第262話 夜は更ける

 黒宮家に戻った日向は、地下の浴場に来ていた。

 今日の疲れを癒す湯に肩まで浸かり、呆然と天井を眺めながら、今日の出来事を思い出す。

『サングラン・ドルチェ』の協力体制は、正直なところ判断に困っていた。いくら自分達が戦力不足だからと言って、敵の提案に乗るのは本当に正しいのか分からなかった。


 だけど、彼女らほど強い敵が仲間になってくれると心強いのは確かだし、あの場では最適解だったはず。

 そう、最適解。現に誰も口を挟まず、反論なくそのまま帰宅した。


(でも、納得しているかしていないかは話が別だよね……)


 思えば、みんな日向の言うことならば全部聞くような姿勢だった。

 もちろん間違いがあった場合はちゃんと正そうとしてくれるし、日向もその時は素直に聞いた。

 しかし、今回は全員反論も肯定もせず、ただ困惑したままだった。


 きっとみんな、あれが最適解か否か決めかねているのだ。

 今の日向のように。


(返事はもう返した。いまさらたらればを言っても結果は変わらない)


 すでに『サングラン・ドルチェ』とは協力関係。

 たとえ今断っても、陽達が話を進めてしまっている。ここで後悔しても後の祭りだ。

 頭がぼーっとしてきたのを感じて、日向は浴場から出る。出入口に置かれたラックからバスタオルを取り出し、水気が残る全身を拭く。


 着替えは一式持ってきたが、私服以外は朱美が用意したものを着ている。

 現に寝間着も彼女がいつの間にか買っていたライトブルーのネグリジェ。胸元周りにレースとリボンがあしらわれた可愛らしいものだ。

 義母の厚意を無下にすることはできず、それを着てドライヤー魔法で髪を乾かした後、そのまま上の階に上がる。


 黒宮家で働く住み込みの使用人達がいつものように働き、日向を見て会釈する。

 日向もそれを返しながら、自室ではなく悠護の部屋に行く。

 ノックせずドアを開けて部屋に入ると、学習机の近くの寝床で飼い猫ククが寝息を立てながら眠っており、悠護はベッドに寝転んでいた。


「日向? お前がノックしないで部屋に入るなんて珍しいな。どうした?」


 突然部屋に入ってきた恋人に目を丸くしながら、悠護は上半身を起き上がらせる。

 それを見て、日向は無言でずかずかとベッドに近寄ると、そのまま悠護に向かってダイブする。

 まさかの襲撃に悠護は「ぐふぅ!?」と呻きながらも、覆いかぶさってきた日向を抱きしめる。


 ギシギシとベッドのスプリングが軋み、その音でククの耳がピピッと反応するもすぐに寝息を立てる。

 意外と豪胆な飼い猫に感心しながら、悠護は日向の背中を軽く撫でた。


「……なんだよ、今日は甘えたいのか?」

「うん……甘えたい。でも、添い寝だけでいい。さすがにそれ以上は不謹慎過ぎる」

「だな」


 くすくすと笑いながら、上に乗っかっていた日向をごろんと横に移動させる。

 そのまま布団をかけてやり、ぽんぽんと子供をあやすように叩く。


「……子供じゃないんだけど」

「知ってる。でも、俺これしか甘やかし方知らねぇから」

「ずるい」

「知ってる」


 ぷくっと頬を膨らませた恋人を見て、悠護は額に唇を落とす。

 近くに感じるぬくもりとリズムよく叩かれる手、そして額に落ちた優しく柔らかい感触が心地よくて、自然と瞼が落ちていく。

 すーすーと寝息を立てた日向を見て、悠護は小さく息を吐いた。


「ったく、少しは肩の力抜けっての……」


 こう言っても、強情な彼女は決してそんなことはしないだろう。

 実家に来てから、日向はロクに外に出ることはなかった。たまに鈴花の遊び相手になったり、体が鈍らないように特訓していたが、それ以外は部屋に篭り切りだ。

 カロンとの決戦に向けての準備をするのはいいが、今はかなり根を詰め過ぎている。


 前世の時からそうだ。

 一点に集中すると寝食を忘れ、それで何度倒れたことか。今世では自分の限界をきちんと見計らっているから、倒れる回数はなくなったが、その分集中力が倍になっている。

 一度徹夜明けをしたことがあり心菜に怒られてからは、スマホのアラームで時間を設定するよう心がけているが、それでも顔に浮かぶ疲労は目視でもわかりやすいほどだ。


(俺ができることは、こうして甘えさせてやることだけだ)


 力になりたくても、日向にしか手が出せない領域がある以上、悠護には何もできない。

 歯がゆくもどかしく思いながらも、それでもこうして彼女のやすらぎになってくれればと願う。


「……日向。俺は、お前がどんな選択を選んで、どれだけ手が汚れようが、ずっとそばにいるからな」


 眠っていることをいいことに、そんな誓いを立てた悠護はそっと唇を重ねる。

 彼女の眠りを妨げない、優しい仕草で。



 スイートルームのキングサイズのベッドで、ギルベルトは丸くなりながら眠っていた。

 今日は資料作りだけでなく、『サングラン・ドルチェ』との密会にIMFでカロンの動きを追跡したりと中々ハードな時間を過ごした。

 そのせいか自分が思った以上に披露を蓄積しており、部屋に戻った直後なけなしの体力でシャワーを浴びて、なんとか髪を乾かしてからベッドにダイブした。


 だが疲弊した体はエネルギーを欲し、お腹から間抜けながらも地響きのような音を出す。

 さすがに空腹には耐え切れず、ギルベルトは鈍重な動きをしながら起き上がる。


「……ああ、そうだった。そういえば夕食を摂っていなかったな」


 だからこんなに音が鳴るのだと理解しながら、リビングに向かって歩き出し、そのままキッチンの方に来ると小型冷蔵庫と戸棚を開ける。

 冷蔵庫にはホテル側が用意したミネラルウォーターのペットボトルが数本あり、戸棚には念のため買っておいたインスタント食品が置いてある。

 必要なものを手に取ると、ギルベルトはさっそく夜食にとりかかる。


 電気ケルトにミネラルウォーターを入れ、電源を入れてお湯を沸かしながら、手にしたカップラーメンの包装ビニールを取ってゴミ箱に入れる。

 インスタント食品はイギリスにいた頃は食べることは禁じられていたが、日本に来てからは夜食や間食として食べる機会が増えた。


(そういえば、駄菓子も日本こっちに来てから食べたな)


 今まで禁じられて食品を口にするというのは、昔よく感じたドキドキと似ていて楽しかった。

 味は……生まれてから高級食材しか口にしてこなかった身としては衝撃的なものだったが、何度か食べれば慣れてくる。

 ちなみに、ギルベルトが気に入っているのは普通のカップラーメンより倍入っている大盛りラーメン(豚骨醤油味)だ。


 沸いたお湯が入った電気ケルトを取り、封を開けたカップラーメンの中に入れ、もう一度蓋をする。三分待ち、綺麗に割った割り箸でしっかりと麺をほぐし、そのまま啜る。

 イギリスにはスープパスタは出てくるが、基本はカトラリーを使って食事をする。だから日本に来て初めて使う箸には苦戦し、周囲のように音を出しながら麺を啜るというのも慣れなかった。


(今ではすっかり板についているな)


 インスタント食品を食べることも、音を出しながら麺を啜るのも、全部この国に来てからの初体験。

 いわば、この国はギルベルトの第二の故郷だ。

 自分はやがてイギリスという国を統べる身。しかし、日向達を再会させてくれたこの国もイギリスと同じくらいに大切なのも事実。


「……だからこそ、守らねばならん。この国を、世界を」


 たとえどれほどの理不尽と絶望が渦巻き汚れていようとも、この世界は不純物があるからこそ強く美しく輝ける。

 カロンが選んだ理想綺麗なものしかない世界など、花のように弱くなり自然と腐り落ちる。

 一番醜くて美しいたっとき世界を、そんな風に変わらせてはいけない。


 日向が語る夢物語が現実的夢物語――理想論がありながらも、現実の範囲で叶えられる。

 ならば、カロンが語る夢物語は理想的夢物語――一から一〇までが彼の理想ばかりで、現実では叶えられない。

 それほどまでにカロンの夢物語は酷く脆く、そしてとても儚い。


(兄上よ……聡明だったあなたが、それを理解していないはずがない)


 前世からずっと理解できない兄の心。

 たとえ血が繋がっていても未だ分からない兄の心情に、ギルベルトは一抹の寂寥感を感じせざるを得なかった。



☆★☆★☆



 夢を見る。夜を迎えるたびに、あの日の夢を。


(ああ、まただ。またお前は……私を置いていくか……)


 あの寝室で、まるで糸を失った操り人形のように地に伏し、意識が朦朧となっていく中、あの小さな背中が遠ざかる。

 地に塗れた手で目の前に置かれた地球儀に手を伸ばし、指先が掠った拍子でカラカラと回るのを何度見たことか。


(この夢は私の死が近付く度に見る)


 何度も、何度も。

 たとえ前世の記憶を持っていなくても、この夢は罪を忘れさせないように見させてくる。

 自分が死ぬことは、永遠に変えられない運命だと。


(何度見ようが、私は諦めない。必ず、必ず目的を果たしてみせる)


 夢に対抗するように己の目的を思い出すも、夢はますますリアルさを具現化させていく。

 呪いを受けた痛みも、初めて聞いた怨嗟の声も、死が全身に這い寄る感覚も。

 諦めの悪い自分を責め立てるように、悪夢は何度も繰り返す。


 悪夢による攻撃に耐え切れず、徐々に荒い呼吸を繰り返す。

 全身の毛穴から汗が溢れ出し、痛みに耐えるように歯を食いしばった時。


「―――カロン様」


 いつもの声が、悪夢から目覚めさせた。



 静寂を破るような荒い息と呻き声。

 一糸纏わぬ姿で眠っていたフィリエは、その音で目を覚ました。


(ああ……またですか)


 毎夜、月が高くなる頃になるとカロンは悪夢に魘される。

 内容はいつも同じ、アリナによってカロンが決められた年で死ぬ呪いをかけられた日。

 本人の意思など関係なく、悪夢はこうしてカロンを襲う。


「―――カロン様」


 その時、決まって自分が起こす。

 名前を呼び、軽く体を揺さぶらせると、彼はびくりと震えながら目を開ける。何度か深呼吸を繰り返し、自分の姿を目視すると安堵したように息を吐くのだ。

 上半身を起き上がらせたカロンを横目に、フィリエも起き上がりサイドテーブルに置かれていた水差しを渡す。


 差し出された水差しを見て、カロンは無言で受け取り、そのまま中の水を飲む。

 喉元がごくごくと上下に動き、中の水が急激に減る。中身が空になると、ようやく落ち着くのだ。


「……面倒をかけたな」

「いいえ」


 空の水差しを受け取り、魔法で中身をもう一度水で満たす。

 魔法で生み出した水は微弱ながらも魔力が宿っており、飲んだら軽い魔力酔いになるか腹を壊してしまうが、カロンの魔力値は高い方なので問題はない。

 中身を入れた水差しをサイドテーブルに戻すと、カロンが肩を掴んでそのままフィリエを組み敷いた。


 ギシギシとベッドのスプリングが鳴り、お粗末程度にかけていたシーツを剥ぎ取られる。

 昔の貧相な体はなく、何度も男と寝て豊満に育った自分の肢体を見下ろすカロン。

 いつもなら無感情で見つめる眼差しが、今日だけは潤んだ熱を宿している。初めて見るそれに何故か緊張し、もぞりと体を動かした。


「……どうした?」

「いえ……少し、肌寒かっただけです」

「そうか」


 適当についた嘘を素直に受け入れたカロンは、そのままフィリエの唇と自身の唇を重ねる。

 無遠慮で荒々しいディープキスに、くぐもった声を上げながら縋るようにシーツを握り締める。

 それを見て、カロンがゆっくりと自身の手と自分の手を重ねて繋いだのを見て、フィリエは内心動揺する。


(どうして……? いつもなら、こんなことしないはずなのに……!)


 カロンにとって、フィリエは都合のいい娼婦。

 それ以上も以下もない関係だったはずなのに、こんな……こんな恋人の真似事をするなど。

 突然の変化に戸惑いながらも、カロンの口づけに答えるのに精一杯。ようやく唇が離れたのは、フィリエの呼吸が苦しくなり始めた頃だ。


「はっ……どう、したの、ですか……? こんな……恋人のようなことを……っ」

「他意などない。ただ、そうしたかっただけだ」


 フィリエの問いに無感情で答えるカロン。

 今日ばかりはその答えが納得できず、問い詰めようとする前にカロンがフィリエの細い首筋を軽く噛んだ。


「あ……っ!」

「お前は何も気にしなくていい。いつものように、私に抱かれて感じていろ」


 有無を言わせぬ口調と共に、カロンの手がフィリエの太腿を這う。

 触れるか触れないかの微妙な触り方に背筋をぞくぞくとさせていると、そのまま上に覆い被さられ、フィリエの口から甲高い嬌声が漏れた。

 ぴったりと隙間なく肌を重ね合わせる中、フィリエは快楽と困惑を入り混じった表情でカロンを見つめる。


(何故ですか……何故、恋人のように触れるのですか? 何故、そのように優しく抱くのですか? 何故、そんなに熱っぽい目でわたくしを見つめるのですか?)


 問いたくても、体を攻め立て続けられて言葉が出ず、出るのは甘い声だけ。

 必死に快楽を受け止めるフィリエを、カロンは夜が明けるまで愉悦を滲ませた顔で見つめ続けた。

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