黒髪の少女を見つめた瞳の行方
「絹のような髪という表現は、この子の髪のためにあったんだ」とAは思った。
踊るたびに、さらさらとなびく長い髪。
照明を受けて、きらきらと輝く黒い髪。
この手で梳いたら、どれほど心地よいのだろう。
観る者をうっとりさせる黒髪の持ち主は、Bという少女だった。
BはAと同年代で、アイドルだった。夢みたいに可愛い衣装を身に着けて、ステージの上で歌い、踊る。
Bは数人の少女で構成されるアイドルグループの一員で、目立つ位置に立つことは滅多になかったけれど、ステージの上で誰よりも輝いていた。そのように、Aの瞳には映っていた。はじめてBのステージを観た日から、AはBしか目に入っていなかった。厳密に言うと、優雅になびくBの黒髪だけしか。
AはBの美しい黒髪に憧れていたけれど、自身の髪は短く切りそろえていた。一度も染めたことのない髪ではあったものの、やわらかくやや癖のある髪質であり、色も真っ黒というわけではなくほんのり焦げ茶がかっていた。なので、伸ばしたところでBのような髪には到底なれないと、Aはわかっていた。とはいえ、だからと言ってAは自分の髪が嫌いというわけではなく、むしろふわふわと軽やかに揺れるところなどはそれなりに好ましいと感じていた。
なので、どうしてBの黒髪にそこまで執着するのか、A自身もよくわかっていなかった。ただただ、美しいと感じ、ただそれを愛しただけ。その気持ちは「すき」よりも「崇拝」により近いものだった。
アイドルの命はびっくりするほど短い。Bにもその日がやってきた。
Bがアイドルをやめると知ってから、Aはなけなしのお小遣いをはたいて、Bが歌い踊る劇場に何度も足を運んだ。何通も手紙を書いた。ステージに立つBの姿がどれほど美しかったかを、どれほどその黒髪に焦がれたかを。
運よくBと握手ができる機会に恵まれたとき、Aは緊張と興奮のあまり「あなたの黒髪がすきです」と、ひと言告げるので精一杯だった。目の前のBは、緊張で汗ばんだAの手を両手でやさしく包み込んだまま、笑顔で応えた。
「ありがとう」
そして小首をかしげるようにBが動くと、絹のような黒髪がひと房、肩から流れるようにこぼれ落ちた。
Bとの関係は、そこで終わるはずだった。
数年後ほろ苦くも甘やかな気持ちとともに懐かしむような、ささやかですてきな思い出になるはずだった。
けれど、そうはならなかった。Aが進学した学校に、Bが在籍していたのだった。
Aは最初、その生徒がBだとはわからなかった。気が付いたのは、Bの名前を耳にしたときだった。そのとき、Aはまさかと思って耳を疑った。けれど顔を見てしまったら、同姓同名の別人であると思いこむことは無理やりにであってもできなくなってしまった。Bはアイドル時代本名で活動していた上に、彼女の名前はそれなりに珍しいものだった。これだけ顔がそっくりで、なおかつ同じ名前の人間が、いるとは思えなかった。
「なんで?」
Bが同じ学校に在籍していることを知ったとき、Aは思わず声をあげた。そこはとある教室の入り口に面した廊下で、Bは友人らしき生徒と一緒だった。Aの両目は信じられないものを見たかのように見開かれ、硬く握りしめられた両手は力が入りすぎて小刻みに震えていた。
「……誰?」
突然自身に疑問を投げつけはじめた見知らぬ生徒に、Bは眉をひそめた。Bの隣に立っていた生徒も、怪訝な表情でAを見ていた。廊下を通る生徒たちが何人か、不思議そうな顔でちらりとAたちのことを見て、そして通り過ぎていった。Aには何も、目に入っていなかった。Aの両目に映っていたのは、Bの髪だけだった。
「どうして?」
その髪は茶色く、かろうじて肩につくくらいの長さで切られていた。
◇
Bは実年齢よりも、やや幼い顔立ちをしていた。身長も低く細身で、実際にいくつか年下に間違われることもよくあった。
Bは実年齢より幼く見られたところで嬉しくもなんともなかったけれど、そんなBの外見はアイドルというある種独特な立ち位置においては、予想以上にプラスに働いた。ファンはBのことを「可愛い」「ピュア」「妹にしたい」ともてはやした。またアイドルにならないかと声をかけられたのも、その顔立ちの所為だった。
「あなたは清純さを売りにしたいから、髪は黒くしてね」
Bがアイドルグループに所属することを決めると、グループの担当マネージャーはBの髪を指さして、何でもないことを言うみたいに告げた。
そのとき、Bの髪は茶色かった。光が当たるとオレンジに似た色に輝く、明るくやわらかい色。
生まれたときからそのときまでずっと、Bの髪はそのやわらかい色だった。
学校の廊下で見知らぬ生徒から突然声をかけられたとき、どこかで見たことがある顔だとBは思った。けれどどこで会ったのか、何のつながりがあったのか、よく思い出せなかった。
Aが人目をはばからず、叫び声を上げるまでは。
「せっかくきれいな黒髪だったのに!」
それを聞いて、Bは気づいた。この生徒は、知っているのだと。黒髪の少女として過ごしていたときの自分を。そしてステージ上の黒髪の少女が、茶色い髪をしているいまの自分と同一人物であるということも。
Bは無意識に口角を釣り上げていた。決して嬉しかったからでも、まして面白かったからでもない。Bは、赤い顔をして息を荒げているAに近づき、耳元でささやいた。黒髪の少女として活動をしていたときのような、わざとらしくも可愛らしい声音を使って。
「だってこっちが、地毛だから」
「……うそ」
「黒髪少女は作り物。月に一度の黒染めと、ヘアアイロンでできていた。アイドルは偶像、虚像、妄想。知っているでしょう?」
Bが歌うようにささやくと、Aは驚いたように飛びのいて、Bから距離をとった。Aは信じられないものを見たといった様子で、表情をゆがめていた。
Bは、かつて作り物の自分のファンだったAのその表情を見て、かすれた声で笑った。
「気づかなければ、よかったのに」
それがAとBのどちらに向けた言葉であったのかは、本人も良くわからない。
「黒髪の少女でいられたのに、あなたの中では」
Bがゆっくり首を振ると、肩のあたりで、茶色い髪がやわらかく揺れた。
黒髪の面影が一瞬、Aの目に映って。そしてすぐに、どこかへ消えてしまった。
〈了〉
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