第5話 再会 その3

「紗季さんって、あの紗季さん?」


 真衣奈が珍しく素っ頓狂な声を出していた。


「ああ、あの紗季だ。正直あんな場所で会うなんて思ってなかったから驚いた」


 俺は真衣奈の作ったカレー(最初は肉じゃがの予定だったらしい)をほおばりながら頷いた。


 あれから二日後、いつもどおり俺の家にやってきて晩御飯を作ってくれていた真衣奈に、この間のことを話すと案の定驚いていた。


「そっかぁ。紗季さんこっちの大学に通ってたんだ」

「ん? お前も知らなかったのか?」

「うん。初めて聞いた」


 俺は意外だという気持ちだった。


 実は紗季と真衣奈は仲がいい。それこそ紗季が転校する前までは、二人だけでよく遊びに行ったり、お互いの家に泊まったりしていたぐらい仲が良かった。なのに、その真衣奈ですら紗季が転校することを知らされておらず、またこの町に帰ってきていることさえ知らなかった。


「てっきり、お前なら知ってるもんだと思ってた」

「紗季さん転校しちゃってから急に連絡取れなくなっちゃったから、それ以来連絡してないよ。なにかあったのかなって思ってたけど、元気そうで良かった」


 真衣奈が昔を懐かしむように微笑んだ。


「で、紗季さんどうだった?」

「どうってなにが」

「美人になってたかどうかって話だよ。きっと紗季さんのことだから、すっごい美人になってるだろうけどね」

「あんまり変わってなかったぞ」

「えー、本当かなぁ?」


 真衣奈がニヤつきながら俺のほうを見ていた。こいつとは長い付き合いだから、隠し事をしたところで大体のことはすぐにバレてしまう。真衣奈もそれをわかっていてからかっているだけなんだろうが。


「ま、あの紗季さんだしね。あんまり変わってなくても驚かないかもだけど」


 しばらくすると俺をからかうことにも飽きたのか、ようやく開放してくれた。


「でもさ、なんだか奇跡みたいな話だよね」

「奇跡?」

「だって、元は同じ学校に通ってた二人が急に別れることになっちゃって、だけど何年か後に偶然とはいえ再会するなんてどこの恋愛ドラマ? って話じゃない。あーあ、わたしのところにも運命の王子様みたいな人が現れないかな」

「恋愛ドラマって……」


 俺がやれやれとため息を吐きながらうんざりとしてみる。けれど、真衣奈はすっかり自分の世界に入り込んでいるようで、きっとまだ見ぬ運命の王子様とやらにご執心のようだった。


 奇跡か……。


 紗季と再び出会えたことはもしかしたら本当に奇跡なのかもしれない。それが恋愛ドラマの脚本であろうとなかろうとだ。


 あいつ、変わってなかったな……。


 笑った顔も、人の話を全く聞かないところも、俺のことをハカセなんて変なあだ名で呼ぶところもまったく変わってなかった。


「ハカセ……か」

「どうしたの急に?」

「え? うわっ!」


 突然、目の前に真衣奈の顔が現れたことに、思わず驚いてしまった。


「な、なんだよ」

「なんだよはこっちのセリフだよ。わたしがいくら呼びかけても先輩ボーッとしてるし、具合でも悪いのかなって心配してたのに」

「い、いや……大丈夫だ」

「そう? だったらいいんだけど。あ、もしかしてキスでもされると思った?」

「……なんでそうなる」

「えー、こんな美少女がキスしてくれるんだよ。嬉しくないの?」

「自分で美少女って言う奴にキスされたって嬉しくない」

「またまたそんなこと言って。本当は嬉しいくせに」

「お前にキスされて俺になんの得があるんだ? むしろキス一回につき一万円とか言われそうだ」

「そんな安くないわよ! でも先輩なら五千円にまけといてあげる」

「金とんのかよ!? つーか、それでも高いな!」

「冗談だよ。先輩相手にお金なんてとらないよ。だから……」


 真衣奈が瞳を潤ませながらゆっくりと顔を近づけてくる。


「お、おい真衣奈……」

「すぐ終わるからじっとしてて」


 吸い込まれそうな瞳。俺はその瞳から目が離せなかった。


 ドクン、と心臓が高鳴る。


 このままじゃ俺は……ある種の覚悟を決めて目を閉じた。すると、


「えいっ!」

「痛っ!」


 ──なぜかデコピンを食らった。


「な、なに……」

「あっははは! 引っかかった!」


 俺はなにが起きたのかさっぱりわからなかった。せいぜい分かることといえば、また真衣奈にからかわれていたってことだ。


「もう、そんな簡単にキスするわけないでしょ」


 ふふん、と鼻を鳴らしながらなぜか得意げに真衣奈は言った。すっかり騙された方としては、がっかりというか安心したというか、なんともいえない敗北感に打ちひしがれていた。


「さ、冗談はこれぐらいにして食べよ。カレー冷めちゃうよ」


 そう言うと真衣奈は、何事もなかったかのように再びカレーを食べ始めた。けれど俺はというと妙に気まずい。


 真衣奈は昔っからこういった冗談に聞こえない冗談を平気で仕掛けてくる。その度に俺はドキドキさせられたり、頭を抱えたりしているわけなんだが……。


 ちらりと真衣奈に気づかれないようにうかがう。真衣奈は確かに美少女だ。美人だと言い換えてもいい。いや、自分で美少女って言ってしまうところはどうかと思うけど、身内のひいき目に見なくても十分に器量よしの部類に入るだろう。だからこそ余計変に意識してしまいがちになる。


 ただ、本当なら彼氏の一人ぐらいいてもおかしくないはず。だけど、それでも恋人がいないところを見ると本人の性格に問題があるのか、ほかの理由があるのかなんていらん詮索をしてしまいたくなる。


 まぁ、もう少しおしとやかというか、おとなしい性格なら……とも思わなくない。


「どうしたの? わたしの顔になにかついてる?」

「いいや、なんでも」


 真衣奈が訝しげな顔をしていた。俺はたまらず、天は二物を与えなかったかとほくそ笑むことにした。



「うわー、やっぱり寒い!」


 真衣奈がバイクの後部座席で叫んでいた。


 真衣奈特製のカレー(肉じゃがの予定だった)を食べ終えた俺たちは、なぜかバイクにまたがり夜の町を走っていた。というのも真衣奈がバイクに乗りたいと言ってきたからだ。


「もうちょっと速度緩めてよー! さっきから寒くてこのままじゃ風邪ひいちゃうー!」

「だから言っただろ! まだ寒いからちゃんとした格好してこいってー!」


 後ろから聞こえる抗議の声に、流れる風にかき消されないように大きな声で返す。


 七月に入ったとはいえ、夜にバイクで走るにはまだ寒い。それこそちゃんとした格好をしていなければ、風を感じるどころか、ただの苦行になってしまう。俺は慣れてるからともかく、後ろにまたがる真衣奈に至っては、制服のまままたがってるものだから寒いのも当然だと思う。それをわかっていてこういうことを平然と言うのだから始末に負えない。


「寒いんだったら帰るか? 今ならまだ間に合うぞ」


 一応、年長者として気遣ってみるが、そう言うと決まって真衣奈は、


「やだ! ぜったいやだー!!」


 と、駄々っ子のようなことを言って困らせてくる。……まったくどうすりゃいいんだ。


 俺は向かってくる風を相手にため息を吐いていた。


「仕方ないじゃない、急に乗りたくなったんだから。うぅ……寒っ……でも、こうしてると暖かいよ?」

「──!」


 そう言ってぎゅむっと俺の体に回した腕に力を込めてきた。ちょっと前まで華奢だと思っていたのにずいぶんと……いや、なに考えてんだ俺は……。


「あ、今、変なこと想像したでしょ?」

「するか」

「ふーん、そんなこと言うんだ。じゃあ──」


 と言ってさらに力を強くする。服の上からといっても真衣奈の女の子特有の柔らかさと、わずかに漂うシャンプーの甘い香りのせいで、思わず握っていたアクセルを強めてしまった。


「うわっ、寒っ!! 速度緩めてってば!!」

「へいへーい」


 とりあえず背後から聞こえる抗議に従い少しだけアクセルを緩めた。耳元で鳴っていた風切り音が弱まり、バラララという排気音に混じって、わずかに熱気を孕んだ風が頬を掠める。


 しばらくバイクを走らせると、ようやく慣れてきたのか、背後から聞こえるのは抗議の声から調子外れの鼻歌に変わっていた。


「また歌ってるのかそれ」

「えへへ、いい曲でしょ。バイクのメットを五回ぶつけるっていう歌詞がいいよね」


 言いながらコツコツとヘルメットをぶつけてくる。歌詞の中では『ア・イ・シ・テ・ル』の言葉の変わりだったはずだけど、真衣奈がやると『ド・コ・ヘ・イ・ク?』になる。返事の代わりに俺がどこへ行きたい? と尋ねると、返ってきた言葉は「海が見たい」だった。


 国道8号線を走り海のほうへ抜けると、いつものコースが見えてきた。


 海にかかる架橋。対岸と対岸をつなぐ新湊大橋のアーチが夜の中に光の道を作っていた。


 上昇していく橋の上から見えるのは、高岡の街並みと、伏木港に停泊している船舶の光。眼下にはただ規則的に打ち寄せる波と、潮騒の音。波が寄せて引くたびに、水面に映った月明かりがキラキラと揺らめいていた。


「夏だね」

「夏だな」


 自然と口を突いて出るのは、そんな感想ともなんともつかない言葉だった。


 バラララ。コツン。ザー、サラサラ。


 俺たちが感じる音はただこれだけ。ほかの一切なにもなく、世界にたった二人だけ取り残されてしまったように感じる。


 そういえば、こうやって二人で走るのもずいぶん久しぶりだ。


 まだ真衣奈が高校に入学する前までは、よくこうやってバイクに乗ってた気がする。それがいつのころからだろう、真衣奈が高校に入学する頃になるとそれも少なくなった。その時の俺たちは大学受験やら新しい環境の変化に必死だったからかもしれない。


 それに……。


 コツン。真衣奈がヘルメットをぶつけてくる。肩ごしに彼女の顔を見ると、寂しげに夜の海を見ていた。


 そうだ。真衣奈が高校に入学する頃、いつも俺のバイクの後部座席に乗っていたのは紗季だ。


 紗季もことあるごとにバイクに乗せて欲しいと言っていた。よく二人で夜の町を走り、二人だけの時間を過ごしながら、将来のことやくだらない話で盛り上がっていた。


 いつも思っていた。このわずかな瞬間がいつまでも続けばいいのに、と──。


 新湊大橋の緩やかなカーブを降りてくると、一隻の帆船が浮かんでいた。


 帆船海王丸。この港に駐留している船で、ここ海王丸パークのシンボルでもあった。


 海王丸パークの駐車場の適当なところにバイクを停めて、近くにあった自販機で飲み物を買った。


 誰もいないパーク内のベンチに腰を下ろして俺はコーラを、真衣奈は女の子らしくミネラルウォーターを飲んでいた。


「先輩、まだそんなの飲んでるの? 体に良くないよ」

「いいんだよ別に。それよりお前、まだコーラが骨を溶かすなんて信じてんのか?」

「うぐ……そ、そんなの嘘だって知ってるから!」


 真衣奈が一瞬だけたじろいだ。というのも、子供の頃にあった話でコーラばかり飲んでいると骨がなくなるという迷信が流行ったことがあった。必ずしも間違いじゃないが、当時の真衣奈とってそれはとてもショッキングなことだったらしく、コーラが大好きだった純粋無垢な少女はそれっきり、コーラを飲むことをやめてしまったといういきさつがある。それを思い出したのだろう。


「別にわたしはそんなの飲めなくてもいいけどね。本当だからね!」

「へいへい」


 妙につっかかってくる真衣奈を適当にあしらいながら、手に持ったコーラを飲む。シュワシュワと口の中いっぱいに炭酸が弾ける。夏の暑い日はやっぱりこれに限る。


「今年は海に来れるかな」


 真衣奈がポツっと呟いた。


「今来てるだろ」

「そうじゃなくって、泳ぎにってことだよ。今年はわたしも受験生だし、去年みたいに遊んでばかりもいられないからね」

「受験ってどこ受けるんだ?」

「先輩と同じところ」

「同じところって、お前の頭だったらもう少し上の大学狙えるだろ」

「買いかぶり過ぎだって。わたしがあそこを選んだのって、家に近いからなんだよね。お父さんは自分の好きなところに行けっていうけど、お父さん一人にしておけないし、勉強するぐらいならどこでも出来るから。それに……先輩もいるし」


 そう言って真衣奈がミネラルウォーターを飲んだ。その姿がやけに色っぽく見えて、知らない間に成長している幼馴染からわざと目をそらした。


 そうだ。知らないあいだに時間は過ぎていく。俺も真衣奈も変わっていく。もちろんあいつだって。


「どうしたの?」

「ん、考え事」

「考え事ねー。もしかして紗季さんのこととか?」

「そんなわけないだろ」


 適当にはぐらかすと真衣奈は興味を失ったように「ふーん」とだけ言った。


 ザー、サラサラ。


 お互いなにも喋らなくなると途端に静かになる。波の打ち寄せる音だけが夜の海に響いていた。


 空を見上げれば、夜空には満点の星ぼし。天の川をはさんで向かい合うベガとアルタイルがそっと瞬いていた。


「どうして織姫と彦星は一緒になれないのかな。あんなに近くにいるのに、ものすごく遠い」

「どうしてって、そういうものだからだろ」

「そういうものなのかな」

「そういうものだ」


 きっぱりと言い切ると真衣奈は「それって切ないね」と悲しげに微笑んだ。


「ねぇ、先輩」

「ん、なんだ?」

「……わたし、さ」


 真衣奈が俺の顔を覗き込んでくる。揺れる瞳の中に月明かりが映って輝いていた。


「わたしね……ずっと前から……」


 ピルルルル、ピルルルル。


 電話が鳴った。


「なによ、こんな時に……」


 真衣奈が文句を垂れながらポケットから携帯を取り出す。するとその表情がみるみるうちに険しいものになっていった。


「どうしたんだ?」

「……お父さんからだ。出なくてもいいかなこれ?」

「そんなことしたら祐介さん泣くぞ。いいから出てやれ」

「仕方ないな……ごめん、ちょっと話してくる」

「ああ、そうしてやれ」


 真衣奈は俺から少し離れるとようやく祐介さんと話し始めた。その証拠に、離れた場所からでも真衣奈の怒鳴り声が聞こえてきたからだ。きっと電話の内容は「まだ帰らないのか?」とか「今どこにいる?」とかそんなところだろう。祐介さんもいい加減なようで一人娘のことが心配でたまらないのだ。


 それからしばらくすると不機嫌な顔をした真衣奈が戻ってきた。


「祐介さんなんだって?」

「今どこにいるんだ? って言ってた。もう、お父さんたら心配しすぎだよ。わたしだってもう子供じゃないんだし」

「ま、そう言うなよ。祐介さんにしたら大事な一人娘なんだし、心配もしたくなるんだろ」

「だからってわざわざ電話までしてこなくたっていいのに」


 俺が祐介さんの肩を持ったからか、ますます不機嫌になってしまった。ごめん、祐介さん。


「それでなんだ?」

「うん?」

「うん? じゃなくって、さっき俺になにか言おうとしただろ。なんだったんだ?」

「あー……忘れてた。ううん、なんでもない、気にしないで」

「気にしないでって、遠慮しなくていいぞ」

「遠慮してるわけじゃないんだけど……なんていうのかな、気分がね。それにもう遅いしそろそろ帰ろっか」


 そう言いながら真衣奈は、スカートについた埃を払うと、先に行ってしまった。


 なにを言おうとしたんだろうなあいつ。


「……まさか、な」


 残された俺は、缶の中に残っていたコーラを飲み干すと、真衣奈を追ってその場を後にした。


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