笹原さんちの子

涼木 皐

笹原さんちの子

 僕は進学と共に、地方からこっちの方に引っ越して来た。


 お金もないので契約したアポートも幾分かぼろ臭い。


 元より僕は様々なものに対する執着というものは最初から薄い性分なもんだから、住処が幾ら古臭ろうと、立地がどうだろうと、そういうものは大抵気にならないでいられる。


 我ながら、寂しい人間だと思ったりする事もあるが、それはもう性分なのだから致し方ないと思う事にしている。特に直すべき欠点とも特段思っていないのである。


 このアパートに引っ越して初日、一応の為にお隣さんへと挨拶へ伺う事にした。


 僕の契約した部屋は角部屋に当たるので、お隣さんと言っても一軒だけだ。それとも一部屋だろうか。まあそんな事はどうでもいいか。


 念の為と思い、地元のお菓子屋で予め購入しておいた所詮安物の菓子折を携え、お隣さんのドアの前に立つ。


 こういう事をするのはなにぶん初めてなもので、多少の手の震えはあるのだが、構わず僕は呼び鈴を鳴らした。呼び鈴の上の表札には笹原という名字が掲げられている。


 暫くすると「はーい」という男の子とも女の子ともとれる声が聞こえて、ドタドタと駆け寄ってくる足音が聞こえて来た。やがてその足音も止み、ガチャっと鍵を外す音と共にドアが開かれる。


「はーい、どなたですかー」


 出て来たのは女の子だ。小学生4年生くらいだろうか。髪は黒髪でショートヘア、華奢な体には白色のワンピースを纏っている。


「はじめまして、隣に引っ越して来た山中です。 一応お隣に挨拶をと思って伺ったのですが……お母さんか、お父さんっているかな? 」


「二人とも仕事で帰ってくるのいつも遅いからいないよー!」


「あー、そっかごめんね急に来たりして。 ならまた夜にでも来ようかな」


「んー、大丈夫だよ! そういうの面倒臭いだろうし、私から言っておくね!」


「いやでも、一応親御さんにあいさつを「いいよ!大丈夫!」


 押し切られてしまった。


「そっか、じゃあお願いしようかな。 お菓子、良かったら食べてね」


「了解しましま!!」


 そうやりとりをして、僕は笹原さん宅を後にした。


 家に帰り、改めて先ほどの出来事を考えると、すごく出来た子だなあと感心させられた。


 後からまた伺うのは二度手間だとも思うし、ありていに言ってしまえば面倒臭い。ましてや夜の時間しか家にいないとはいえ、夜の時間に人様の家にに伺うのはどうにも気が引けた。


 あの子はそう言った僕の考えを読んでかどうかは分からないが、僕にとって一番楽な方法を提示してくれたのだ。

 

 僕は小学4年生の頃にあそこまで他人に気を遣えただろうか。いや、断じてそれは無かっただろう。今の歳であそこまで出来るなんて、将来はどうなってしまうのだろう。


 まあどうでもいいか。そう、どうでもいい。所詮は他人事だ。


 しかし、あの笑顔はなんというか綺麗に貼り付けただけの様なものに見えた。無理をしているとも違う。なんとも言い難いその違和感の様なものは、暫く僕の頭から離れてはくれなかった。



 こちらに越して来て1週間ほど経ってこのアパート近辺の地理はなんとなくではあるが把握できて来た。


 ここは街の少し離れた場所にある謂わば住宅街ではあるが、建っているその住宅達は僕の住んでいるアパート同様に幾分かぼろ臭い。こう言ってしまえば失礼かも知れないが、まあ誰に口外している訳でも無いので許していただきたい。空家なんかも多い様で、凄く寂れている印象を持たざるを得ない。


 と言っても街からさほど離れている訳でも無いので、少し歩けばコンビニやらスーパーやらを利用する事は十分に可能だ。


 こういう場所なもんだから、家賃も街の方と比べて比較的に安いのだろう。お金のない人間にとってはまさに「穴場スポット」とでも言えるのでは無いだろうか。


 基本的にインドア派の僕は、外に出るのは億劫で面倒臭くてあまり気乗りはしない。しかし今日は、不服ではあるが講義がなかったので街の方にまで出歩いてみようと思っている。


 いつも大学に講義を受けに行って終わったら帰るだけの生活をしているので、そろそろ街の方の散策もした方がいいだろうと思ったのだ。落ち着いたらアルバイトも探さなければならないし、致し方ない。


 街の方には大学があって、そこにはいつも徒歩で通っている。それでも歩いて20分程しか掛からないので、やっぱりいい立地だなと改めて思う。一応線路も敷かれてあるので電車で行こうと思えばもっと早く着くだろう。


 街には道路沿いに様々な店舗が軒を連ねている。居酒屋に、本屋に、服屋に、家電量販店やオフィスビル。何でもござれと言った感じだ。


 バイトするなら本屋とかいいなあ、などとぼんやり考えながら歩いていると、いきなり「前!前!」と声が聞こえて来て、その方向に視線を移そうとするや否や。唐突にお腹に何かが突撃して来たようで、その勢いでドテッと尻餅をつく。


 うげっなどという情けない声を上げた僕に、「にいちゃんごめん!大丈夫?!」と誰かが声をかける。


 その聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには黒髪でショートヘアの見覚えのある男の子がいた。男の子。そう、男の子にしか見えない。


「あれ、男の子……? でも君は笹原さんちの……」


 しまったという様な顔をしている笹原さんちの子は呆然としている。その背後から「おい!笹原!行くぞ!」と1人の少年が駆け寄り、手を引こうとする。


「待って!俺もすぐ追いつくから先に行って!」


「分かった……!モタモタするなよ!」


 そう言うと少年は走り去ってしまった。


 一体何が起きているのか、とても頭がこんがらがっていて理解できそうにいないでいる僕に、笹原さんちの子は耳元で囁く。


「お兄さん、ごめんね。でも、この事は絶対に誰にも言わないで。お願い。」


 そう残すと、笹原さんちの子も足早に掛けて行った。


「なんだったんだ……」


 まるで台風がものの一瞬で通り過ぎていったかの様な、目紛しい速さで過ぎ去った出来事に僕はただただ茫然とするしかなかった。



 次の日、講義を受けに大学に行こうと家を出たタイミングで、ちょうどお隣の部屋のドアも開かれた。


 そこには例の笹原さんちの子とお母さん?だろうか。失礼ではあるのだが、その年齢ぐらいの子供の親にしては幾分か歳を老いている様な印象を受けた。

 

「あぁ、隣に越されて来た山中さんですね。この子から話は聞いてます。よろしくお願いしますね。」


「いえいえ、こちらこそちゃんとご挨拶に伺えなくて……笹原さん、よろしくお願いします。」


「いえいえ、それでは失礼します。」


 ぺこりとお辞儀をされたので、こちらもぺこりと頭を下げて顔を上げると、笹原さんちの子から声を掛けられた。


「お兄さん!またね。」


 薄いカーディガンとスカートを纏った笹原さんちの子は、あの綺麗に貼り付けた様な笑顔でそう言ったのだった。


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