チョコレートミントの雨が降る

 かつて一緒にいたそのひとは、歯磨きをしてからでないと、だめなタイプだった。

 わたしはそれ以来、チョコレートミントのアイスを、食べることができない。


     ◇


 どうしてか音がきこえにくくなる雨の日は、部屋の中にいると、閉じ込められてしまったかのように感じる。この部屋を残して、それ以外はなにもかもなくなってしまって、外にはただ白いだけの空間が、広がっているのではないだろうか。そんな風に思ってしまう。

 窓ガラスを伝う透明な粒や、道路を挟んで向かいの家の瓦屋根などが見えても、すべてがぼんやりとして、ほんとうのことではないみたいに映る。窓に描かれた、絵みたいに。あるいは、まどろんでいるときに見る曖昧な世界みたいに。

「外に、なにかあるの?」

 窓の外を眺めるわたしに、彼女が問いかけた。

 わたしは顔の向きも目線もそのままで、応える。

「なにも。雨、降ってる」

「アイスたべる?」

「うちにアイスないよ」

「来るとき、買ってきた」

「抹茶か小豆なら、たべる」

「ざんねん、一種類しかないんだわ」

 わたしがゆっくり振り返ると、彼女は冷蔵庫の前に屈んだ状態で、薄緑色をしたアイスバーの箱を掲げて見せた。

 チョコレートミントアイスバー、七本入り、三百円。

「わたし、チョコレートミントだめ」

「歯磨き粉の味がする?」

「そんなところ」

「七本入り買ってきちゃった。どうしよ」

「ぜんぶたべて帰って」

「さすがに無理でしょ」

 その日彼女はチョコレートミントのアイスを二本たべて、残りは冷凍庫に残していった。

 自宅の冷凍庫を開けたときに、チョコレートミントアイスの箱と目が合うのは、一体いつ以来だろうか。


     ◇


 一本目と二本目のときは雨で、三本目はくもりの日で、四本目はまた雨の日だった。

 季節柄、気温はそこまで高くなくても空気がしっとり湿っていて、気づくとほんのり、汗が滲んでいたりする。フローリングに敷いている毛足の長いラグマットも、元気のない動物の毛並みみたいになんとなくしんなりとしていて、座ってはいるものの、あまり心地が良くない。かといって、エアコンを作動させるほど暑くもない。中途半端で、身の置き所がない、そんな雨の日だった。

 わたしはローテーブルに、突っ伏すみたいにして半身を投げだしていた。頬に当たる木目調の天板が、ひんやりして気持ちがいい。わたしはそのまま行儀悪く、チョコレートをひとつ大袋から出して、口に放りこんだ。安っぽい甘さのミルクチョコレートが、口の中で、もったりと溶けていく。

「頭いたい」

「雨で体調が悪いときは、耳をマッサージするといいって。何かで読んだ気がする」

「ふうん」

「やってあげる。きて、こっち」

 呼ばれるままふらふらと、ベッドへ向かう。彼女はひとのベッドに片膝を立てて座りながらチョコレートミントのアイスを食べていて、正直行儀が悪いと思った。けれど、机にだらりと身体を預けながらチョコレートを頬張っていた自分だって似たようなものだ。

 仕方がない、雨の日だから。雨の日だけは、パウンドケーキをカットせずにそのままかぶりつくようなだらしなさも、許されるような気がする。

「これ、ちょっと持ってて」

「うん」

 食べかけのチョコレートミントアイスを手渡される。半分のところまでかじられたそれは、すでに端のあたりが溶けてきていた。

「これ、はやくたべないと崩れるんじゃない」

「かわりに、たべちゃっていいよ」

 彼女の手が耳に伸びる。遠慮がちな触れ方は、すこしくすぐったい。

「だから、チョコレートミント、だめなんだってば」

「うん、そうだよね」

 溶けだしたアイスが木の棒を、つつ、と伝い、反射的に口を付けてしまった。だってそうしなければシーツに染みを作ってしまうから、と自分で自分に言い訳をしながら。こぼれた部分を、舌で受け止めるようにすくいとって、ああ、しまった、と思ったときにはすでに、甘さと清涼感の両方を感じとってしまっていた。さっきまで食べていたミルクチョコレートの後味と混ざり合って、より強く甘ったるくチョコレートが香る。


 ――微塵も吐き気を催さないことに、吐き気がした。


 彼女の指先が耳から首筋へと移動しても、手のひらで頬を包まれても、近づいてきた瞳がゆっくりと閉じられても、チョコレートミントの味を確かめるみたいに口の中を探られても、拒絶の感情はわたしのもとに降りてきてはくれなかった。

 さわやかさを気取っていたチョコレートミントのアイスはとっくに溶けてしまっていたから、清涼感や冷たさなんてもうどこにもなくて、執拗に探し回ったところで、熱を含んだ吐息くらいしか、そこでは見つからない。それでも彼女はなにかを見つけようとしているのか、探し回るのを止めない。部屋の空気は湿気ていて、口の中はべたつくように甘くて熱い。

 ようやくわたしを解放した彼女は、ささやくように「甘い」と呟いた。その声は、ほんのすこしだけかすれていた。

 わたしは口元を手の甲で雑に拭いながら、言う。

「この味、ほんとむり」

「でも、嫌いって言わないよね」

「冷凍庫に残ってるアイス、今度こそ全部たべてから帰って」

「一日四本は無理だよ」

「一日二本なら食べられるでしょ。だから」

 雨の音が強くなる。

 わたしはベッドから降りて、ミルクチョコレートをふたつ、いっぺんに口に入れた。カーテンの向こうはやはり不鮮明なままで、そのことにすこし安心する。

 わたしはアイスの棒を捨てに、キッチンへ行く。ゴミ箱に木の棒を放ってしまってから、冷凍庫から一本チョコレートミントのアイスを取り出す。そしてそれを、彼女に手渡しながら告げる。

「そろそろベッドから降りて。アイスこぼしたら、今夜、寝るところなくなるよ」

 彼女はアイスを持っていない方の手をわたしに引かれて、ベッドを降りる。彼女の手のひらが汗ばんでいたことに、わたしはそのときはじめて気づく。

 雨が上がったら、この手のひらから、感じ取ることができるようになるだろうか。チョコレートをたくさん口に詰め込まなくても、大丈夫になるだろうか。チョコレートミントの清涼感を伴う甘さを、受け容れることができるようになるだろうか。

 まだわからない。わからなくてもいい。

 いまはまだ、雨の所為に、していてもいい。


 <了>

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