
「あ、紗季ちゃんだ」
「え!?」
俺が慌てて振り返るとようやく片付けが終わったのか紗季が満身創痍といった風を装ってやってきた。
「あー、疲れたー……」
「お疲れ紗季ちゃん。あんたもいい働きっぷりだったよ」
「もー、千枝さん人使い荒すぎだよ……すっごい疲れたー!」
「はいはい、ありがとさん。それじゃあ、あとは頼んだよ翔吾」
それだけを言い残すと千枝さんは俺たちを残して行ってしまった。くそ……変な気を回しやがって……。
「ん? どうしたのハカセ?」
「……なんでもない」
「変なの。ま、いいや。んー! ふぅ……」
よっぽど疲れてるのか、紗季は日向ぼっこに興じる猫のように畳の上にゴロンと横になった。
「おい、行儀が悪いぞ」
「今は誰もいないんだしいいじゃない」
「俺がいるんだけど」
「ハカセはハカセでしょ。だからいいの。うーん、風が気持ちいい。ハカセも横になったら?」
「小学生じゃないんだ。やるわけないだろ」
「でも気持ちいいよ? ほら、こことかひんやりしてちょうどいい」
人の話を聞いていないのか紗季が大きく伸びをすると、Tシャツからわずかにのぞいたへそが見えて慌てて目をそらした。
水平線の向こう側には大きく伸びた入道雲と小さく見える船。波の上ではジェットスキーが縦横無尽に走っていた。こうしているとやっぱり今は夏なんだと実感させられる。
「平和だねぇ……」
「お前はお婆ちゃんか」
「まだ二十代だよー。でも今はお婆ちゃんでもいいかも……」
「どっちだよ」
「さてどっちでしょう?」
「その答えに意味なんてあるのか? それにお前がお婆ちゃんだったら同い年の俺はお爺ちゃんってことになるぞ。生憎とそこまで一緒にいてやる義理はないからな」
紗季の冗談にそう言ったものの、ふと、俺が紗季とずっと一緒にいる姿を想像してしまってなんだか気恥ずかしくなった。
「ま、そんなことにはならないか」
俺が冗談と気恥ずかしさを混ぜながら軽く鼻で笑うと紗季が言った。
「本当にこのまま一緒にいられたらいいのにね」
と。
「え?」
俺は思わず聞き返していた。
振り返った先には真剣な眼差しを向けてくる紗季の目があった。ドクンと俺の中で知らず鼓動が高鳴る。
いやまて、紗季は昔っからこういったまるで冗談に聞こえない冗談を言うことが度々あった。だとしたら今回のこれもきっと冗談だろう。
俺がその手は食わないとばかりにあしらおうとすると、紗季がもう一言、
「本当にずっとハカセと一緒にいられたらいいのにね」
真剣な目から今度は柔和な笑みを向けてきた。
……さすがにこのパターンは予想してなかった。
いつもならここで俺がなにか言おうとして「冗談だって。なに本気にしてるの?」と一笑されるところだが、今回は違った。出来るだけ相手の真意を探ろうとしてみるが、紗季の目は笑ったままだ。これじゃあ冗談か本気かなんてさっぱりわからない。
もしこれが冗談なら、紗季の演技もずいぶんと上達したものだと関心したくなる。下手をすればアカデミー賞だって狙えるかも知れない。けれどこれが本気だったなら……?
俺はきっとこれは冗談だと思いながらも、どうしてかその可能性をぬぐい去ることが出来なかった。
「あ、あのさ、紗季」
言うのか? もう一人の俺が語りかけてくる。紗季は「なに?」と表情を変えることなく笑っていた。
言うべきか、言わないでおくべきか。ここに来てまで俺はまだ迷っていた。もしここで俺の想いを伝えてしまったらと思うと、その先が怖かった。仮に受け入れられても、受け入れられなくても、この緩やかな時間は戻ってこなくなる。それがどうしても怖かった。だから俺は、
「な、なにか飲むか?」
さすがに自分でもこれはないと言った直後に思った。ああ、わかってる。いくらこの耐えられない状況から抜け出すためだとはいえ、それでもこれはない。その証拠に、紗季もまさかこんなことを言われると思っていなかったらしく、それまで浮かべていた柔和な笑みをキョトンとした表情へと変えていた。
「へ? なにそれ?」
「ほら、今日は暑いだろ? それにお前だってさっきまで働いていて疲れてるだろうし、俺だけ冷たいもの飲んでるのも悪いし、なにか奢るぞ。そうだ、せっかくだし、冷えたビールなんかもいいかもな。どうせなら焼きそばだったお好み焼きだって作ってやるぞ! な?」
口を開けば開くほどに自分でもバカバカしいと思う言葉が次々と飛び出してくる。こんな俺を腑抜けだと笑ってくれてもいい。根性なしだと思われてもいい。それでも、今の俺にはそれ以上踏み込むことが、なによりも恐ろしかった。
言葉の弾幕で身を固めていたのもしばらく、手当たり次第に意味のないことを並べ立てた末、とうとう言うことがなくなり、最後の方に至っては「あの……その……」だの、まるでいたずらが見つかってしまった子供の言い訳のようになっていた。するとそれを見かねたらしい紗季が一言、
「冗談だよ冗談。本当にハカセってからかいがいがあるよね」
「なんだよ。やっぱり俺をからかっていたのか?」
「当たり前じゃない。あれ? もしかしてハカセってば本気にしてた?」
「んなわけあるか。仮に本気だったとしても、俺はお前とずっと一緒なんてごめんだ」
「それはこっちのセリフだよ。もし一緒になるんだったらやっぱり優しい人が一番だよ。それにひきかえ、ハカセはちっとも優しくないし」
「なに言ってんだ。高校生だったころよくジュースおごってやったろ?」
「たかだかジュースごときで優しさアピールなんてされたくないねー。それにわたし缶ジュース一本で買えるほど安くないよ?」
「どこが缶ジュース一本だよ。お前、俺がなにかおごってやるって言ったら平気な顔してペットボトルのボタン押してたくせに」
「あれ、そうだっけ? 昔のことだからよく覚えてないなー」
「……都合の悪いことになるとすぐに忘れる癖も変わってないなお前」
「ふふん、つまらない過去は振り返らない主義なのだよ。で、今度はいったいなにをおごってくれるのかな」
「なんの話だ?」
「ほら、今言ってたじゃない。なんでもおごってくれるって」
忘れていた。そういやごまかすのに必死で、こうやって気づけばとんでもないことを口走っていた気がする。
「さーて、なに食べよっかなー。まずは手始めに焼きそばとお好み焼きと……」
「ちょ、ちょっと待て! あれはその──」
「あれあれ~? さっきおごってくれるって言ったのは嘘だったのかな?」
紗季がことさら嬉しそうにニヤけていた。
くっ……こうなってしまっては完全に相手のペースだ。俺は肩をすくめると適当に冷蔵庫からいくつかの食材を取り出した。
「で、なにがいいんだ」
「そうだね~、それじゃあ手始めにこれもらおうかな」
そう言って紗季が手にとったのは、さっきまで俺が飲んでいたサイダーだった。
「おい、ちょっと待て! それ俺の……」
俺が止めようとしたがそれより先に紗季がなにごともないようにその中身を飲み干してしまった。
「ぷはー、やっぱりこう暑いとサイダーが美味しいね。ん、どうかした?」
呆気に取られている俺とは対照的に紗季は涼しい顔。果たしてわかってやってるのか、それとも本当に気づいていないのか。そのどちらかはわからない。なので、仕方なく冷蔵庫からもう一本サイダーを取り出すと、その栓を引き抜いた。
「ハカセー、わたしお腹空いたー。ご飯まだー」
「待ってろ。今作ってやるから」
客席から紗季の間延びした声が飛んでくる。こっちの気も知らないでいい気なものだ。
熱気のせいか額から汗が流れ落ちてくる。もしかしたら冷や汗かもしれない。
紗季のリクエストどおり、焼きそばとお好み焼きを作ってやると、紗季は嬉しそうにそれをほおばっていた。
「千枝さんほどうまく出来たかわからないけど、味の方はどうだ?」
「うん、すっごく美味しい! 千枝さんのとはまた違った感じだけど、これはこれでアリかな。ハカセってば意外と料理とか出来るじゃん」
「当たり前だろ。これでも一人暮らしやってんだ。料理ぐらい出来なくてどうやって生活すんだよ」
とそっけなく答えて胸ポケットに入れていたタバコを一本取り出す。何気ないように振舞っていたが、内心ではかなり緊張していた。実際、料理が出来ないわけじゃない。ただ単に自分自身のために作るのが面倒だったり、真衣奈が作りに来てくれてるからそれほど作らないだけだ。それがどうだ、千枝さんほどかはわからないが、美味しいと言ってもらえたことにわずかではない自信を感じていた。
それから紗季はパクパクと美味しそうに俺の作った料理を食べてくれた。あまり誰かに料理を振舞うことなんてしたことがなかったが、なるほど少しだけ真衣奈の気持ちがわかる気がする。
それからあっという間に用意された料理を平らげると、紗季は満足した顔で再び寝転がっていた。
「うーん、満足満足。ごちそうさまハカセ」
「おい、食べてからすぐに寝ると牛になるぞ」
「そんなの迷信だよ迷信。それにわたしってばいくら食べても太らない体質なんだよね」
ケラケラ笑いながら手を振る紗季に、軽く呆れながら使った食器を手際よく片付けていく。さっきからいいように扱われている気がしてならない。そんな思いにかられながらも、手だけは勝手に動いてくれる。これも習慣というやつだろうか。
「よし、これで終わりっと」
最後の一枚を片付け終えると、なんだかどっと疲れがこみ上げてきた。そういや、今日一日中働きっぱなしだな。その中に身を置いている時は長く感じるものも、振り返ってみれば一瞬だ。にしても今日は疲れた。早く家に帰って横になりたい。
そういや、さっきから静かだな。そう思って紗季の方へと目を向けると、さっきまで起きていたはずの紗季が気持ちよさそうに寝息をたてていた。
「ほんっと自由な奴だな」
ここまでくると呆れを通り越して笑いたくなってしまう。
「おい、紗季。こんなところで寝ると風邪引くぞ」
揺さぶって起こそうとするが、紗季は「ん……んぅ……」と、嫌がるだけで全く起きる気配がない。
さて、どうしたものか。このまま放っておくわけにもいかず、仕方なく紗季の側に腰を下ろす。するとテーブルの上にあったものに気がついた。
「これは……」
それは紗季が俺から奪ったサイダーの空ボトルだった。
片付けるの忘れてたな。そう思いそっと手に取ると、ふと脳裏に浮かんだのは紗季が俺の静止を聞かずにサイダーを飲み干す姿だった。このサイダーはもともと俺が飲んでいたもので、それを紗季が勝手に飲んだということは……。
「な、なに考えてんだ!」
俺はたまらず持っていたボトルをテーブルの上に戻すと、なにも見ていないフリをした。
……ったく、高校生か俺は。
そういや、昔もよくこんなことがあったっけ。
紗季が俺の飲みかけを勝手に飲んで、俺が怒ると「いいじゃん」の一言で片付ける。それが当たり前な日常だった。
「変わってないんだな本当」
ふっとため息に似た笑みが漏れた。
俺と紗季の間には二年という空白がある。その間に紗季がどこでどんな生活を送っていたかなんて知らない。きっとそれを本人に問いただしても、はぐらかされるか、だんまりを決め込むかのどっちかだろう。それは俺の知らない紗季だ。なのに今ここにいる紗季は俺がよく知っている紗季で、あの頃と何ら変わらない等身大のままだった。
「紗季は変わってないんだな」
じゃあ俺はどうだろうか。
『ハカセはやっぱり変わってないね』
紗季の言葉が蘇る。
きっと俺も変わってない。あの頃のままだ。
いや違う。あの頃から変わってないんじゃない。
俺はまだあの時から動けないままなんだ。
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