氷砂糖の日々

 薄暗い部屋で、冷蔵庫が低い音を立てている。

 ほかには、微かな貴女の寝息と、ぺたりぺたりと床を踏むわたしの足音だけ。

 音の少ない、静かな、夜だった。


 わたしはキッチンの床に膝をつけて身体をかがめ、収納扉を開けた。雑多に重ねられている空っぽのプラスチックケースをよけて、わたしはそれを取り出した。

 ジッパーつきの透明な袋に入れられた、透明なかたまり。

 口に含むと静かに甘さを伝えてくる、氷砂糖。

 ビー玉くらいの大きさの氷砂糖を口の中で転がしながら、わたしは再びぺたぺたと裸足で歩く。ベッドに戻る前に、ふと思い立って冷蔵庫のコンセントを引き抜いた。手元でカシャカシャと音を立てている氷砂糖は、冷凍庫に入れておかなくても、溶ける心配はない。

冷蔵庫が呼吸を止めると、部屋はさらに静かになる。余計な音がしなくなると、わたしと貴女の気配が、その分だけ濃厚になる。


 氷砂糖の袋を抱えてベッドにすべりこむと、隣で貴女が寝返りをうった。穏やかな寝息をたてているその背中におでこをつければ、ベビーパウダーのような穏やかな匂いと、わたしよりもすこしだけ高い体温が伝わってくる。

 その体勢のまま、透明の袋からおはじきくらいの大きさの氷砂糖を取り出して、口に入れた。ビー玉くらいの大きさだった氷砂糖と合わせて、がりがりと噛み、飲み下す。さらにもうひとつ口に放り、今度もがりがりと音を立てて噛み砕いてしまう。

 太陽が昇る頃には、わたしたちはもうこの場所にはいない。だからいまのうちに、ここにある氷砂糖は、すべて食べてしまわなければならない。かろうじて持ち出すことができる、ポケットに入る分だけを残して。

「おなかすいた」

 すこしだけかすれた声で、貴女が言う。

 氷砂糖を噛み砕く音で、起こしてしまったみたいだった。わたしが貴女の背中から離れると、貴女はくるりと身体を回して、こちらを向いた。

「もうこれしかありませんよ」

 わたしは氷砂糖の袋をかかげて見せる。からりと音が鳴った。

「世界はすべて、砂糖になってしまいましたので」

「そうなの。わたしもはやく、お砂糖になりたい」

 貴女はくすくすと笑って、わたしの頭に手をのばす。貴女の指で梳かれると、自分の髪が何か特別なものにでもなったかのように感じる。そう思わせるくらい、貴女はわたしを丁寧に丁寧に扱う。

 わたしは貴女に撫でられながら、繰り返し、氷砂糖をかじる。

 同じ砂糖なら、貴女には氷砂糖よりも金平糖の方が似合う。どちらも砂糖のかたまりだけれど、ひだまりのような体温の貴女には、明るい色の金平糖がふさわしい。氷砂糖のような無機質なもので隙間を埋めようとするのは、わたしだけで良い。

 閉め切った部屋と、湿気たシーツと、袋いっぱいの氷砂糖と。いまのわたしと貴女に与えられているものはそれだけで、それさえも数刻後には失われてしまう。またはじめから、探さなくてはならない。それは紅茶の中で角砂糖を積み上げていくようなもので、やっといくつか積めたと思った瞬間に、ほろほろと崩れ、儚く溶けてしまう。そういうことを、続けてきた。そういうことを、これからも、続けていくしかない。世界は砂糖でできているから。

 わたしの髪を撫でる貴女の手をとって、ふいにその手首に口をつければ、貴女から「くすぐったい」と声があがる。砂糖になるまでもなく、貴女の肌はとても甘い。貴女には金平糖が似合うと言ったけれど、できれば砂糖になどならないでいてほしい。そのためなら、どれだけ大きな氷砂糖のかたまりだって、わたしはきっと食べてしまえる。そのせいで、わたしが砂糖に潰されてしまったとしても。

「ねえ、それ、わたしにもちょうだい」

「だめです」

「けち」

「そうですよ」

 わたしはそう言って、氷砂糖入りの袋を背中に隠した。

「ぜんぶひとりで、食べなくてもいいのに」

 そばにある貴女の表情が、寂しそうな笑顔に変わる。

「どうして無理、するの」

 ――貴女にそんな顔をさせたいわけではないのに。

 浮かんだ言葉を、決して声にはしない。言い訳にしかならないから。事実、わたしが貴女にしてほしくない顔を、貴女はしている。そして、そうさせているのは、わたし自身だ。

「わたしにもわけてよ。お砂糖になりたいって、わたし、言ったでしょう」


 外が白みはじめたようで、ブラインドの隙間から光の線が差し込んできた。

 わたしはベッドからするりと抜け出して、ぺたぺたと歩き、この部屋唯一の窓にかかっているブラインドの位置を調節する。薄く埃が積もっているブラインドに人差し指をひっかけて、外を覗き見ようとした。

「見なくていいの」

 その瞬間、貴女に強く腕を引かれた。わたしの指がブラインドを弾いて、埃が舞った。

 勢いがついて、わたしは貴女の胸に倒れこむような体勢になる。貴女はそれを、やさしく、そして力強く受け止める。か弱さなど、そこには微塵も感じさせない。

「わたしといるときには、無理しないでよ」

 貴女の目からこぼれた透明なそれを、わたしは指先ですくい取った。

 口に持っていけば、砂糖とは異なる味がした。

「しょっぱいですね」

「まだお砂糖になれないみたい」

「もうすこし、いいですか」

「どうぞ」

 彼女はわたしが触れるたび、くすぐったそうに笑った。今度は眉を下げない、子どもみたいな笑い方で。わたしがすきな、笑い方で。

 わたしは袋の中から氷砂糖をつかんで、そのまま無造作にポケットに突っ込んだ。残りは床にザラザラと撒いてしまう。貴女は床に転がっていた中からいちばん大きなかたまりを拾い上げて、窓に向かって投げつけた。それはブラインドに弾かれて、あっけなく床に落ちた。窓にかすかな傷すら、つけることなく。


 わたしと貴女は、お互いの存在と、それからひとつかみ分の氷砂糖以外はなにも持たず、なにも残さず、その部屋を後にした。

 床に撒いた色のないそれらも、しばらくすれば砂糖の粒になり、そして消えてしまうだろう。

 最後にポケットからこぼれおちた、氷砂糖をひと粒残して。


<了>

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