第6話 告白 その1
「あっついな……」
天文台から出るなり出た言葉がそれだった。もはや定例句と化しているこの言葉も何回呟いたことだろうか。もちろん回数なんて数える気なんてない。
七月も半ばを過ぎたせいか夜でも汗が滲んできそうな空気が漂っていた。駐車場にポツンと立っている時計は夜の十時をとうに超えていた。しかしそれでもまだ帰ることは出来ない。なぜならここしばらく普段なら静かな天文台も大勢の人で賑わっていたからだ。
それにしても、プラネタリウムも最後の上映を終えたというのに駐車場にはまだたくさんの人がいた。きっとさっきまで見ていたプラネタリウムと、頭上に浮かぶ星を見比べているのだろう。
俺も彼らに倣って頭上に浮かぶ星を眺めてみる。周囲に余計な光がない分、街中で見るよりはっきりと星が見えた。
まだしばらく帰れそうになさそうだな。
するとポケットの中に入れたままにしていた携帯が震えた。開いた携帯には何通ものメールが届いていて、そのほとんどが真衣奈からのものだった。仕事中だったからメールの文面は見ていなかったが、その中身はいつになったら帰ってくるの? とか、なんで返事を返してこないの? とか、そんなところだろう。人の心配をしてくれるのはありがたい話だが、それ以前に受験生であること自分自身のことを心配すべきだと思う。
とりあえず届いたメールを開いてみると、やっぱり真衣奈からだった。
差出人:真衣奈
件名:先に帰ります
本文:夜遅くなったので今日は帰ります。ご飯は冷蔵庫に入れてあるから温めて食べてね。
P.S バイトばかりもいいけどたまには勉強も見てよね。
短い内容だったが、果たしてその中にどれだけの感情を込めているのやら。とりあえず、『わかった。今日も遅くなるから帰ってから食べる』とだけ返信をしてポケットに携帯を戻した。そして別のポケットからタバコを取り出すとようやく一息ついた。
どこからか『うわぁ』と歓声が上がった。どうやら流れ星が見えたらしい。それを聞いて星に願いをなんて歌があったのを思い出した。もし、今の俺が星に願い告げるとしたら早く家に帰れますようにと祈るのか、もしくは晩御飯はカレーがいいと願うだろう。
夏特有の湿っぽい空気の中に、名前もわからない羽虫が飛び交っていた。それを適当にあしらいながらタバコの煙を吐き出す。すると流れ星がまた一つ瞬いて消えた。あっ、と思うのも束の間の出来事だった。
流れ星……か。
そういや、あいつと二人でスキー場に星を見に行ったときもそんな話をしていたっけ。
『またこうやってハカセと星を見にこれますように』
紗季の願い。
あの時は迷信だと笑っていた。けれどあいつがいなくなってからというもの、俺はずっとそれを願おうと心に決めていた。なのにいつ見上げても星空に流れる星は俺の前に姿を現してくれなかった。
だというのに……。
「なんで今なんだろうな……」
タバコの煙を吐き出しながらなんとなく呟いてみる。もちろん誰かから答えが返ってくるわけでもない。
俺がタバコを吸い終える頃には、駐車場にいた人たちもまばらになっていた。
館内へ戻ろうとしたとき、再びポケットの中に入れてあった携帯が震えた。
メールだ。
なにげなく開いてみると、差出人は紗季だった。
差出人:紗季
件名:見た!?
本文:ねぇねぇ今の見た!? 流れ星! シューって流れていったよ! すごいよね! なんとなく部屋の外眺めてたらキラって光ってたんだよ! あー、願い事お願いするの忘れてた! くやしー!
……メールの内容で紗季がどんな顔をしているのかありありと想像できた。
「メールだってのに騒がしいやつだな。えーと、知ってる俺も今見てた……っと」
手短に文章を打って送信ボタンを押す。画面には送信しましたの文字が表示された。
もう一度携帯を閉じてポケットに放り込む。
たかだか流れ星一つで大騒ぎするなんて。あいつらしいといえばあいつらしい。
呆れたため息をついていたはずなのに、どうしてだか口元が微かに緩んでいた。
「それじゃあ、もう少しだけ頑張りますか」
誰に言い聞かせるでもなくそう言うと、俺は再び冷房の効きすぎた館内へと戻っていった。
それからしばらくして夏も本格的になると気温も三十度を越える日が当たり前になってきた。ついこの間まで暖かくなってきたことに喜びを感じていたはずなのに、今では早く過ぎ去って欲しいと願っていたはずの冬を懐かしく感じる。
それよりも……だ。
「なんでこんなことになったんだ……」
俺は目の前にうずたかく積まれたキャベツを前にしてそんなことを呟いていた。
まな板の上には千切りにされたキャベツ、そして傍らにはまだ千切りにされる前のキャベツがこれでもかと陣取っていた。
なんの変哲もない夏の日、たいていこういう日は一日クーラーの効いた部屋で一日中ゆっくりしているのがいつものことなのだが、どういうわけか俺は、空からこれでもかというぐらいに地上を照らし続ける太陽の下、ダラダラと額から汗を流しながらキャベツの千切りに勤しんでいた。
というのも、俺がこんな目に遭ってる原因は全てあいつのせいだ。ちなみに、俺のいうあいつとはもちろん紗季のことだ。その紗季も今は頭に三角巾をつけて、創作お好み焼きいろはと書かれたエプロンを着こなし、忙しそうに店内を駆け回っていた。
あいつ元気だよな……。
そんなことを思いながら紗季の方を見ていると、「コラ、翔吾。仕事しろ!」と怒られた。いかん、いかん、知らない間に手が止まっていたみたいだ。思い直すと再び包丁を握り締めキャベツの千切りにとりかかる。
にしても……だ。
「俺はなんでこんなことしてるんだろうな……」
と、目の前のキャベツに一言愚痴ってみる。もちろんキャベツが答えてくれるわけもない。
この日は朝から大変な一日だった。
大体この時期になると世間は二つの人種に別れる。一つは日本人の美徳らしく、いついかなる状況であっても勤勉に打ち込むやつか、はたまた全てを投げ出して惰性に生きるやつか、だ。
世の中のその割合は多く見積もって七対三の割合だろう。普通に見積もっても約六割は日本人らしく勤勉に働いているといえる。だが、俺の目の前ではその六割に入ることが出来なかった、いや、入ろうとしなかった人間が、目をそらし続けていた決して逃れられない運命に「あー、うー」となにやら呪文のようなうめき声を漏らしながら悶え苦しんでいた。
「もー、疲れたー! 休みたーい!」
「ほら、あと少しだから頑張れ」
「うぅぅ……」
俺が何度目になるかわからない、もはや定例句と化した言葉をかけてやると、真衣奈は今にも泣きそうになりながら唇を尖らせた。
夏休みの宿題。これこそが真衣奈が逃れられない運命、または宿命というやつだろう。
毎年夏になるとこうやって真衣奈の勉強を見てやっていた。臨時の家庭教師なんて言えば聞こえはいいが、実のところ、目を離すとすぐに逃げ出そうとする真衣奈を見かねた祐介さんが、俺に見張りを依頼してくるというのが本当のところだ。真衣奈は俺が放っておいてもいつもテストで上位五位以内に入るぐらいの実力はある。だからといって、宿題をやらなくてもいいという理由にはならない。そんなこんなで俺が逃げ出そうとする真衣奈を捕まえて、強制的に勉強させるという図式が出来上がるわけだ。これも毎年のことで、夏が来るたびに真衣奈のうめき声を聞くと、ああ、夏なんだなと感じてしまう俺にとってはこれが夏の風物詩なのだろう。
真衣奈が言うことを聞かない子供のように足をバタバタさせて抗議していた。その度に部屋がギシギシと奇怪な音をたてて、部屋の底が抜け落ちるんじゃないかと心配になった。さすが今にも壊れ荘なんてあだ名されるだけある。
「ダメだ。まだ今日のノルマは達成してないんだ。それが終わるまで休みはなしだ」
「……先輩ってさ、なに気に鬼だよね」
「なに言ってんだ。お前が目を離すと勉強しないからだろ。それに今年は受験生なんだ。この夏を逃すとあとで泣きを見るのはお前だぞ?」
「そんなこと言ったって、わたし学校の勉強だけでも問題ないから大丈夫だよ。だからさ今日は止めにしない?」
「お前……なに気に全国の受験生全員敵に回したぞ」
もし俺が受験生の立場だったら軽く殺意を覚えるレベルだ。
「あ、そうだ。今日駅前のカフェでスイーツフェアやってるんだって! ほら、頭を使うと糖分が必要だってテレビで言ってたよ。だーかーらー」
「戯言ならあとでたくさん聞いてやるから今は勉強に集中しろ」
「うぅぅ……先輩のバカ……」
真衣奈が恨みがましい目でこちらを見てくるが、俺としても臨時とはいえ家庭教師を任されている以上、甘やかすわけにはいかない。真衣奈も真衣奈でこれ以上の反論は無意味と悟ったのか、渋々ながらも机の上に広げられた参考書に向かって、ありえない速度で問題を解いていた。
……相変わらず無茶苦茶な奴だ。
と、その非凡な才能を羨んでいると、机の上に置いてあった携帯が鳴った。電話の相手は紗季だった。
出るべきか、出ざるべきか。大体、紗季からかかってくる電話なんてろくな内容だった試しがない。それを知っているせいか、通話ボタンを押すのに抵抗があった。
「電話鳴ってるよ。出ないの?」
真衣奈が鳴り続けてる電話に出ようとしない俺に向かってそう促した。
放っておいても仕方ないか……。
「もしもし?」
「あ、やっと出た! ハカセ今時間ある!?」
電話の向こう側から聞こえて来た紗季の声はどこか騒々しく、なにか慌てているみたいだった。ますます嫌な予感しかしない……。
「いや、悪いが今日はちょっと用事が……」
「それじゃあよかった! 今からいろはに来て欲しいんだけど大丈夫だよね?」
「俺の話聞いてたか? 俺は用事が……」
「ちょっと待って。え? うん、ハカセ大丈夫だって。うん、二十分以内に来い? じゃあそう伝える。それじゃあ今すぐ来て! あと、千枝さんが少しでも遅れたらお好み焼きの具にしてやるからってさ! じゃあ待ってるから!」
そう言って一方的に時間と場所だけ伝えられると電話は切れてしまった。
一人うなだれてると、真衣奈が面白いものを見つけたような目でこちらを見ていた。
「紗季さんなんていってた?」
「……人手が足りないから今からいろはに来いってさ。ったく、人の話も聞かないで勝手に決めやがって」
「とか言って、行こうとするところが先輩らしいよね。先輩って結婚したらきっと尻に敷かれるタイプだね」
身支度を整えていると背後からそんな声が聞こえた。ずいぶん余計なお世話だ。
「というわけで悪いけど、今日はここまでだ。俺が見てないからって宿題サボるなよ」
「わかってるってば。先輩も頑張ってね」
そう真衣奈の言葉を背に受けて家を出たのが午前のことだった。
そして今、
「翔吾! 次これお願い!」
「ハカセ! 五番テーブルにお冷お願い!」
「翔吾! キャベツまだ!?」
「ハカセ! 洗い物溜まってるよ!」
と、まぁこんな調子だ。
「うおー、超忙しい! でも楽しい!!」
紗季が超えてはいけない一線を超えてしまったようで、テンションがクライマックスに突入していた。
どこからそんな元気が出るのやら……。
どうやらこの中が暑く感じるのは真夏の日差しのせいだけじゃないみたいだ。
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