第285話 還れる
数ヶ月ぶりに会うカロンは、前世から一寸変わらない姿だった。
金糸の刺繍が施された豪奢な黒のジャケット、裾周りに白い毛皮がついた真紅のマント、そして十字架を並べた黒鉄の
二人きりで茶会をする時にしか着ない、カロンのお気に入りの服装。
この服を着ているカロンは、国王としれではなく、一人の男としてアリナに接した。
一部の王侯貴族にしか出ない紅茶や、当時流通が難しかった香辛料や砂糖をふんだんに使った菓子、そして国の一流職人が作った茶器が揃っていて、少なくともエレクトゥルム男爵領ではお目にかかれないものばかり。
だけど、アリナはその時間が一番苦痛に感じていた。
国王の命令だから断ることはできなかったが、その時すでにアリナには
アリナだけに許されたその特別扱いは、周囲に反感を買い、小さな火種はいつか大きな火事となって沈下するのが難しくなる。
そのことを、本人は誰よりも理解していた。
理解していたからこそ、アリナを何度も茶会に誘った。
その意図を、かつての自分が気付いていないわけがない。
「……ああ、この服か? 懐かしいだろう。私のお気に入りでね、よくお前の前で着ていただろう?」
「うん、よく覚えてるよ……。でも、あたし、その服嫌いなんだよね」
「そうなのか? それは初耳だ」
日向の言葉に、カロンがきょとんと目を丸くする。
普段は彫刻みたいな冷たい顔をしていることが多いが、付き合いがあるせいで彼の感情の機微はそれなりに読み取れる。あの顔は本気で驚いている。
「そうか……残念だ。せっかく着替えたというのに。今から着替えてもいいか?」
「ううん、いい。これから着る死に装束だと思えば豪華で素敵だよ?」
そう言うと、カロンは薄く笑うだけで何も言わない。
不気味なほど静かな彼に、日向は《スペラレ》を構える。
白金と琥珀が輝くそれを見て、カロンは懐かしそうな目で見つめた。
「ああ、その剣……今も鮮明に覚えている。私の体を突き刺し、呪いを流した、忌まわしくも美しい刃を。あの時受けた傷の痛みも、その冷たさもな」
《スペラレ》を見つめるカロンに構わず、日向は強化魔法をかけて一気に跳躍する。
剣先がカロンの心臓に向かって突き刺さろうとするも、その前に透明な盾によって阻まれる。
金属が削れる嫌な音を出しながら、日向は軽く舌打ちし、反動を利用して後退する。
「『
上級自然魔法の一つで、攻撃力が高い殺傷力ランクBの魔法。
陽の戦闘をイメージしたそれは無数の
黄金の輝きがカロンの命を狩り取ろうと迫るも、金属に似た甲高い音を出しながら弾かれる。
弾かれた衝撃で跳弾した
依然と玉座に座ったままのカロンの背後で、『
普通、魔導士が魔導具に魔力を供給するが、その反対は聞いたことがない。
(カロンには独自に新魔法を作る技術がある。おまけに『供儀の御柱』から供給されている『
どうやら『
ジークとイアンはなんてものを作ったんだ、と内心思いながらも、目の前にいるカロンに神経を集中させる。
「どうした? そんなに『
「っ……そうだね。ちょっとすごくてびっくりした。ざっと見る限り、呪いを緩和させている上に魔力を増幅させてるでしょ」
「その通り。さすがの『
加えて『供儀の御柱』で集めた魔力を効率よく私に供給するために、『
「……そう。嬉しくない情報をどうもありがと」
『
現代の魔導士にとって最悪の三位一体。
たとえ日向が無魔法の使い手であろうと、この組み合わせは本当に最悪だ。
「……ああ、日向。この私を数百年も魅了した娘。私はお前を傷つけたくない。たとえ他人の手垢がついているとしても、その肌を血で穢したくない」
だから。
「――お前を閉じ込めよう。我が美しき『
パチンッと指が鳴らされる。
目の前が真っ白に染まる。
防御魔法も、無魔法も発動する暇もなく。
日向の体は、白き光に包まれる。
優しい風が頬を撫でる。
甘い花の香りと若々しい草の匂いが漂う。
せせらぎの音を聴きながら、可愛らしいデザインをした真っ白なワンピースを着た日向は目を開ける。
「ここは……?」
上には青い空、下には緑に染まった大地と美しき花々。
その周りにいるのは、ファンシーなぬいぐるみのような姿をした動物達。
日向の周りを囲むように軽やかなスキップをして、楽しそうに踊っている。
ピフポフと足音を鳴らしながら、開放的なキッチンで甘いお菓子を作っていて。
指がないのに器用に紅茶を淹れて、ティーカップを渡してくる。
それを受け取ると、キッチンからウサギとイヌがとてとてと歩きながら日向の前に来ると、赤と白のチェック柄の布が内側に敷かれた籠を置かれた。
中に入っているのは、山盛りのスコーン。
その傍には数種類のジャム瓶とクロテッドクリームがたっぷり入ったラメキンが置かれる。
それを見て、日向は籠を運んできた子達を見た。
「えっと、食べていいの……?」
思わず問いかけると、動物達はこくりと頷く。
彼らの目はただの樹脂のパーツで、口はきっちり糸で作られていて動かない。
それでも笑顔を向けられているような気がして、そのままスコーンを手に取って齧る。
ほかほかの湯気が立つ、焼きたてのスコーンはとても美味しい。
そのまま食べるとシンプルな味わいなのに、ジャムやクリームを塗るといろんな味を楽しめる、日向の中で一番好きなお菓子。
これが出てくると必ず頬を膨らませるほど夢中に食べていて、その様子を見た■は呆れて、コーヒーを飲む■は軽く笑って、そして優しく頭を撫でる■は「いっぱい食べてね」と言ってくれて――――
「…………………………あれ? あたし以外に、誰かいたっけ…………?」
いや、いなかったはずだ。
だって。
「
『
その前の玉座に座る日向は、ひどく穏やかな表情で眠っていた。
すーすーと規則正しく寝息を立てる彼女の頬をするりと撫でながら、カロンは甘く蕩けた笑みを浮かべる。
「ああ……そうだ、これでいい。お前はただ、幸せな夢を見ていてくれ」
そして、優しく額にそっと口づけながら悪魔は囁いた。
「次に目覚める時、お前は世界を支配する神の妻となっているから――――」
☆★☆★☆
リンジーの戦い方は、殺す相手を傷つけ、痛みで苦しむ姿を楽しむという、大変悪趣味なものだ。
しかし、目の前にいる彼の戦い方は、すでに悠護が知っているそれではなかった。
ただ目の前の敵を殺すために、我武者羅に武器を振るう、乱暴で予測できない。
だが、戦闘において思考しながら戦うより、何も考えず本能で戦う方がずっと厄介だ。
現にリンジーが《インフェリス》の振るい方が、蹂躙ではなく確実に仕留めるための動きになっていた。
刃が曲線を描きながら下から振るわれ、バックステップを踏んで躱すも、髪の先が掠って切り落とされる。
数度床を踏んで突進してきた悠護が、《ノクティス》を双剣から槍に変える。漆黒の穂先が目の前に迫ると、リンジーは体ごと槍の下に引っ込めた。
その隙に《インフェリス》の槍部分が悠護の目の前に迫り、即座に《ノクティス》の一部を切り離して、籠手を作る。
ガキンッ! と槍の穂先と籠手がぶつかり合い、一瞬だけ聞こえた軋む金属音に反応して腕を振るう。強化魔法で膂力を上げていたおかげで、リンジーの体は軽く一メートル飛んだ。
「クソが! 面倒なヤツがさらに面倒になるんじゃねえよ!」
思考も人格も奪われてもなお、悠護へ向ける殺意は前世のまま。
いや、むしろ前世の時より悪化している。正直嬉しくない。
(……もう、こいつの寿命はほとんどないに等しい。なのになんで、ここまでできるんだ?
)
『
魔力の源である精神エネルギーを寿命に置き換えたが、それでも生命活動のために必要な分は自動的にキープしている。
それで足りなくなった代償として記憶や人格、知性を失うのは、あまりにも釣り合っていない。
理不尽なほどの代償の重さは、やがて己の身を破滅に追い込む。
それが分からないほど、リンジーは愚かではなかった。
(そうまでして、お前は俺を殺したかったのか。リンジー)
初めて会ったのは、血臭漂う戦場だった。
また年若く、自分と違いまだ未来があると思っていたからこそ殺さなかったが、それが逆に彼の自尊心を傷つけ、結果数百年にも及ぶ因縁を作ってしまった。
思えば、この時から選択を間違っていたのかもしれない。
悠護はリンジーのことを詳しく知らない。
彼の過去も、親のことも、好物のことも、何もかも。
知っているのは、怜哉と同格の戦闘狂で、殺人の申し子であることだ。
「…………あーあ、もっとお前のこと知りたかったなぁ」
たとえ気が合わなくても、ただの腐れの縁として、少しでも仲良くしたかった。
今までの言動から考えるに、彼もクロウと同じかそれ以上の辛い境遇にいたはずだ。
ジュースや酒を片手に、これまでの苦労話を話して、過去に自分達を殴ったクソ野郎共への愚痴を零しあえる様な関係を築けていたかもしれない。
だけど、そんなのはifの話。
今日この時をもって、その機会が永遠に訪れない。
リンジーが迫る。
《インフェリス》が頭上から振るわれる瞬間、悠護の姿が消える。
大理石の床に切っ先が深く突き刺さり、リンジーが呻きながら引き抜こうにもビクともしない。
その隙を逃さず、背後に回った悠護がその背中を蹴り飛ばす。
『
精神魔法が苦手なアリナが唯一使えた魔法であり、知性をなくしたリンジーでなければ通用しない魔法。
蹴り飛ばされて床に倒れたリンジーが、体を反転させてこちらを向く。
直後、長剣となった《ノクティス》が、リンジーの左胸に突き刺さる。
確実に仕留めるために、深く深く、心臓を貫いて、背中に付いた床に届くように。
「が、はっ……!?」
リンジーが目を見開いて、口から大量の血を吐き出す。
生温かい血が顔に飛び散り、頬についたそれが涙のように流れた。
荒い息を静かに吐きながら、悠護は柄を強く握りしめたまま、リンジーを見下ろした。
刺された衝撃で全身が痙攣し、胸からも背中からも血が流れていく。
医療に縁遠い悠護が分かるほどの出血量。あと数分もしない内にリンジーは死ぬ。
なんて、あまりにも呆気ない終わり方だろうか。
「…………あーあ……けっきょく、ぼく、きみのこと、殺せなかった……」
「なっ……!?」
おもむろに口を開いたリンジーの言葉に、悠護は息を呑む。
今のリンジーは寿命だけでなく知性も人格も代償として捧げた身。本当ならまともに話すことすら難しい。
だけど、今の彼は、以前の口調と大差ない。
(まさか、刺された衝撃で知性が少し戻ったのか?)
だとしたら、なんて皮肉な奇跡なのだろうか。
よりにもよって、正気を取り戻すのが死ぬ間際なんて。
「はっ……なんて、顔……してるんだよ…………ようやく、この、ぼくを、殺せたのに………」
「っ……」
「…………ほんと、甘ちゃんだよね……きみも、アリナも……敵の死を素直に喜べば、いいのに…………」
リンジーの言う通りだ。
敵の死は、今の状況において一番喜ぶべきこと。
だけど、それができないのは、魂まで悪として染まれない偽善者だからだ。
「…………………ああ、でも………不思議と気分がいい………やっと、還れるんだ、ぼく………」
ヒューヒューと息を吐きながら、リンジーは左腕を持ち上げる。
震えながら宙へと伸ばされたそれは、まるで何かを掴もうとする動きと似ていた。
そして、灰色の双眸を涙で潤ませながら、呟く。
「…………………ようやく、会えたね……おかあさん………………」
それが、リンジーの最期の言葉。
ぱたっと左腕が床に落ちて、息が止まる。光を宿さない双眸は一筋の涙を残し、彼の魂が地獄の果てに堕ちていく。
その最期を見届けた悠護は、《ノクティス》を腕輪に変えると、そのまま肩膝を付く。
右手でそっとリンジーの両目を閉じさせ、ゆっくりと立ち上がる。
無言で踵を返し、先に進む悠護の足取りは、一切の迷いがなかった。
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