第237話 突き刺さる黒刃

「――あなたは、自分の人生が幸せなものだと感じてますか?」


 一体どれほど経ったのだろうか。

 日向は目の前にいる小夜子と対峙してから、どちらも何もせず睨み合っていた時、ようやく口を開いた小夜子の言葉に眦をぴくりと動かした。


「……あたし個人としては、今の人生はとても幸せだって感じているけど」

「そうですか。ですが、私は違います」


 日向の答えに興味なく返すと、そのまま小夜子は杖を突きながら歩き始めた。

 歩くといっても日向の方へ向かうのではなく、探偵が謎解きをする時に一定の場所を往復するような歩き方だ。


「私の人生は、屈辱と憤怒に満ちた人生でした。結婚したくない相手の妻となって褥を共にし、欲しくない子供を家の命令で強制的に孕まされ、死ぬほど痛い思いをして産んだ子供は私の言うことを聞かず好き勝手に生き、最後にあんな出来損ないが孫になった…………こんな人生のどこに、幸せを感じるのでしょうか?」


 小夜子の語る過去は、日向が生まれるよりずっと昔の女性が経験したものだ。

 当時の結婚適齢期は今よりもっと早く、結婚こそが女性の幸せという固定観念が強かった。小夜子も例外ではなく、普通の少女としての青春を楽しむ前に結婚を強いられたのだろう。


「だから、私は決めたのです。この人生をもう一度やり直して、今度こそ幸せを手に入れるのだと」

「そのために、『蒼球記憶装置アカシックレコード』が欲しいってわけね」

「ええ。ええ。そうです!」


蒼球記憶装置アカシックレコード』の名を出すと、小夜子は恍惚とした笑みを浮べた。

 その顔は進行対象を前にして、胸の中で抑えていた歓喜が溢れ出てしまったようなもの。

 少なくとも、日向にとってはその顔はひどく不快なものだった。


「『蒼球記憶装置アカシックレコード』! 私の願いを叶えてくれる夢の魔導具! そんなものをあなたのような挫折も知らない小娘が持っているなど分不相応、宝の持ち腐れです。あの魔導具は、私のような者が持ってこそ相応しい働きをしてくれるのです!」


蒼球記憶装置アカシックレコード』について何も知らない、上辺だけの情報しか話さない小夜子に不快感がさらに湧き上がる。

 あの魔導具が、一体どれほどの危険性を秘めているのか彼女は何も知らない。ただ、己の人生をやり直してくれる便利な道具としか見ていない。


 ――そして、『蒼球記憶装置アカシックレコード』はもう自分が持っていてはいけないものだ。


「…………ずいぶんとおめでたい頭をしているね」

「……なんですって?」


 鼻で笑う日向に、小夜子は鋭い眼差しを向ける。

 人一人くらい簡単に殺せそうな目つきに屈することなく、日向は真っ直ぐその目を見据えた。


「そんな自己中心的なことのために『蒼球記憶装置アカシックレコード』を使う? ふざけないで。これは、あなたのような人がそう簡単に扱えるものじゃない」

「ただの詭弁よ。第一、『蒼球記憶装置アカシックレコード』が本当に〝神〟とやらの所有物だということすら疑わしいわ」

「あなたにとってはそうかもしれないけど、これは紛れもない事実だよ。この力は、もはや人も魔導士の領域を超えた、あたしにとっては過ぎたるもの。だから――」


 そこで言葉を切り、日向は言った。

蒼球記憶装置アカシックレコード』の今後に問いかけたギルベルトに向けて答えた言葉を。


「――あたしは目的を果たし、そしてこの命が尽きる前に、『蒼球記憶装置アカシックレコード』を〝神〟に返還する」


 その宣言は、目の前にいる小夜子だけでなく背後にある通路で身を隠していた悠護も言葉を失った。

蒼球記憶装置アカシックレコード』の返還。

 それは、『蒼球記憶装置アカシックレコード』の力によって存在していた無魔法の消滅と同義だ。


 そもそも、無魔法はローゼンとベネディクトがアリナの生き様を世界中に知らしめるために九系統魔法の一つとして入れたものだ。

【魔導士黎明期】の時点では系統魔法は八種類しかなかったし、無魔法が消えても系統魔法の数が元に戻ったというのがクロウの生まれ変わりである悠護の認識だ。


 しかし、無魔法を喉から手が出るほど欲していた者達にとっては、その消滅はかなり痛い損害になる。

 そしてそれは、『蒼球記憶装置アカシックレコード』を利用したいと思っていた者達にとっても同じだ。


「『蒼球記憶装置アカシックレコード』を、〝神〟に返還するなど……正気ですか……!?」

「正気も何も、『蒼球記憶装置アカシックレコード』は元々あたしが勝手に借りただけ。それを持ち主に返すのは当然の義務よ」

「そんなこと、そんなこと! 許されるわけがない! その力があれば、世界など簡単に手に入るというのに! あなたは……あなたは、存在していることすら分からない〝神〟のためだけに返すというのですかッ!? そんな愚行を……この私が許すとお思いかぁあ!?」


 目を血走らせ、口から唾を飛ばす勢いで叫ぶ小夜子。

 しかし、日向は凪のように静かな目をしながら言った。


「それを決めるのはあたしだよ。あなたじゃない」


 まるで聞き分けのない子供を諭すような言い方をする日向に癇が触ったのか、小夜子が杖を強く突いた直後、床から現れた大量の土槍が日向に襲いかかった。



 小夜子の放った土槍は、完全に日向の命を奪うためだけの凶器だった。

 鋭く尖った先端が日向の足や腕を重点的に狙ってくるが、《スペラレ》を振るいながら切り倒していく。

 しかし土槍は数を増やし始め、足元から現れた土槍が日向のふくらはぎを掠った。


 鋭い痛みに顔をしかめながらも、すぐに後退し無魔法で全方位に展開されている魔法を無効化させる。

 床の下に潜んでいた未発動の魔法も甲高い音と共に砕け散った。

 その音を聴きながら、小夜子は強く歯を食いしばりながら叫んだ。


「ずいぶんとご大層な理由を吐きましたが、本当はその力を独占したいだけでしょう!? 無魔法という力を手放したくないからこそ、あんな虚言が出たのではないのですか!?」

「違う。あの言葉は、全部本心だよ」

「どこまでも、勘に障る娘ね……!」


 小夜子が再び杖を突くと、今度は炎の車輪が現れる。

 大人一人分の大きさと高さをした車輪が、ギュルルルルッ!! と音を立てて襲いかかる。《スペラレ》で受け止めるも、凄まじい遠心力と熱量で手が徐々に熱くなってくる。

 やむを得ず強化魔法で膂力を向上させ、炎の車輪を頭上へかち上げた。


「『0ゼルム』ッ!!」


 詠唱と共に《スペラレ》の剣身に琥珀色の魔力が纏われ、斬られた炎の車輪は黒い焦げとなって消える。

 間近で高熱量を浴びた日向の顔から大粒の汗が筋となって流れて始め、それを魔装の袖で乱暴に拭った。


(今の魔法……正直、危なかった……)


 あの炎の車輪は、『火焔車イグニス・ロタム』と呼ばれる自然魔法の上級魔法に位置付けられている。

 車輪のスピードはレース用ボートを上回り、高熱量の炎はコンクリートやアスファルトを簡単に溶解させるほどの威力を持っている。


 いくら魔導士であろうとも、殺傷ランクBに入っているあの魔法を長時間受け止めることはできない。

 受け止めて停止させる前に、魔導士自身の肉が炭化するほど焼け落ち、骨が露わになる。

 正直、あの数秒でその危機を瀕し無魔法で消した自分はナイスファインプレーだと日向は内心思った。


「『蒼球記憶装置アカシックレコード』は絶対に返還させない。あなたを殺して、私が手に入れてみせる!!」


 小夜子のコスモス色の瞳は、強い執念と羨望の炎で燃えていた。

 他者によって自由な人生を奪われ、人生のやり直しに固執する魔女。

 そのために『蒼球記憶装置アカシックレコード』を欲する姿は、いつか現れるだろう簒奪者そのもの。


 しかし、日向も『蒼球記憶装置アカシックレコード』を好き勝手に利用されるわけにはいかない。

 いずれ、あの美しく優しい〝神〟に還すために。

 彼女にも、カロンにも、奪われてはいけない。


「守ってみせる。『蒼球記憶装置アカシックレコード』は、ヤハウェのものだから」


 小夜子が三度杖を突く。

 それを合図に、日向は勢いよく床を蹴った。



☆★☆★☆



 音色が響く。美しく透明感のある木管楽器を奏でるたびに、旋風が巻き起こる。

 尋常ではないスピードで迫り、切れ味もある旋風を躱しながら、楓華は凛音に接近するもさっきと別の音色が響くと今度は炎の壁が生まれる。

 目の前で視界が真っ赤に染まったことに反応し、すぐさまバックステップを踏み回避。楓華の顔から汗が流れるのを見ながら、凛音はすぐに別の魔法が発動できるよう指先に触れているキーを移動させた。


 凛音の音干渉魔法は、キー同士の組み合わせによって様々な効果が発動する。

 超音波や音による錯乱など音干渉魔法本来の効果はもちろん、母親が得意とした自然魔法も音色を奏でるだけで発動できる。

 この二つの魔法しか上手く使えないことは、当時の凛音にとってはコンプレックスだった。


 オッドアイ持ちの魔導士は、血を受け継いだ親の得意魔法しか上手く使えないという性質は未だ科学的に解明できていない。

 一番信憑性のある仮説では、オッドアイ持ちの魔導士は胎児の時に親の魔力の影響を強く受けてしまい、魔導士として覚醒する確率は通常より高くなるメリットがあるが、デメリットとして親の得意魔法しか上手く使えなくなるというものだ。


 正直、凛音もその仮説は一番正しいと思う。

 現に音干渉魔法と自然魔法以外はすべてダメで、防御魔法も初級しか使えない。

 社会に出れば上級魔法を使う魔導士は多く存在し、自分の初級防御魔法では簡単に突破されてしまう。

 桜小路家の跡継ぎとしては不安しかないと周囲から言われ続け、何故自分はこの家に生まれたことさえひどく恨んだ時もある。


 しかし、凛音はこの不便な体質をマイナスなものにしなかった。

 両親のアドバイスもあったけれど、一番の理由は楓華のある言葉のおかげだ。

 あの言葉がなければ、凛音は自分自身を永遠に嫌ったまま不完全な魔導士として一生を終えていたかもしれなかったから。


(だからこそ、今度は俺が楓華を助けるんだ!)


 キーを動かし、違う音色を奏でる。

 音色と共に起きたのは渦巻く水。渦潮のように現れたそれが、遠心力で楓華の体を引きずろうとする。

 渦潮に巻き込ませ、目を回している間に意識を奪わせる戦法だ。


 しかし、楓華は凛音の思惑の範疇を超えて、自ら渦潮へと巻き込まれていく。

 渦の流れに逆らわず、タイミングを見計らって足の裏に集中しながら風魔法を発動。ジェット機のようなスピードで渦潮から脱し、楓華は《黒牙》を凛音に向ける。

 無機質な双眸をした少女を見て、凛音はフルートを手放し、そのまま両腕を広げる。


 何もせず、ただ突っ立つ凛音に向けて、楓華は《黒牙》を彼の胸に向かって突き刺した。

 ドスッと刃が肉に刺さる感触。突き刺された胸から血が溢れ出し、痛みが全身を駆け回る。口からも血を流しながら、凛音はそっと楓華を抱きしめた。

 突然触れられ、抱きしめられた少女の体がびくりと震えるのを感じながら、凛音は優しい声で言った。


「ごめんな……ずっと、ずっと一人にして……、でも…………もう大丈夫、だか、ら………。俺が、ずっと……お前の、そばに、いて、や、るよ…………」

「…………あ……………」


 楓華の口から震えた声が出る。

 徐々に視界が霞む中、凛音は万感の想いを込めて告げる。


「――大好きだぜ、楓華」


 その告白をした直後、凛音の体は楓華の体の横を通り、そのまま床に倒れた。



 理解できなかった。

 何も感じず、考えられない思考の中、楓華は足元にいる少年を見つめる。

 桜色の髪をした彼は、胸に《黒牙》を突き刺した状態で横になって倒れていた。


 最初、この少年が一体どこの誰なのか、楓華には分からなかった。

 思考することすら奪われ、ただ命令に従うだけの人形と化していた彼女に、少年の正体を認識する力はなかった。

 だけど。


『――大好きだぜ、楓華』


 あの優しい告白を聞いた瞬間、真っ暗だった目の前が光に包まれる。

 灰色だった景色が色づき始め、そしてようやく自分が刺してしまった少年が凛音だと気付いた瞬間、楓華は顔面蒼白しながら叫ぶ。


「凛音ッ!!」


 普段なら出ない大声で叫ぶ楓華は、急いで彼の胸に刺さっている《黒牙》を抜く。

 そのまま治癒魔法で止血し、着ていた服の裾を破いて包帯代わりにする。祖母の厳しい訓練とお仕置きで培った自己流の手当てがまさかここで役に立っていると驚愕しながら、包帯にした裾をきゅっと強く結ぶ。


 なるべく傷が痛まないように背負い、現れた廊下に向かって歩き出す。

 背中から感じる温度と鼓動に凛音はまだ生きていると信じながら、楓華は現れたドアを開く。

 ドアの先には何故かお茶を飲んでいる心菜達がおり、楓華と凛音を見て顔色を変えた。


「た……助け、てください……! 私のせいで、凛音が……凛音が……!!」

「こっちに来て! すぐに治療するから!」


 普段とは違う鋭い声を発する心菜の指示に従い、楓華はレジャーシートの上にゆっくりと凛音を寝かせる。

 心菜が上級生魔法を発動し、ペリドット色の魔力が凛音を包み込む中、楓華は震えた声で謝罪する。


「ごめんなさい、ごめんなさい……私のせいで……私が弱かったせいで、トランスモードになって……凛音をさ、刺してしまって……ごめんなさい……!」

「いや、お前は悪くない」


 自分を責める楓華に、樹は背中をそっと優しく撫でた。


「こうなったのも、全部お前のばあさんのせいだ。そして、凛音はお前に刺される覚悟で助けに来た。……お前は、こいつの頑張りを無駄にする気か?」

「そ、れは……っ」

「今のお前にできるのは、凛音の無事を祈るだけだ。それ以外はするな。いいな?」

「…………はい……」


 樹の正論に返す言葉もなく、青白くなっていた凛音の顔に赤みを取り戻し始めているのを見ながら、楓華は強く目を瞑り、爪の痕が残るほど手を組みながら必死に祈った。


(神様……お願いです。凛音を……どうか、助けてください……!)


 その祈りが届いたのか、凛音の指先がぴくりと震えた。

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