第9話 夏の風と入道雲と その1
紗季とのことから数日。俺はぼんやりとした想いを抱えていた。
『わたしはハカセが好き。あの頃からずっと。もちろん今も』
紗季は言った。俺のことが好きだと。
俺はどうだろう?
俺はそれにどう向き合えばいい?
……わからない。
何度も何度も自問自答を繰り返す。なのに答えは出ない。
目を閉じると、紗季の声とともに唇に触れた感触が蘇る。
あれから何度も感じた感触だ。
そしてその度に思うのだ。
俺は紗季のことが好きなのか、と。
暗く閉ざされた世界はどこまでも広がる大宇宙のようで、その中に放り出された思考は浮かんでは沈みを繰り返しながら暗い闇の中へ消えた。
俺は……紗季とどうなりたいのだろう。
──紗季。
「どうかした先輩?」
はっと顔を上げると、心配そうにこちらを見つめる真衣奈の顔があった。
「……なんだ真衣奈か」
「なんだとはなによ。それよりさっきからぼーっとしちゃってどうしたの? 夏風邪でもひいた?」
「いや、そんなんじゃない。ちょっと考え事してただけ」
心配かけまいと出来るだけの笑顔を装ってそう言うと、真衣奈は「そう」と言ったものの、やはり俺のことが気になるのかちらちらとこちらを見ていた。
心配かけたか……。
真衣奈の視線から逃れるように窓際に立つと、ポケットの中に入れていたタバコを取り出した。吐き出した煙が網戸の向こうに見える入道雲に混じって消えた。
ずっと目を閉じて考え事をしていたせいか、日差しが眩しい。穴ぐらから出たモグラもきっと同じことを思うのだろうか。
「ねぇ先輩」
と、夏草の香りを含んだ風が部屋の中を駆け抜けてく中、背後に声をかけられた。
「ん? どこかわからないところでもあったか」
変に考え込んでいることを悟られないように、いつもの調子で話しかけると、真衣奈は首を振った。
「そうじゃないんだけど、もし違ってたらごめんね」
いつもはっきりと物事をいう真衣奈にしてはずいぶんと歯切れの悪い言い方だった。
俺がじっとなにか言いにくそうにしている彼女の言葉を待っていると、ややあって真衣奈が口を開いた。
「あの、さ、最近、紗季さんとなにかあった?」
「……」
思いがけない質問に俺は思わず口ごもってしまった。そしてそれが確かになにかあったということを如実に物語ってしまっているわけなのだが、当然慌てた頭でそこまでの考えになんて至らない。もちろんそんなことには後で気づいた。
とりあえず場を取り繕うように「別になにもない」と、返答した。改めて自分は嘘をつくのが下手だと実感した。
けれど、それを間に受けたのかどうかは知らないが真衣奈は「ならいいけど」とそれ以上追求してこなかった。
それから参考書と再びにらめっこを始めた真衣奈を横目で眺める。
改めて気づいたことだが、真衣奈は美人だった。
そんなことは改めて気づくまでもないことぐらい分かっていたはずだった。なのに彼女に気づかれないように盗み見たその横顔は、整った眉にスッと伸びた鼻筋。リップでもつけているのか、桜色をした唇は大きすぎず、けれど小さすぎず、それが彼女をさらに美人だと印象づけていた。
……じゃなくてなにやってんだ俺。
我に返って思わず恥ずかしくなった。
幼馴染をじっと見つめて変な分析なんてまったく俺らしくない。ああ、バイトのしすぎで疲れてるんだろう。そう決めつけることで、さっきまで真衣奈のことをいやらしく見ていた自分をなかったことにした。
ともあれ、そんなことをつらづらと考えていたせいだろう。俺は真衣奈が何度も俺のことを呼んでいることにまったく気づかなかった。
「ねぇ、先輩ってば」
「あ、ああ……なんだ」
「本当に大丈夫? 調子悪いならわたし帰るけど」
「悪い悪い。また考え事してただけだ。それでなんだ?」
「あのさ今週の日曜ってなにか予定ある?」
「今週の日曜?」
急に問われて頭を巡らせてみる。頭の中のスケジュール帳は相変わらず真っ白で、自分でもびっくりするぐらい驚きの白さを放っていた。
「なにもないな」
なので返答も即答だった。
「それじゃあさ、たまにはどこかパーっと遊びに行かない? ほら、先輩ってば最近ずっとバイトばかりだったし、わたしも勉強漬けの毎日だったしさ。ね?」
真衣奈がご機嫌を伺うように上目遣いで懇願のポーズをとってくる。きっと息抜きしたいっていう言葉はまかりなりにも間違いじゃないのだろう。
しかし、
「ダメだ」
「えー、なんで?」
「なんでって、お前まだ夏休みの課題終わってないだろ。俺があれだけ早めに終わらせろって言ったのに、まだ予定の半分も終わってない。つーか、この時点で予定の半分すら終わってないって……。お前このままじゃ夏休み返上でやらないと二学期学校行けなくなるぞ」
半ば脅しのように言ってみるものの、これは脅しというより本当にまずい状況だった。
なのに真衣奈ときたら、
「それがどうかした? それよりもどこか遊びに行こうよ」
ケロッとした態度でそう言い放つものだから、さすがに俺も引き下がることが出来なくなった。
「ダメだ。絶対にダメだ!」
「なによ。そんな犯罪防止のポスターみたいなことばかり言って。本当は先輩だって遊びに行きたいんでしょ?」
痛いところをついてきた、とは思わない。真衣奈の言うとおりどこか遊びに行きたいのは事実だ。だが、それ以前にそれが出来ないのは誰のせいか気付いて欲しいのも事実だった。
「あのな、そもそも俺が夏休み返上してこうしてるのは誰のせいだと思ってるんだ」
「んーと、わたし?」
「そうだ。そのお前が遊びに行きたいから課題はやりませんと宣言した。それについてどう思う」
「わたしも先輩も遊びに行けてハッピーみたいな?」
「みたいなじゃねえよ! お前がちゃんと課題を片付けてればこんなことにはならないんだよ! そこんとこわかってんのか!?」
珍しく俺が声を荒らげて言ってやると、真衣奈もその迫力に負けたのかシュン、とうなだれてしまった。
しまった……少し言いすぎたか。
俺が慌てて謝ろうとすると、それより早く真衣奈が立ち上がった。
なぜか今まで見たことないほど肩を怒らせて。
「わかった。じゃあわたしがさっさと課題片付ければ先輩も文句ないんだよね」
真衣奈の思わぬ迫力に「お、おう……」と呟くのが精一杯だった。
「帰る」
「か、帰るってどこへ」
「家に決まってるでしょ。さっさと課題片付けたいし」
「課題やるなら別にここでも出来るだろ」
「ううん。本気のわたしを出すにはやっぱり本気になれる場所じゃないとダメなんだよね」
真衣奈の変なスイッチが入ってしまったようだ。なんか中二病こじらせた高校生みたいなセリフを吐くと、ものすごい勢いで俺の部屋を飛び出していった。
やるったらやる! それが椎名真衣奈の信条であり、なによりも厄介なところでもある。
そして翌日。
「どうよこれ!」
真衣奈が俺の部屋を訪れるなり、俺が提示した課題と、学校から出された宿題の全て。そこに頼んでもない大学入試の模擬試験の答案。その全てを俺の鼻先につきつけてきた。ちなみに今はまだ朝の八時をちょっと過ぎたばかりだった。もう一つつけ加えると、俺はまだ布団の中でイモムシのようになっている状態だ。
「な、なんだよこれ……」
「なんだよって、これ先輩がやれって言ったんでしょ。だから全部片付けてきた」
「全部って……あれを全部か?」
「うん。だって言ったでしょ? 課題を全部片付けたら遊びに連れてってくれるって」
それを言ったかどうかで言えば、半分正解で半分不正解だ。なぜなら、俺が言ったのは課題を片付ければ遊びに行けるということで、俺が遊びに連れて行くなんて約束は微塵もしてない。もし血判でも押してある誓約書でもあれば話は別だが、残念ながら誓約書も契約書もない。よってこの取引は無効となる。
「まぁなんていうか、課題を片付けたことについてはよくやったって言うよ。お疲れさん。ただ、俺が遊びに連れてくって話はした覚えがない」
「嘘だ!!」
真衣奈が某同人ノベルゲームのヒロインばりに叫んだ。正直、俺はあまりの衝撃に布団の中で三十センチくらい跳ね上がった。
「ねぇせんぱ~い、どこか遊びに行こうよ~」
威圧的に挑むのが効果的じゃないと判断すると、今度は猫なで声で甘えてきた。未だ布団イモムシ状態の俺にそれから逃れる余裕なんてない。当然、されるがままにされていた。
「先輩~。ねぇってば~」
俺の上に乗っかったり揺り動かしたりするものだから、最初はうっとうしいくらいに感じていたのも、次第に苛立ちに変わってきた。
こうなってくると俺も俺で頑なに「行かない」とか「遊びに行くなら一人で行け」なんてまるで小学生のケンカのようになってきた。
それからしばらくしてお互いに、「なにやってんだろう俺(わたし)たち……」という気分になり、真衣奈は落ち着いた様子で俺に「遊びに連れて行って欲しい」という希望を伝え、俺も「ま、約束通り課題終わらせたんだしせっかくだから遊びに行くか」という結論に至り、やったー! と子供のようにはしゃぐ真衣奈を見てほほ笑みながら俺は、ようやく布団イモムシの姿から本来の人間の姿へと羽化することができたのだった。
そして当日。
「……遅いな」
そう呟きながら時計を見る。時刻はすでに約束の時間から十分ほど過ぎていた。なのに待ち人はいまだ来る気配はない。
今日は珍しく目覚めがよかった。いつもの休日なら目覚ましが三回ぐらい鳴ってようやく起きるはずなのに、今日に限っては目覚ましが鳴る前に起きることが出来た。だからというわけじゃないが、時間をつぶすためにバイクの洗車をしたり、着ていく服を選んでいたらあっという間に時間が過ぎていた。
……いや、正直に白状しよう。
単に真衣奈と一緒に休日を過ごせるのが楽しみで仕方がなかった。だからいつもより早く起きることが出来たし、乗りっぱなしだったバイクも洗車出来た。
なのにしつこいようだが待ち人はいまだ来る気配はない。
ピカピカになったバイクにもたれかかりながら三本目のタバコに火を点ける。
さて、ここから俺はあと何本のタバコに火を点けないといけないのだろうか。
「おーい、せんぱーい!」
真衣奈がやってきたのは俺が五本目のタバコ(あれから結構待たされた)に火を点けたところでだった。俺は点けたばかりのタバコを消すと、彼女にならって手を振り返した。
「ごめん、お待たせ」
「いや、俺もさっき準備終えたところだから」
「そう? もしかしたら待たせてるかもって思って慌ててきたんだけど。走ってきて損しちゃった」
真衣奈が手櫛で髪を整えながら俺に微笑みかける。
真衣奈は普段着ているような制服姿やラフな服装とは違って、柔らかそうな白い生地に、可愛らしくフリルのついたショート丈のワンピース。髪もいつもは縛ってたり下ろしたままにしているだけなのに、今日はくるんと髪を巻いて軽やかな印象になっていた。化粧もしているところなんてほとんど見たことないが、彼女の印象を壊さない程度に施されていた。
数分前まで真衣奈が来たら文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに、彼女の笑顔を見ると、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。
つまり俺はそんな彼女に見とれていた。
「先輩……もしかして怒ってる? わたしが遅れてきたから……」
「あ、いや……いつもと違って見えたから驚いてた……」
「それって褒め言葉?」
俺より幾分か背の低い真衣奈が見上げてくる。いつも見慣れているはずの顔なのにどういうわけか、今日に限って潤んだ瞳がより一層、彼女を魅力的に見せた。
俺はどう答えるか。
「……さぁな」
結果、はぐらかすことにした。
「そっか。せっかく今日のために気合入れてきたんだけど、先輩には通用しないか」
がっかりしたように眉根を下げる真衣奈。残念ながら俺には十分通用してるぞ! とはさすがに言わない。
「それよりも、またずいぶんと大荷物だな。中になにが入ってるんだ?」
俺が気になったのは真衣奈が持っている、やたらサイズの大きいリュックサックだった。大きいといっても登山用などのものから見れば幾分か小さいサイズではあるものの、それでも少し小柄な真衣奈にとっては大きいことには間違いない。むしろ、服装よりもそっちのほうが気にかかった。
「気になる?」
「気にならないというほうが無理だろ」
「でも、これは今見せられないから、その時になったら教えてあげるよ」
得意げに言う真衣奈に一抹の不安を抱えつつも、俺は疑問を飲み込んだ。
「それじゃあさっそく行くか」
「うん。今日はよろしくね先輩」
真衣奈が慣れた手つきでヘルメットをかぶり、エストレヤのシートにまたがる。
背中に感じる真衣奈の体温と、シャンプーの香りのせいで鼓動が高まるのを感じた。
アクセルをひねると軽快なエンジン音を響かせながら風を切って走った。ヘルメット越しにコツンとぶつかる感触があったので振り返ると真衣奈が「今日も暑いね」と言った。
──真衣奈の提案はこうだった。
「それでお前どこ行きたいんだ」
布団イモムシから羽化した俺は、真衣奈の用意してくれた朝食(焼鮭に味噌汁、ほうれん草のおひたし)をほおばりながら聞いた。
「ちょっと先輩。喋るか食べるかどっちかにしてよね」
真衣奈が鮭の身をほぐしながら抗議してきた。
「悪い。んで、どこか遊びに連れてけってのはわかったけど、なんかプランとかあるのか」
「実はね……じゃーん!」
そう言って真衣奈が自分のカバンから取り出したのは、A4サイズの色とりどりの写真が印刷されたチラシだった。
見てみるとどこかで見たことのある景色だった。赤い観覧車にその後ろに大きく広がる海。巨大な水槽とペンギンまで写っていた。
ああこれは──、
「懐かしいなミラージュランドか」
「そ。ここに連れてってよ」
真衣奈が得意げに鼻を鳴らす。
ミラージュランドは正式には水族館ではない。水族館の部分は魚津水族館という名称がついていて、その向かいにある遊園地の部分がミラージュランドと区分けされている。ただ県民からすればどちらも同じ意味として捉えられていて、わかりやすくミラージュランドで通ってるのが現状だ。補足として日本でもかなり古い部類に入る水族館だということは、県民でも案外知られていない。
「でもなんでまた。水族館だったら他にもあるだろ。のとじまとか」
「そこでもいいんだけどさ、あそこまで行くのって結構距離あるし、それにね」
と真衣奈が区切る。どうしたのかと思い突きつけられたチラシを覗き込んでみると、
夏休み期間土日限定、家族連れ、カップルの方に限り入館料半額!
なるほど。これに釣られたってわけか。
合点がいった風にしていると、真衣奈も俺がその理由に気づいたらしく、若干居心地悪そうにしていた。
そのあたりのことを口に出さない辺りは真衣奈らしい。
俺がわかったと了承すると、真衣奈はさっきほぐしたばかりの焼鮭を口に含みながら「ありがとう」と言ったのだった。
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