第298話 望む世界を歩く

 目を開けると、そこは全くの別世界だった。

 五枚の花弁がついた白い花が広がる花畑。三日月を半分にしたような形の岩があちこちから生えるように点在し、空は黒と群青を混ぜ込んだ色をしているも、無数の星々が輝いている。


 ここは、世界の裏側。

〝神〟が隠れ住む聖域であると同時に、転生を約束された者達が今世では手に入らなかった一生分の幸せを享受するために訪れる、最後の楽園。

 日向がアリナとして死んだ時、ここに踏み入れた記憶はないけれど、それでも不思議と懐かしさを覚えた。


「あたしも、ここに来たことあるのかな……?」

「あるよ。ここに来る魂は、みんな名前以外の生前の記憶を全部消されるから。……まぁ、未練とか後悔の強い人間は、記憶を持ったままの場合があるけどね」


 日向の背中から、懐かしい声がする。

 目から零れそうになる涙を必死に抑えながら、ゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは、一人の青年だった。


 膝裏まで伸びた銀色の髪と瞳。

 真っ白な肌をした、少年とも少女とも見える中世的な顔立ち。

 だけど、特徴的な黒い衣装や手製のアクセサリーはあの頃のままだ。


「………………ヤハウェ?」

「そうだよ。久しぶりだね、アリナ……いや、今は日向だったね。まさかこんなところまで来るなんて驚いたよ」


 優しく微笑む〝神〟に、日向の足は自然と彼の元へ駆け寄る。

 相変わらず細い体に抱き着くと、ヤハウェは数歩よろめくもしっかりと抱き留めた。


「ヤハウェ、ヤハウェ、ヤハウェ! ごめんなさい、あたし、あなたの大切なものを勝手に使って……!」

「いいよ。あの時の光景は僕もここから見てたけど、あれは仕方のないことだった。むしろ、『蒼球記憶装置アカシックレコード』のことを君に話した僕にも責任はある」

「そんなことは……!」

「それに、こうして再会できたんだ。悪いことばかりじゃない」


 そっと自身の体から日向を離すと、優しく微笑む。

 相変わらず年老いていない、変わらない笑みを見て、日向の胸が自然と暖かくなる。


「ひとまず、家に行こうか。お茶くらいは出せるから」


 ヤハウェに案内されて、透明度の高い小川と小さな石橋を通ると、やがて小さな小屋が現れる。

 それは、かつてアリナがヤハウェの指導で魔法を学び、一緒にお茶をしたり昼寝をした懐かしい家。

 ガラガラと回る水車も、茅葺屋根をしたレンガ造りの外観も、軒下からぶら下がっている薬草やドライフラワーはどれも変わっていない。


 ヤハウェがドアを開けると、中も変わっていなかった。

 火が灯った暖炉に、一人用のテーブルと椅子。それに寝台と作業台と書架しか調度品がない。

 床に敷かれた鹿の毛皮も、部屋の隅に置かれた石や宝石も、壁に飾られている流木も動物の骨も貝殻もそのままだ。


「懐かしい……この小屋、あの時一緒に消えたけど、ここに持ってきたの?」

「うん。僕が暮らしていた家の中じゃ、ここが一番思い入れあるから」


 部屋の中を見て回る日向に、ヤハウェは厨房でお茶の用意をする。

 テーブルに二人分のカップとポット、それにお茶菓子として果物の砂糖漬けが置かれる。

 どれもあの頃のままだ。唯一違うのは、真新しい茶器と茶葉くらいだ。


「んー、いい香り。ダージリン?」

「うん。たまに下界の食べ物が恋しくなると、人に化けて買いに行ってるんだ。あ、砂糖漬けは僕の手作り」

「ヤハウェの手作りなの? ちょっと気になる~。いただきます!」


 白い皿の上に並べられた砂糖漬けを手に取り、一口齧る。

 日向が手に取ったのはオレンジピールで、オレンジ特有の酸味と砂糖の甘味が口の中に広がった。


「美味しい! 時々出してくれてたものと味が全然変わってない。もしかして、今までのも?」

「そうだね。最初は見様見真似で作って食べてたけど……君は気に入って食べてくれていたね。だから、砂糖漬けだけは本職より上手くなったよ」


 懐かしそうに語るヤハウェ。

 だけど、ここまで来たのはそんな世間話をするわけではない。

 香りのいい紅茶を一口飲んで、日向はそっと両手を合わせる手前のようなポーズを取る。


 その手の中心から青い光の玉が生まれ、やがて所々緑が入る。

 その姿は、まさに地球。

 これが、『蒼球記憶装置アカシックレコード』本体――正確にはその縮小版だ。


「これ、返すね。長い間、借りっぱなしにしてごめんね」

「いいよ。こうして返してくれたから」


 そっと『蒼球記憶装置アカシックレコード』を差し出すと、ヤハウェはそれを片手で受け取り、そのままぎゅっと握り締める。

蒼球記憶装置アカシックレコード』はヤハウェの手の中へと消えていき、青い粒子がキラキラと光りながら消えていく。

 これで返還は完了。なんとも呆気ない終わり方だ。


「……さて、これでやるべきことが終わったけど……君はこれからどうするの?」

「どうするって?」

「今の世界は、正直『蒼球記憶装置アカシックレコード』を使ってある程度変えてもいいくらい理不尽がそれなりにある。今回の大事だいじの収束と返還のお礼として、今から世界を少し変えることもできる」

「お礼って……あたしはただ、勝手に借りたのを返しただけ。お礼なんていらない」

「でも、君が『蒼球記憶装置アカシックレコード』を手にしていたおかげで、僕は不本意に世界を書き換えることをしなかった。もちろん手にしたことで起きた争いもあるけど……それを差し引いても、今回のことはそれほどの大事件。君は、まさに世界を救ったんだ」

「世界を救った、か……」


 正直なところ、今の日向にその実感はない。

 あるのはジークを失った喪失感と、カロンに対する罪悪感だけ。

 だからこそ、ヤハウェからのお礼は、自分にとってあまりにも重すぎる報酬なのだ。


「……正直なところ、あたしは世界を救ってない。ただ自分という最小単位の世界を守るために、戦っただけ。そこで生まれた代償は大きかったけど……だからこそ、その報酬を受け取るわけにはいかない」

「君が望めば、理想の世界ができるのに?」

「それこそ、カロンの二の舞だよ。あたしは別に世界を変えたいとか、そんな願いは抱いてない。ただ……いつもの日常を送る、そんな世界が好き。だから、変えたいとは思えない」


 今の日向が生きているのは、理不尽も暴力があるも、それでも前を向いて歩き、時に誰かに手を差し伸べる世界。

 その世界を壊したくないからこそ、日向は剣を取った。

 前世の因縁ももちろん入っていたけれど、一番の理由としてはそれが一番強い。


「……そっか。じゃあ、さっきのお礼は取り消す。その代わり、僕の提案を二つ呑んでもらう」

「二つ?」

「まず一つ、カロンによって傷ついた世界を癒すのはいいかな?」

「癒す……?」

「あの『マギア・ゴーレム』ってやつ、結構とんでもない代物でさ。悪用とかはIMFがどうにかしてくれるだろうけど、被害などはかなりのものだ。現代いまの医学でも治せない重傷を負っている人もいれば、魔力切れを起こして魔導士として生きるのが難しくなっている人もいる。でも、『蒼球記憶装置アカシックレコード』を使えば、それを全部癒して、普段通りの生活が送れる」

「それはもちろんいいよ。今回の件は、みんなただ巻き込まれただけだし」


『供儀の御柱』のこともそうだが、『マギア・ゴーレム』で出た被害は甚大だ。

 今回の件で死者は両手の指では足りないほど出ているはずだし、こちらの事情で巻き込んでしまった無関係な人々に深い傷を負わせたまま日常生活を送りたくない。


「次に二つ目、君の無魔法のことだ。無魔法はすでに九系統魔法の一部として取り入れられている以上、これを消すことは不可能。ただこの力の効力はあまりにも強すぎる。だから……この無魔法を書き換える」

「具体的には?」

「『000カムビアティオ』と『000フィナリタス』、これは全部消す。人の手には余るほどの力だ。残すのは『0ゼルム』、『00エラド』、そして『00モディフィカディオ』の三つだ。

 『00モディフィカディオ』は名前を『000モディフィカディオ』に変えて、この魔法を他の魔導士でも使えるよう魔力調整する。……ただし、この書き換えによって、君の魔力値は大幅に減少する。無魔法はそのまま使えるけど、前みたいな乱用はできなくなる」


 ヤハウェの言葉に、日向はなるほどと内心納得する。

 元々、今の日向の魔力値は『蒼球記憶装置アカシックレコード』に接続した影響で大幅に増えてしまったもので、いわゆるドーピングに近い。

 今のヤハウェの提案を呑んだら、『世界唯一の無魔法使い』と二つ名は消え、ただの魔導士に成り下がる。


 だけど、それでいい。

 そもそも二つ名自体自分にとっては不必要なものだし、みんなと一緒になれるのはむしろ本望だ。


「……うん、いいよ。その条件、呑んであげる」

「いいの?」

「いいよ。あたしはもう……自分が望む未来を手に入れているから」

「そっか。……じゃあ、いくよ」


 ヤハウェが右手を持ち上げると、パチンッと指を鳴らす。

 直後、周囲が白い光に包まれ、日向はその眩しさに目を強く瞑った。


 やがて光が収まり、目を開けるとそこは小屋の中ではなく、空中要塞カエレム。

 魔法陣の上に立ち尽くしたまま、日向は自然と振り返る。


 背後にいたのは、今日まで付き合ってくれた仲間達。

 樹と心菜はいつも通り微笑み、ギルベルトと陽は安堵の息を吐き、怜哉は無表情だけど優しい眼差しを向ける。

 陽の腕の中に抱えられているジークの亡骸は悠護の上着にくるまったままで、眠ったような死に顔は心なしか笑みを浮かべているような気がした。


 そして、ゆっくりと近づいてきた悠護はそっと両腕を広げる。


「おかえり、日向」

「ただいま、悠護!」


 その言葉を聞いて、日向は広げられた両腕に飛び込む形で愛する人を抱きしめた。

 腕の中に収まった少女を見て、悠護は優しい笑みを浮かべながら、強く抱きしめ返すのだった。



☆★☆★☆



 同時刻、全世界である現象が起きた。

 外と中も問わず、金色に輝く雨が降り注いだ。

 それは『マギア・ゴーレム』によって傷つき、腕や足を切られた者達の怪我を一瞬に治し、同じく破壊された建物や無残に荒らされた植物は、まるで時間が巻き戻したかのように修復していく。


『供儀の御柱』によって魔力だけでなく生命力も吸われた人々も、金色の雨によって死一歩手前の白い顔から赤みを取り戻し、苦痛に歪んだ表情はひどく穏やかなものとなり、静かな寝息を立てる。

 人間も動物も等しく降り注いだその雨は、一日だけでなく、三日三晩続いた。


 後に世界一の大魔導犯罪者として名を遺した【輪廻の魔導士】カロン・アルマンディンが起こし、世界を巻き込んだ大事件は『世界改変事件』として歴史に刻まれ。

 その後に降り注いだ金色の雨は『神の天雨てんう』と名付けられ、その日から一度も降ることはなかった。


 しかし、ほとんどの者は誰も知らない。

 この大事件を解決した、若き魔導士達と失われた命の名を。

 その世界の裏で起きた、〝神〟と少女の秘密の会話を。


 けれど、それでいい。

 元を正せば、これはただの大喧嘩。

 数百年に起きた恋愛のもつれによってもたらされた、大迷惑な騒動。


 でも、それも今日でおしまい。

 これから待つのは、平凡で平和で、そして何よりも代えがたい日常。

 日常の先にある未来を信じて、魔導士も人類も今日を生きる。

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